「人の役に立ちたい」という気持ちが自尊心を傷付ける

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「人の役に立ちたい」というその気持ちは、本物か?


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1.本当は「人の役に立ちたい」のではなく「人から必要とされたい」のである

「人の役に立ちたい」という殊勝な動機を持ち、“人のため”になることに心血を注いで生きている人がいる。
これは一見すると大変素晴らしいことのように思われるが、
「一概にそう言い切ることもできない」
というのが現実である。
実際に、人の役に立とうとする人間には2 types存在する。
一つは、本当に「人のため」になることを望んでそれをやっている人である。このような人は本当に「良い人」なので何も問題はない。本記事のテーマに該当しない人達であり、こういった人達は「人のため」になることをして、その結果が如何なるものであったとしても、さほど自尊心が傷付くことはない。
一方で、本当は「人のため」ではなく、「自分のため」に人の役に立とうとする人がいる。それは自覚の有無を問わない。このような人達は、表面上では「人の役に立ちたい」という動機で「人のため」の活動をするが、その裏では「人から必要とされたい」という“自分本位”な動機で「人のため」の活動をしている。つまり口では
「人の役に立ちたい」
と言っているが、本心は
「人から必要とされたい」
のである。そしてそういった人達は、自身の(表面上)望んでいるはずの「人の役に立つ」ことをして、その点ではある程度満たされているはずなのに、いつまで経っても人生に満足できない。その上、人生が楽しくない。幸せにもなれない。そしてどういうわけか、気が付くと自分自身の自尊心が傷付いている。現実、望み通りの「人の役に立つ」ことをしているはずなのに、何故なのか。
その原因を紐解くには、そもそもどうして、そのような人達は「人の役に立ちたい」という強迫的な思考に駆られるほど「人から必要とされたい」と思うに至ってしまったのか、を知る必要がある。

2.何故「人から必要とされたい」のか

その回答は、その人自身が、「自分の存在に価値を感じられていないから」である。つまり「自己肯定感」がないから、「人から必要とされる」ことで自分の存在価値を確認しようとしているのである。
「人の役に立つことで自分の存在価値を確認しよう」としている人達は心の底で、「自分は存在する価値のない人間だ」と思っている。しかし、「存在する価値がない人間」のまま人生を送っていくことは非常に辛いものである。だから「どうにかして自分の存在に価値を与えよう」として、人からの承認を求める。人から必要とされることで、「あなたは存在する価値がありますよ」という承認を得ようと思っている。人からの承認を得ることで束の間の「自己肯定感」が生まれ、「だから自分は生きていてもいい」とする大義名分を獲得できる。要するに、
「本来自分は存在する価値のない人間だけれど、今は人様の役に立っているのだからここに存在させてね」
と主張しているのである。

3.「人の役に立ちたい」気持ちが自尊心を蝕んでいく

そうした人達は、「人の役に立ちたい」という気持ちを持って行動し、実際に人の役に立っているにも関わらず、自尊心や自己肯定感が一向に高まっていかない。それどころか自信をなくしていくことさえある。何故か。
その最たる理由は、「人の役に立ちたい」という欲求が、その人自身の本当の欲求ではないからである。心の表層では「人の役に立ちたい」と思っているが、深層では別のことを求めている。それは、
「自分を承認して欲しい」
「自分を愛して欲しい」
「自分の存在価値を認めて欲しい」
という承認欲求である。しかもここで求めているのは「条件付きの承認」ではなく「無条件の承認」のことである。すなわち、
「あなたは協調性が高いから承認します」
「あなたはハイスペだから愛します」
「あなたは人の役に立っているから存在価値を認めます」
といった「理由ありき」の承認ではなく、
「たとえ協調性が高くなくてもあなたは私達の仲間です」
「たとえハイスペでなくても私達はあなたを愛します」
「たとえ人の役に立てていなくても私達はあなたの存在価値を認めます」
という「無償」、「無条件」の承認なのである。
実際、深層心理で
「無条件の承認が欲しい」
と思っているのに、それを直接満たそうとせずに、
「人の役に立ちたい」
という「条件付きの承認欲求」に置き換えた上で、必死になって「条件付きの承認欲求」だけを満たそうとするから、自尊心や自己肯定感が高まらない、いやそれどころか蝕まれさえしてしまうのである。
また、「自分には生きる価値がない」
と心底で思いながら人の役に立ったところで、些細な失敗の一つや二つで心が大きく傷付いてしまって、とても自尊心を高く保ってなどいられない。

