「社会不適合的気質で辛い」←愛着障害のせいかも

自身が“社会不適合的気質”であることに悩まされている方は、少なくないと思います。取り分け学生生活や社会生活において、皆が当たり前にできていることができなかったり、できたとしてもそれに過剰のストレスを感じたり、また皆が当たり前に受け入れていることをどういうわけか自分だけ受け入れることができなかったりといったシチュエーションにおいて、それを強く感じるはずです。

周囲が当たり前に耐えていることに、自分だけ耐えられない。
周囲が当たり前に楽しんでいるコミュニケーションに、苦痛を感じる。
周囲が当たり前に受け入れている価値観に、過剰の反発を覚える。

これら「自分は社会不適合者なのではないか」と疑わされる物事の共通項は、「その他大勢と自身との相違」にあります。均一化への抵抗。自分だけが浮いているような感覚。自身が、周囲の水と馴染まぬ油のような存在になってしまっているような心持ち。「どうして自分だけ他人と同じようにしていられないのだろう」とする懊悩(苦悩)が、その人の“社会不適合感”とでもいったものをつくり上げているのだろうと想像します。

さて、こうした“社会不適合的気質”の原因は一体、なんでしょうか。どうして「自分だけが異質だ」と感じ、事あるごとにコミュニティ内で孤立しているような感覚を覚えてしまうのでしょうか。

これらの問いに対する回答は複数考えられるのですが、この記事では「“愛着障害”が原因の一つとして潜んでいる」という観点から、考察を進めていきます。

私は人との間に壁をつくる

愛着障害とは

愛着障害とは、子供が養育者との間で情緒的な絆を結べなかったことにより、対人・認知・ストレス耐性・発達の面で困難を抱えている状態のことで、社会生活が著しく障害されている程度のものを「愛着障害」と言います。(そうでないものは「愛着スタイル」などと呼ばれます。)

愛着障害(ないし偏った愛着スタイル)を持つ人は、そうでない(non-愛着障害の)人とは異なる様式で対人・認知(物事の受け止め方)を発達させています。そのため、愛着障害(ないしスタイル)を持つ人は、「周囲の人と自分は何かが違う」といった違和感を覚えやすくなるのだと考えられます。

例えば対人面で、愛着障害の人とそうでない人の違いが明確に表れます。

・non-愛着障害の人はTPOに応じた適切な距離感で対人関係を築くことができるのに対し、
・愛着障害の人は距離感を誤り、近づきすぎてしまったり、
 逆に距離が遠すぎて、どんなに関わっても親密な関係に発展しなかったりする

というのは、典型的なものです。

また、認知(物事の受け止め方)の面でも、違いは明白です。
いつもは元気よく挨拶してくれる同僚が、今日は何だか素っ気ない挨拶しかしなかった。そんなとき、

・non-愛着障害の人は、「今日はお疲れなんだろうな。そっとしておこう」とか「何か考え事でもしていたのかな。後で聞いてみよう」等、事実を冷静かつ客観的に捉えることができますが、
・愛着障害の人は、「きっと同僚が素っ気ないのは自分が何か悪いことをしてしまったからだ」など、物事を悪い方へと考えてしまう傾向にあります。

以降、こうした両者の対人・認知に関する様式の違いが、「その他大勢と自身との相違」として表れている、ひいては、「社会不適合的気質」の原因の一つになっているというのが、この記事の論旨になっていきます。

愛着障害は4タイプに分けられる

人は生まれてより、初めに養育者とのコミュニケーションを通じて、対人関係や認知の様式を学んでいきます。これは言い換えると、養育者からどのようなサインを受け取るかによって、子供の対人や認知の“型”というものは変わってくるということです。

子供の発達において重要になるのは、
養育者がその子供にとって、安心できる存在か(安全基地として機能しているか)?
ということです。子供にとって、養育者は危険から身を守ってくれる存在か、信頼できる存在か、充分な愛情と承認を与えてくれる存在か、自分の気持ちを適切に汲み共感してくれる存在か――こうした問いかけに“Yes”の回答を与えてくれる養育者との相互的な関わりによって、安定した対人・認知の“型”を身につけていきます。

