生きることに罪悪感を抱える人達

本記事は数年前に書いたもので情報が古いため、『生きることに漠然とした罪悪感がある理由』の方をご覧ください。

生きることに「漠然とした罪悪感」がある理由


 

 

2020年1月6日は、起床時から非常に気分が悪かった。自身の胸の内から「お前は必要のない人間だ」「お前は人の迷惑になる人間だ」「お前はこの世の邪魔者だ」といった非難が全身に響いてきて、呼吸をするのさえ、唾液を飲み込むのさえ、その場にただ居ることにさえ、苦痛を覚える程の大きな罪悪感に襲われていた。「私のような人間がこの世に存在していてすみません」という罪悪感をここまで強く自覚させられたのは、久々のことだと記憶している。
少し時間を遡るが、私は大学時代、「自分という存在はこの世のお荷物だ」という感覚を強く持ちながら生きてきた。ただ、それは私の“大学”という環境への不適応から生じた結果ということで、一応は説明をつけることができた。従って私は、自身が大学への不適応を起こしていることが原因となって、当時、このような強い罪悪感を覚えているものとばかり思っていた。
しかし、その“大学”という環境から離れ、それなりに「自分の存在が人様の役に立つこともある」ことを実感できる環境にいる今となっても、このような罪悪感に苛まれてしまうのは、この問題の根本に「環境」以外の要因が絡んでいるからに他ならない。実際に、このような罪悪感に苛まれてしまう根本の原因は、「私の内面」にあるということが最近になってようやく分かってきた。すなわち、環境が私を「世のお荷物」に扱うから罪悪感が湧いてくるのではなく、私自身が「私は世のお荷物だ」と考えているから、いつまで経っても罪悪感が消えないのである。これは何も私に限った話ではない。世の中には、客観的に「幸せ」を掴んでいてもいいように思われる人であっても、その人の内面に「自分はこの世のお荷物だ」といった罪悪感が渦巻いているせいで、幸せを感じることはおろか、場合によっては死んでしまいたくなるような生きづらさを覚えている人が沢山、存在しているわけである。
今回はそのような、人生そのものを苦痛にしてしまう「内面より生じる漠然とした罪悪感」がテーマである。
何故、客観的には「幸せ」を掴んでいてもいいように思われるステータスを持っているにも関わらず、生きづらさを感じている人がいるのか。
何故、世の中の役に立っていることを自覚できているような人間が、「自分はこの世のお荷物だ」という思考に支配され、人生に虚しさを覚えてしまうのか。
こういった問題に対し、「罪悪感」をキーワードに解説していく。

 