4.承認欲求を「間接的」に満たそうとしてはいけない

「自分の存在価値を無条件で認めてもらいたい」
という“無条件の承認欲求”を
「私は人の役に立ちたいのだ」
という“間接的な欲求”によって満たそうとすると、物事は上手く行かない。
「人の役に立つ」ことを望む人達が本当に求めているのは、
「自分がどんな人間であっても、自分が存在することの価値を認めてもらいたい」
「自分がどんな考え、行動を取っても自分は存在する価値があると認めて欲しい」
という“無条件なる”承認である。しかしその欲求は、社会生活において満たされることはまずない。社会に「一人の人間の全てを承認するだけの寛容さ」はない。例えば、「ワガママ」ばかりを言っていれば人から拒絶されるし、自身の「頑張り」を人から褒めて欲しいと思っても、それが必ずしも褒められるとは限らない。人から好かれたくて自らを削って努力をしても寧ろ嫌われてしまうこともある。信頼できる人を持っても、その人に精神的に依存しきってしまえば、いずれ関係は破綻する。
このように、
「社会は個人の求める“無条件の承認欲求”を満たしてくれるほど寛容でない」
という現実がある。そして、「人の役に立ちたい」と思っている人達は、実際にその現実のことをよく知っている。
またそれだけに留まらず、「人の役に立ちたい」と思っている人達は、自身の内面に
「無条件の承認欲求」
という欲求が存在しているのを認めることを「恥ずべきことだ」と捉えている。それは例えばこんな風に。
・ある程度年齢を重ね、身体的に成熟している“いい大人”が、「あるがままの自分を認めて欲しい」といった「無条件の承認欲求」を前面に出すことは恥ずかしい。
・自分の内面に「無条件の承認欲求」のような幼児的願望があることが恥ずかしい。
・自分に「無条件の承認欲求」があることを人に見抜かれるのが恥ずかしい。
このように、
①「社会は“個人の無条件の承認欲求”を認めてくれるほど寛容でない」
②「自分の内面に“無条件の承認欲求”の存在していることを自分自身認めたくない」
という切実な“社会的・心理的問題”があるため、「人の役に立ちたい」と思っている人達は、自身の本当に抱えている“無条件の承認欲求”を直接満たそうとしないのである。
そんな中、それでもどうにかして自身の“無条件の承認欲求”を満たそうと試みる。そこで、
到底社会的に受け入れて貰えないであろう自身の“無条件の承認欲求”
を、
社会に受け入れて貰えるような高尚な欲求
に置き換えようとする。何故なら、「世間に認められるような高尚な欲求」であるならば、同じ「欲求」であっても、それを求めたところで世間からのお咎めはないからである。そしてその置き換えた
高尚な欲求
を堂々満たしていくことで、間接的に
自身が本当に求めている“無条件の承認欲求”
を満たそうとするのである。
つまり、人から
「あなたは人の役に立って素晴らしい人ですね」
と言われるような行動を取ることによって、間接的に“無条件の承認欲求”を満たそうとする。
そしてその
「高尚で社会的に認められそうな欲求」
かつ
「自身の“無条件の承認欲求”を間接的に満たしてくれそうな欲求」
こそ、
「人の役に立ちたい」
という殊勝な欲求なのである。
しかし、「人の役に立ちたい」という欲求を満たしても、その人の抱えている「無条件の承認欲求」は満たされない。「人の役に立つ」ことで承認を得ようとする行為は、
「人の役に立つなら存在価値を認めてあげる」
という「条件付きの承認」を得ているに過ぎない。おまけに、その人自身の心底に
「自分は価値のない人間だ」
という揺るぎない自己認識があるのならば、たとえどんなに人の役に立つような良い行いを積み重ねても、自己否定的な自己認識を拭いきることはできない。
このように、「無条件の承認」を求めている人間が
「自己否定感に苛まれている状況下」で「条件付きの承認」をいくら集めたところで、根本的な問題が解決することはないのである。