具体的には、自分は生きているに足る存在で、愛されるべき存在であり、自分の身に何か危険があった際には、養育者が必ず守ってくれる、といった“安心感”をベースに、対人・認知の“型”を発達させることができます。だからこそ、安定した対人関係を築くことができるし、物事も冷静かつ客観的に捉えることができるのです。

さて一方で、養育者がその子供にとって「安全基地」とならない場合もあります。「肉体的虐待をする親」や「ネグレクトする親」がその典型と思われるかも知れませんが、実はそうした「表面上、明確に表れるケース」ばかりが弊害になるわけではありません。
過保護や過干渉によって子供の主体性を奪ったり、子供を心理的コントロール下に置き操り人形のような存在にしてしまったり、気持ちを無視したり、または求めていないものを与え続けたりするといった対応によっても、子供は安定した対人・認知の“型”を身につけることが困難になります。

さて、そうした子供は、「安心感を与えてくれぬ養育者に適応するような対人・認知の“型”」を身につけるのですが、その型は養育環境によって、以下の4パターンに大別できます。

回避型愛着障害(回避型愛着スタイル)

回避型愛着障害の人は、「誰にも愛着しない」ことを特徴としています。ネグレクトを受けた人に特徴的な傾向です。
幼少期、自分が幾ら求めても一向に愛情や関心を与えてくれない養育者に適応する形で、「情緒的な事柄」の類を自身の心から切り離しています。そのため、人と心を通わすとか、人と内面から結び付くとか、そういったことに興味を示しません。

回避型の人にとっての「対人関係」は、「利害関係」や「力関係」に基づくものであるため、例えば「飲み会」や「とりとめのない雑談」のような「人との交流を深める場・機会」には価値を見出しません。そんなものに時間を取られるくらいなら、さっさと家に帰って自分の好きなことをしていたいと思います。人付き合いに興味が湧かず、一人でいることを好みます。

人と心を通わせないので、回避型の人と関わる人は、関わっている時間の割に一向に心の距離が縮まらないことに、もどかしい思いをするでしょう。

人の心を信じられないため、信じられるものは目に見える「お金」や「権力」といったものに偏りがちです。目的もなく人と関わることに価値を見出せないので、一人でいても、友達がいなくても苦になりません。何事も一人で楽しもうとします。

人との内面的な繋がりのようなものを信じられないので、人に弱みを見せられません。「ピンチの時、人は助けてくれるものだ」という考えがありません。そのため、仕事等で自分のキャパシティを超える課題に直面しても、周囲に助けを求められません。「助けを求める」ことは「人に弱みを見せる」ことと同義と考えているので、一人で頑張りすぎてしまいます。

また、人は不安を感じた時には人との関わりをより一層求め安心感を得ようとする傾向がありますが、回避型の人は逆に、人との関わりを断ち、一人引きこもります。情緒的なものを内面から締め出しているため、人からの共感や同情といったものは、何も意味を為さないと思います。そんな意味のないものを与えられるくらいなら、一人引きこもっていた方が(弱みをみせない分)マシだと考えます。

人の心に興味を示さないだけでなく、自分の気持ちにも鈍感な傾向があります。対人関係に囚われず、どこか超然としている、達観しているような印象を与えることもあります。

人との情緒的な関わりに喜びを見出せず、人に助けを求めず自力で頑張りすぎてしまい、それでいながら、上司や先輩との関係は希薄であるため、どうしても職場では過小評価されがちになってしまう。
回避型特有の対人・認知の“型”には、このような問題が横たわっています。

不安型愛着障害(不安型愛着スタイル)

不安型愛着障害の人は、回避型の人とは対照的に、「誰にでも愛着する」ことを特徴としています。幼い頃、養育者から「条件付きの愛情」しか与えられなかったことによる愛情飢餓感を抱えていたり、過保護・過干渉の養育環境で育ったことにより主体性が侵害され、人からの評価がその人の存在価値を決定する尺度となったりしてしまっている。そんな思考がベースとなり形成された対人・認知の“型”もまた、不安定なものにならざるを得ません。