1.「漠然とした罪悪感」が人生を狂わせる

冒頭でも述べたように、自身の内から湧き出てくる「漠然とした罪悪感」に悩まされる人は多い。ちなみにこの「漠然とした罪悪感」とは、何故それが“今”、“この場で”生じてくるのか、いまいち判然としない罪悪感のことである。ただ、休日の日に自宅で過ごしているだけなのに「私は世の中の邪魔になる人間だ」という意識が生じ、居ても立っても居られなくなってしまう――このような理由なき罪悪感が、「漠然とした罪悪感」である。中には、自身の内から湧き出る罪悪感を「罪悪感」として認識できていない人も多いかも知れない。そのような人にとっては、何故、自分が毎日のように漠然とした不快感に苛まれているのかが分からない。自分は、客観的に、それなりに人生が充実していていい身であるはずなのに、何故か毎日が何となく不愉快である。人生において、喜びや楽しさを感じることもあることにはあるが、長続きしない。そうしてすぐに謎の不快感に襲われて、生きづらさを感じるようになっている。客観的には幸せであるはずなのに、何故――。自身の内に湧き出る罪悪感を「罪悪感」として認識していない人達は、概ねこのような感覚を持っているのではないだろうかと考える。
いずれにせよ、このような罪悪感はそれを抱える人を苦しめる。それも、人生全般に渡って苦しめる。「自分はこの世の邪魔者だ」「自分はこの世から必要とされない人間だ」「自分の存在はこの世にとって迷惑だ」といった感覚を持っていると、無意識の内に、その自己認識に見合った行動を取ろうとする。そして、そうした行動が、その人の人生を狂わしていくのである。例えば、「自分の存在はこの世の迷惑だ」という感覚により、「出来るだけ人様の迷惑にならないようにする」ということを生きることの最大の動機とする。そうなると、いついかなる時であっても、人様に迷惑を掛けないようにと常にビクビクして生きることになる。ただ駅のホームを歩いているだけでも、自分の存在が周囲の邪魔になっていないか気になって仕方がない。歩く速度は適切か、持っているカバンが誰かの通行を障害していないか、知らぬうちに誰かの目の前を横切ってしまわないか等、絶えず緊張している。電車に乗り込むだけなのに、後ろの人が自分の存在を邪魔だと思っていないか、他の人が取りたい場所を自分が占有してしまっていないか、目の前にある吊革は他の誰かが持ちたいと思っている吊革でないか等、気になって仕方がない。会社でも、疑問に思ったことを上司に聞けない、会議で自分の意見を発信できない、同僚と比較した自分への評価が過度に気になる等の不適応を抱える。友人と会っても、自分と一緒にいることで友人の時間が無駄になっていやしないか、友人の気分を少しでも害してしまっていやしないか、ということばかりが気になって、友人との健全なコミュニケーションに集中できないという不適応を生じる。はっきり言って、誰にも迷惑を掛けずに生きていくことなど不可能である。しかし罪悪感を抱える人達にとって、人様に迷惑を掛けることは、いや、自分のような社会の害悪である人間が人様の迷惑を掛けることは、どんなに小さなことでも、自身が死ぬることよりも苦しいことなのである。そのため、罪悪感を抱えている人は、なるたけ人様に迷惑を掛けぬよう、卑屈な八方美人として、「すみません」を口癖にしながら小さく小さく生きるしかなくなる。
その他、自身の内に抱えきれぬ罪悪感をどうにかして紛らわそうとして、自己耽溺に陥る人もいる。または、世間の邪魔となっている自身に対してそれに見合う罰を与えようとする理由から、自己耽溺に陥る人もいる。そういった人は、それが自分を損なう行為だと分かっていながらも、アルコールや薬物、性的逸脱、摂食障害、リストカットといった行為で「この世の邪魔者である」自らの罪悪感を紛らわせようとする。ないし、罪深い自分を自らの手で罰しようとする。
また、「自分の存在はこの世の迷惑だ」という感覚が自暴自棄の感情を生み、それが非行という形となってあらわれることもある。非行に走る人間の中には、無意識的に「人様の迷惑にしかならない自分」という自己認識と現実の自己を一致させるため、敢えて人様の迷惑になるような行為をする人もいる。そのような人は、人様に迷惑を掛けることで自己認識と現実の自己を一致させることによって、束の間の安心感を得ようとする。しかしその一方でその人の心は確実に傷付いている上、心の傷を代償として得られる安心感というものは決して長続きしない。そうして傷付いた心の空虚を埋める、ないし、自己認識と現実の自己の一致による束の間の安心感を得るため、傷付くと分かっていながらも更なる非行を重ねてしまう。
「自分の存在はこの世の迷惑だ」という罪悪感は、自身が「幸せになること」に対する罪の意識を作り出す。「自分は本来生きていてはいけない人間なのだけれど、周囲の人々の温情により生かされている」という感覚は、その人の身に訪れる幸せを悉くその人自身に否定させる。自らの身に幸せになれるような機会が巡ってきても、それを素直に受け取れない。「私には勿体ないから」「もっといい人がいるから」「私はそこまでの結果を残せていないから」と、色々と理由を付けて自身に訪れた幸せを悉く拒否する。そのような人は、罪を背負っている自分がそれに見合わぬ幸せを得ることに対し、大きな違和感を覚えてしまう。無意識の内に、「幸せになってはいけない罪深い自分」という自己認識と現実の自己が不一致を起こすことを避けようとしてしまうのである。罪深い自身が身の丈に合わぬ幸せを掴むくらいなら、不幸でいた方が何倍も落ち着くのである。
自分がこの世に存在していることに罪悪感を覚えている人は、いつも、何となく不愉快である。何故、自分が毎日のようにそのような不快感に襲われているのか、何故、自分が自分を損なうような行為を繰り返してしまうのか、何故、自分が幸せになることを恐怖し、不幸になることを進んで受け入れてしまうのか、何故、ただこの場に“居る”というだけで、こんなにも苦しさを覚えていなければならないのか、分からない。ただ、その漠然とした苦しさに対するその場凌ぎの他者迎合や自己耽溺行為を続けて、いずれその生活が破綻を来したときには、いよいよ我が身を消滅させることで全てを終わらせるしか生きる道がないのかと思う。どうして自分はそのような、生きることに不適合な人格を持ってしまったのかと嘆く。そのような不適合を起こす人格は果たして、その人の生まれ持った性格なのだろうか。それは“否”である。その答えは、幼少期の親との関わりによって植え付けられた否定的な自己認識に隠されているのである。