5.「人の役に立ちたい」という気持ちは決して「親切心」ではない

「無条件の承認」を求めてしまう背景には、幼少期に「あるがままの自分を認めてもらえなかった」という悲しい体験がある。「自分は存在しているだけで価値がある」と思えるだけの自己肯定感が、適切に育まれなかったという過去がある。
自身が
「これが好き」
と表現したものを、親から
「こんなくだらないものを好きになるなんてつまらない子」
と否定された体験がある。
自身が
親の望み通りの行動を取れなかった
ことで、親から
「あなたはウチの子ではありません」
と存在を否定された過去がある。
このような経験により、人は自己肯定感を失っていく。そうして、
「自分の好きなものはくだらない」
「親の言う通りにできない自分には価値がない」
「自分が自分らしくあることは悪いことだ」
といった自己否定感を強めていく。先に述べたように、この「自己否定感」が諸悪の根源となって様々な神経症的思考・行動様式を誘発する。
自己否定感があるから、「自分は価値のない人間だ」と卑屈になる。
「自分は価値のない人間だ」と思っているから、「人からの承認」が欲しくてたまらなくなる。
「人からの承認」は欲しいが、自身が本当に求めている「無条件の承認」は社会的にどうしても得ることは難しいから、代わりに「条件付きの承認」を求めようとする。
そうして「条件付きの承認」を得るための大義名分として使われるのが、「人の役に立ちたい」という殊勝な欲求である。つまり「人の役に立ちたい欲求」を生じさせているのは、その人の心底に根付く「自己否定感」である。従って、「人の役に立てるか否か」が、その人の「存在価値の有無」まで決定してしまう。それが、
・過剰の自己犠牲をしてまで人の役に立とうとする
・誰彼構わず人から気に入られようとする
・こちらの親切が相手に受け取られなかったとき強い憎しみを覚える
・親切に対する見返りがないとひどく不満を感じる
といった「人の役に立ちたい」という動機から逸脱した行動・感情を生じさせてしまう。そして、これらの「行動・感情」が時に「役に立とう」とした対象を傷付けてしまうことがある。例えばこんな風に。
親戚の子供が最近流行りの某カードゲームのカードを欲しがっていた。そこで、「私がその子を喜ばせてあげたい」と思って、子供の欲しがっていたカードをこっそり買った。そうしてその子供に会った際、サプライズでカードを手渡した。その子供はお礼を言ってさっそく封を開けた。
しかしその子供は、封を開けるや否や、「あー欲しかったカードは入っていなかったな、残念」とこぼした。その何てことない些細な一言で、プレゼントした側の自尊心は傷付いてしまう。プレゼントする側の人間の心的土台が「自分は価値のない人間だ」という自己認識で固められているため、「良かれ」と思って取った自身の行動はおろか、その行動から「思い描いていたような子供の喜び」を引き出せなかったことで、自分の存在価値そのものすら、その子によって丸々「否定された」ように感じられてしまうのである。そうして、こちらの「親切心」を裏切った上、自身の自尊心まで傷付けられたことの復讐に、その子供にこっそりこんなことを言ったりする。
「折角買ってきてやったのに、その態度は何だ。もう二度と買ってきてやらない」
この一言で、その子供は傷付く。もしくは困惑する。自分から買っておいて、どうしてそんなことを言うのだろう、と。お礼なら言ったじゃないか、と。
もしこのカードをプレゼントした人間が自己肯定感の高い人であれば、
「良いカード入っていなかったの、残念だったね。今度は当たると良いね」
と言って終わる話である。わざわざ子供の無垢な発言を深読みして自分の自尊心に傷を付けたり、その復讐として子供に罪悪感を植え付けるような真似もしない。

「人の役に立ちたい」という気持ちは「親切心」では決してない。「親切心」はおろか、「自分の自己否定感を承認欲求の充足によって少しでも緩和させたい」とする「自分本位」の気持ちである。
「人の役に立ちたい」という気持ちをオーバーなまでに語る人は、一見優しいようであるが、その実はあまり優しくない。

6.「人の役に立つ」前に「自分の人生を生きる」ことで解決が見えてくる

この問題は、一旦、自身の「人の役に立ちたい」とする欲求を根本から見直すことで解決の糸口が見えてくる。日常生活のあらゆる選択を
「人がどうしたいか」
「人にどう思われたいか」
といった動機で埋め尽くすのではなく、
「自分がどうしたいか」
「自分がどう思うか」
という動機で埋めていくことで道が拓けてくるようになる。「自分の人生を生きる」ことは、「自己肯定感の高さ」に密接に関わってくる。

「“音楽鑑賞”が趣味だとウケが良さそうだから」
という動機で音楽を聴くのをやめる。
「音楽よりも読書が好き」
ならば読書に自分の時間を費やすこと。

「料理が上手だと人から“凄い”と言ってもらえそうだから」
という動機で料理を頑張らない。
「自分は料理が好きだから」
という動機で料理を楽しむこと。もし
「自分は料理がそこまで好きでない」
ならば、毎日毎日料理を頑張ろうとしないこと。たまには外食で済ませたり、インスタントで済ませてしまうこと。しかもそれらのことに何の罪悪感も抱く必要はない。