幼少期に養育者から「ありのままの自分」を愛されておらず、例えば自分が「いい子」にしている時だけ、養育者の「言いなり」になっている時だけ愛されるといった「条件付きの愛情」しか与えられなかったり自分の気持ちをあまり理解してもらなかったことによって、内面に底知れぬ寂しさを抱えたりしています

愛されるためには養育者の価値観に染まらなければならず、小さい頃から散々、自分の意思や感情を抑圧してきたことから、自分に自信がなく、人の顔色を過度に伺い、自身の存在価値を他者からの評価に依存するような傾向が見られます。愛情に対する飢餓感を抱えているため、「認めてほしい」「愛してほしい」といった気持ちが強く、それが強すぎるあまりに、人との適切な距離感が掴めず、親でない人に、自分の親が与えてくれなかった愛情・承認を与えてくれることを期待してしまったり、大した内面の繋がりの持てぬ人とも、いとも簡単に恋愛関係に発展してしまったりします。

あらゆる事柄が対人関係の問題に置き換わってしまうのも大きな特徴で、例えば仕事でミスをして上司に注意された際、通常は「仕事のミスを注意された」と捉えればいいところを、「自分の存在を否定された」と、対人関係の悩みにまで発展させて考えてしまいます。

「人から認められたい」「人から愛情を与えられたい」という欲求が強く、常に自他共に対し完璧を求めます。これは小さい頃、「いい子」でいれば愛され、「そうでない子」でいれば見捨てられたという経験から、物事を「白か黒か」といった極端な思考で解釈しているためです。そのため対人関係において、自分が求めている反応をくれる人は「いい人」、そうでない人は「悪い人」と、両極端で不安定な対人関係を築きがちになります。自分が好かれようと過度に人に気を使うため、人を求めていながら、人と関わると大きく疲弊します。

人からの愛情、承認を過度に求め、また、人から認められるために対人関係で気を使いすぎて過度に消耗し、加えて他者には求めすぎてしまう(これはすなわち、その対象に“自分の親代わり”になることを求めている)あまり、安定した対人関係を築くことが難しくなります。また自分に自信がないので、あらゆる物事を否定的に捉えたり、対人関係の問題に置き換えたりしてしまうことで、問題の一つひとつに対し必要以上の疲弊をしてしまう。こうした対人・認知の“型”が、社会適応を困難なものにしています。

恐れ・回避型愛着障害(恐れ・回避型愛着スタイル)

恐れ・回避型の人は、「回避型」と「不安型」の傾向を併せ持った特徴を示します。

過保護・過干渉の家庭に育った人に見られる特徴で、何かにつけては過度に干渉してくる養育者との煩わしさを伴った関係から、「他者は自分の主体性を侵害してくる邪魔な存在だ」といった“人間不信”の面を抱えています。

一方で、養育者から「ありのままの自分」を愛されなかったことによる愛情飢餓感を抱えており、また、養育者の思い通りに振る舞う時だけは愛情が与えられたという経験から、人から「認められたい」「愛されたい」といった底なしの願望を持ち、相手に合わせることによって不足した承認や愛情を得ようとする行動パターンがしみ付いています。

そのため、人から気に入られようと誰彼構わず顔色を伺い、迎合し、気に入られようと必死に努力する傍ら、一方で「人間不信」があるため人と心から通じることはできず、親密な関係まで発展することが少ない。けれども回避型の人のように、人との情緒的な結びつきというものを完全に心から切り離し、「人間付き合いなんて不要」と超然とばかりもしていられない。

人から認められたい、愛されたいけれど、人を信頼できず、心から打ち解けることはできない。結果、欲しいものは一向に得られない。そんなアンビバレントな感覚で苦悩するのが恐れ・回避型の特徴です。無論、そうした対人・認知の課題を抱えながら社会適応していくことは、容易なことではありません。

未解決型愛着障害

未解決型の人は、養育者との関係において心に大きな傷を引きずっていて、その傷が対人関係においてネガティブな影響を及ぼしていることを特徴としています。心に抱えた大きな傷として、養育者からの虐待等がそれに当たります。それ以外のことに関しては平静に語ることができるのに、心の傷に関連する話題になった途端、動揺したり、混乱したりと、不安定な面を見せ、そのことに関して冷静に語ることができません。