2.「漠然とした罪悪感」の正体

こうした自身の内から湧き出る「漠然とした罪悪感」の正体は、幼少期に親との“不健全な”関わりによって植え付けられてしまった否定的な自己認識が元となっている。漠然とした罪悪感で苦しむ人達は幼少期、精神的に未熟な親から、親の精神的葛藤の責任を不当に負わされてしまった被害者なのである。精神的に未熟な親は、自身の精神的葛藤より生じる苛立ちを子供にぶつけることによって自身の葛藤から目を背けようとする。幼少期に親から、「私の機嫌が悪いのはあなたのせいだ」といったサインを受け取り続けて育つことによって、その子供は自分の存在に漠然とした罪悪感を持つようになる。そして、そのようなサインを受け取り続けることによって生じる「自分のせいで親の機嫌が悪いのだ」という罪の意識が、社会に出るようになってからも継続される。それによって「自分は世の中の邪魔者だ」という漠然とした罪悪感に常に苛まれ、様々な社会的不適合を起こすのである。
子供にとって、親から自分の存在を認めてもらうことは非常に重要である。精神的に成熟した親によって、「あなたが何をしても私達の大切な子供であることに変わりはない」「あなたがどんな子供に育っても私達はあなたに失望しない」「あなたが一番大切に決まっている」といったメッセージを受け取れた子供は、自分の存在が人様の迷惑を掛けているという漠然とした罪悪感のようなものに苛まれることはない。自分の思ったことを表現しても、親の期待通りの言動を取れなくても、親と違う価値観を持っていても、決して親から見捨てられることがないという親への信頼は、自分という存在には価値があるのだという認識を生み出す。自分が「そのままの自分」であっても、他者から認められ得る存在であるという自己認識は、同時に自己信頼に繋がり、その自己信頼は他者信頼へと繋がっていく。他者に対する信頼があるから、過度の他者迎合をすることなく、自己耽溺にも陥ることなく、自分の良さを出しながら他者や社会と良好な関わりを持つことができるのである。
一方で、精神的に未熟な親に育てられた子供は全く異なる道を辿る。精神的に未熟な親は自身の抱える精神的葛藤が解決していないため、自分の子供が、親の思っているような言動を取ってくれないことがどうしても許せない。子供は、自分の精神的な葛藤、問題を解決してくれる存在でなければ気が済まないため、子供が親の思い通りの言動を取ってくれないと、とても不機嫌になる。そうして、「私達の機嫌が悪いのはあなたのせいだ」というメッセージを子供に送る。そのメッセージを連続して受け取ることによって、子供は自分の存在に対し次第に罪悪感を抱くようになるのである。そのような子供は、「親の機嫌を悪くしてしまう自分の存在は邪魔だ」「親の期待に添えない自分は迷惑だ」「自分は生きている価値のない人間だけれど、親の温情によってどうにか生かされている」といった感覚を持つようになるため、自分の存在に自信を持てない。自己信頼の感覚がないので、他者信頼も育まれない。自己信頼がなく、他者信頼のない人間にとっての他者とは、「自分という罪深い存在が世の中に迷惑を掛けることで更に罪を犯していないかを厳しくチェックする批評家」のようなものである。そのため、自分の存在を否定されぬよう、自分を過度に押し殺し、自身の批評家である他者に取り入れることでしか自分の価値を示せない人間になる。また、他者不信が他者への敵意に変わると、それがその憎しみを発散するような非行や自己耽溺といった行為に発展していく。