「バラエティ番組ってくだらないよね」
と友達から言われて、
「自分もそう思う」
などと嘘をつかないこと。
「えー自分は結構好きだけどなぁ」
と堂々と言ってみること。

このように、「人を主体」にしていた行動の一つ一つを「自分を主体」とする行動に替えていくこと。そうして、これまで如何に、自身の思考や行動が“人からの評価”を意識していたものになっていたか、に気が付くこと。これが「自分の人生を生きる」ことに繋がってくる。そうして、「自分の人生を生きる」ことによって、「自己肯定感」は高まっていく。自分の人生における選択の数々を、自らの意思で決めていくことが大切なのである。

休日の朝。起床後にすぐ起き上がるのも、ベットでしばらく横になっているのも、スマートフォンに目をやるのも、全ては“自らの意思”によって決められる。起きてから家で過ごすのも、外出するのも“自らの意思”によって決められる。友達と会った際に、友達の発言に迎合するのもしないのも、“自らの意思”によって決められる。外出先で友達に「私ここに行ってみたい」と言うのも言わないのも、行った先があまり良くなくて「思っていたのと違ったね」と言うのも言わないのも、“自らの意思”によって決められる。もしかしたら友達の方から「えー自分は結構良いと思ったけどなぁ」などと返してくることがあるかもしれない。それに対して、「そう言われてみればそうだったかも知れない」と返すのも、「えーイマイチだったよ」と返すのも、“自らの意思”によって決められる。

自分の人生は、思っている以上に、“自らの意思”で生きられる。
そして、
・“自らの意思”で人生を送っても、自分の思っているより、人から嫌われることはない。
・別に人の役に立っていなくても、思っているより人は自分から離れていかない。
・ということは、人の役に立てなくても、自分には生きる価値があるのだ。
という事実に気が付くことが大切である。社会は
「個人が無条件の承認欲求を満たそうとする」
には確かに不寛容だが、
個人が「その人らしさ」を出して生きていく
のを全く許さないほど不寛容ではない。その気付きによって、自分という人間の価値にも気が付けるようになる。“自らの意思”で“自らの人生”を生きることができるようになってくれば、徐々に心底に根付いていた自己否定感は消えてゆき、代わりに自己肯定感が芽生え始める。その自己肯定感が、自分という存在に対する更なる肯定をもたらしてくれる。こうなればしめたものである。
「人の役に立っていようがいなかろうが、自分は生きる価値のある人間である」
心からそう思えたとき、本記事のテーマとした諸問題は完全に解決されている。そして自己肯定感が高まった状態で、自分の人生が輝き出すようになっても尚、
「人の役に立ちたい」
と思えるのなら、それは本当の意味での「親切心」から沸き起こった気持ちである。その気持ちと自己肯定感を胸に「人の役に立つ」行動が取れたのなら、きっとそれまでよりも多くの人達から感謝されるようになる上、その行為によって、それまでよりも自分自身、ずっと大きな心の満足感を得ることができるようになっているだろう。
そして、助けを施した人から見返りを得られるか否かに関わらず、自らの自尊心が傷つくようなことはなくなっているだろう。




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「何の取り柄もない」ことを嘆く必要はない(取り柄が自己肯定感をもたらすのではない。自己肯定感が取り柄をもたらすのである!)

5件のコメント

  1. こんばんは。
    私は今年で32歳になる社会人です。今日このブログにたどり着きました。
    恥ずかしながらこの年齢で「再起」の記事に書かれてあるようなことが私の身に今起きています。非常に衝撃が大きい、というのが正直なところです。
    まだいくつかの記事しか見ていないですが、どの記事も自分がなんとなく感じていたような内容が極めて明確に言語化されていて(とても難しいことだと思います)、「自分の頭の中をのぞいて言語化しているのでは?」と思うほど共感する内容も多いです。さらに、この記事のように対処法についても考察している点もとても参考になります。
    来たばかりですが、今後も応援しています。

    1. こんばんは。ブログを見てくださり、あと応援コメントしてくださりありがとうございます。

      そうなんですね。もしかすると、根っこのところでお互い似通ったものを抱えているのかも知れませんね。
      私自身、これだけの記事を投稿しておきながら未だ確実な対処法を探し出せていないことにやきもちしているのですが、その気持ちをエネルギーに今後も勉強&記事作成に励んでいこうと思っています。今後もよろしくお願いします!

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