未解決型には二タイプが存在します。
一つが、「未解決型」と「不安型」が同居しているケースです。心の傷に関連すること以外の対人関係においても、「不安型」の特徴と同様、傷つきやすく、過剰反応してしまいやすいです。些細なことがきっかけで、気分や態度が変動する情緒不安定な傾向と、自分を損なうような行動をしてしまう自己破壊的行動が見られます。

もう一つが、「未解決型」と「回避型」の同居しているケースです。大きな心の傷を抱えながら、人との距離を取ることで心のバランスを取っています。その特徴は「恐れ・回避型」と概ね一致します。

ストレス耐性・まとめ

以上、愛着障害(愛着スタイル)の人の持つ対人・認知の様式が、社会生活に及ぼす影響について言及してきました。もしかすると、漠然とした「自分って社会不適合者かも」といった感覚の正体とその原因は、幼少期に置かれた環境への適応のため、やむを得ず身につけた対人・認知の“型”に依るものかも知れません。

また、幼少期に養育者と安定した愛着(情緒的な絆)を結べないと、その人の体内の「オキシトシン受容体」が減少するという報告があります。オキシトシンは「愛情ホルモン」とも呼ばれ、人との情緒的な絆を維持するのに必須のホルモンですが、そのオキシトシンの別の働きに、「ストレスや不安の軽減」というものがあります。

すなわち、愛着障害を抱える方は、そうでない他者よりも、同じ物事を受け取るのでもより多くの精神的苦痛を感じている可能性があります。更に前述した通り、愛着障害を抱える人は認知がネガティブなものになりがちです。そのため、「普通の人が当たり前に耐えていることに、どうしても耐えられない」と感じるのも、無理はないことなのかも知れません。

もし、「自分は社会不適合的気質」の持ち主で、かつ、ここに書いてあることに共感するところが多かったのなら、愛着障害を疑ってみるのも原因の究明に役立つかも知れません。

興味のある方は、以下の書籍を参考にしてみるのもいいと思います。

参考文献
岡田尊司『愛着障害 子ども時代を引きずる人々』(2011)光文社新書
岡田尊司『愛着障害の克服』(2016)光文社新書
岡田尊司『回避性愛着障害 絆が希薄なたち』(2013)光文社新書
岡田尊司『死に至る病 あなたを蝕む愛着障害の脅威』(2019)光文社新書
中野信子『毒親 毒親育ちのあなたと毒親になりたくないあなたへ』(2020)ポプラ社
石井光太『虐待された少年はなぜ、事件を起こしたのか』(2019)平凡社新書

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8件のコメント

  1. 通りがかりですが、コメント失礼します。
    私はずっと生き辛さを抱えて生きています。周囲と同じようにコミュニケーションが取れないこと。友人や恋人が出来ないこと。職場で上司の期待に応えられないことなど。「なぜ自分は他の人と同じように生きられないのか」と悩んできました。

    数年前にカウンセラーから「それは親の育て方に原因があるのでは」と言われた時は、反発心を覚えました。だって私は愛されていたし、その自覚があったからです。
    しかし最近感じるようになりました。両親は「人生の理想像」がガチガチに固まっていて…これぐらいの学歴があり、これくらいの収入があり、何歳までに結婚して、何人子供を産んで…それを全て叶えるのが「当たり前」という感覚があります。なのでそれが全く叶えられていない私を「なぜお前は普通になれないのか」「真面目に努力しているのか」と責め立てます。
    それは単純に「子どもの将来を案じる親心」なのかもしれませんが。どうにも苦しくなってきました。親の出した目標をクリアできない私は、生きる価値がないのではと思ってしまいます。
    「親元を離れるべきでは」と思うようになったのは、1年ほど前からです。ですがなかなか出られません。両親は「お前に一人暮らしなんて出来るのか?」と言います。私自身、「どうせ家を出たところで私は失敗するだろう」「何をしても私の人生は失敗だ」という気持ちが付きまといます。

    長々と思いの丈を書いてしまいすみません。失礼いたしました。

    1. はじめまして。コメントをくださり、ありがとうございます。

      文章から、ご両親の期待に応えようと精一杯、生きてこられたのだなという印象を受けました。

      たとえ親にその気がなかったとしても、価値観の過度の押しつけは子供を苦しめてしまいますよね。
      それから、期待に応えられなかった子供に失望したり、責めたり、罪悪感を持たせたりするのも然りです。親から否定されて育った子供は、「自分はダメな人間だ」とする誤った信念を持ちやすくなってしまいます。
      自己否定感が強いと、あらゆる物事の受け止め方がネガティブになりますから、対人、認知の面でたいへん苦労しやすいです。

      親も一生懸命育ててくれたのだという認識が「原因を親に帰着させること」への抵抗となり得ますが、「一生懸命育ててくれたこと」と「その一生懸命さが果たして子供のためになっていたか」という点に関しては、別のものとして考える必要があるかも知れませんね。

      ・親と子供は独立した存在であること。子供はある年齢になれば親に縛られず、自由に生きて良いこと。自由な選択を行って良いこと。
      ・自分はそれほど「ダメな人間」でないこと。それは幼少期より抱かされてしまった、誤った信念であること。
      ・「失敗すること」は親の言うほど悪いことではないこと。誰だって失敗をする。寧ろ、失敗をする中で人は人として成長を遂げていくこと。
      ・親の言う「当たり前」は「当たり前」とは限らないものであること。世の中にはもっと沢山の選択肢で溢れていて、それらのうちどれを取るかは、自分の手で選べること。
      ――こういったことを、自分自身に優しく伝えていきたいですよね。親から「禁忌」とされてきたことの多くは、実際のところそこまで重たいものではないことを一つずつ、理解していきたいものです。

      我慢のしすぎはお体を壊してしまいますから、辛くなった際はまたいつでもいらしてください。

  2. 初めまして、本当は心療内科にでも行った方がいいのかと思いますが、なぜか不思議と記事を読んでいて、あ~まさにそれは私だと思う節があり、なぜか安心感?のようなものを感じたのでコメントさせて頂きます。
    このような記事を書いてくださりありがとうございます。

    私は高齢出産の親に生まれた一人っ子で、昔から箱入り娘として育てられてきました。
    色んな事が重なり、10年前に日本を飛び出し、そこで初めて自由に自分を表現する事が出来、本当の自分を受け入れてもらえる喜びを味わいました。今もう38歳で約10年ぶりに日本の実家に戻り、お邪魔させてもらっています。また正規の仕事もなく、独身で子供もおりません。
    親に期待され、決して裕福ではなかったのにずっとお金をかけられてきたにも関わらず、こんなんで、私は失敗作だなと感じます。大切に育てられたこと、親だって人間で、親1年生だったこと、一生懸命だったことは十分承知しています。しかし今実家に戻り、昔の事が色々と蘇り、なぜか親に当たってしまう事があります。あーしたかったのにさせてもらえなかった、そのせいで、、と、心の中で思い、その思いを発散させるかのように親に辛く当たってしまうんです。高齢の親なのに、、、大事にしなきゃと思います。もうあと何年、何回顔を見れるか分からないのだから。親の周りはみな孫がいて、そういう会話を聞くのも辛いんだろうなと思うと、なんて自分は恐ろしく親不孝で、ダメな人間なんだろうと思います。周りはみな結婚して家族がいるので余計に私は何をしているのだろう、この歳になって実家に居させてもらい、でも実家にはもう自分の居場所はないと感じては親にも当たり、私は生きている価値があるのかなと。
    でも親を大切にし、現実を受け止めて、自分が社会不適合者と認めて、親が生きている間はせめて頑張ろうと思います。

    長々と失礼致しました。

    1. コメントをありがとうございました。
      様々なつらい思いを抱えていらっしゃるのですね。どのようなお言葉を掛けたらいいかと思っているのですが,一つ言えるのは,「そのような中でも匿名さんは懸命に頑張っていらっしゃる」というのは事実なのかなと思いました。それだけの思いを抱えながら生きていくことは,本当に多大なエネルギーが要りますよね。それだけでも実は十分凄いことなのだと,ご自分を労ってあげて欲しいなと,そんなことを文章を拝見していて思いました。

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