実は、子供に罪悪感を与えるような精神的に未熟な親自身も、自分自身の存在に罪悪感を抱えている。そのため親自身が、自分の存在に対する罪悪感を何とかして紛らわせることで手一杯であり、自分の子供のことにまで気が回らない。自分の存在価値を確認し、自身を渦巻く罪悪感から逃れるためなら、自分の子供が傷付くことに恐ろしいほど無頓着になれてしまうのである。精神的に未熟な親は、自分の創作料理に子供が「美味しい。また作ってよ」と即座に返してくれないだけで、まるで自分の存在が否定されたかのように傷付く。そうして不機嫌になり、その不機嫌の原因を子供のせいにする。「折角、あなたのためを思ってお金と手間を掛けて作ってあげたのに。あなたがすぐに『美味しい』と言わなかったから私は不機嫌になった。そんなことをするような人にはもう二度とこの料理は作らない」と、自らの精神的葛藤により生じる心の傷の原因を子供に求めようとする。そして、そのような非難によって子供が傷付くことには無頓着である。精神的に未熟な親にとっては、子供が傷付くことよりも、自分の存在価値の保護の方がずっと大事なのである。
精神的に未熟な親は自分の存在に罪悪感を覚えているため、いつも何かと不機嫌である。親自身でさえ、自分のその正体不明の不機嫌がどうして生じているのか分かっていない。そのような状況で、自身の内部に渦巻く正体不明の苛々をぶつけるのに、子供は格好の対象となる。「あなたのせいで私は機嫌が悪いのだ」と主張することによって、自身の心理的葛藤である罪悪感と向き合わずに済み、親自身の抱えているその葛藤からひとまず逃れられるのである。一生懸命勉強して90点を取った子供を責める親がいる。「どうして100点を取れなかったの」「どうしてこんなしょうもないミスをしたの」「これじゃあ『よく頑張った』とは認められないな」等と子供の傷付くようなことを敢えて言って、子供を自分の不機嫌な感情の捌け口にする。自分の心の葛藤から逃れるためなら、自分の不機嫌を少しでも緩和させるためなら、自分の罪悪感に目を背けられるならば、子供を怒りの捌け口にすることなどなんでもない。子供が傷付くかどうかなど、二の次、三の次である。こうして、一生懸命勉強して90点を取った子供は、実際は凄いことをしていながら内面では、「100点を取れず親を不機嫌にさせてしまった」罪悪感で自己を責め苛むことになるのである。
精神的に未熟な親は、いかにすれば自分の心理的葛藤を子供のせいにできるか、を無意識の内に考えるため、極端な行動に出ることがある。「子供のため」と称して海外旅行に連れて行ったが、それを思っていた程子供が喜ばなければ、精神的に未熟な親は自分の存在が傷付けられたと感じる。そうして「こんなに金と時間と労力を掛けてまで連れて行ってやったのに、その態度は何だ」と言う。そして止めに、「そんな態度で親を不愉快にさせるのならば、もう何処にも連れて行ってあげない」と言って、子供の好きなスキーや遊園地等にすら連れて行かなくなり、そうなった原因を子供に求めようとする。そうして子供は段々、自分を表現できなくなっていく。本当は海外旅行が楽しくないのに「わあ楽しかった、また海外に連れて行って」と言わなければ、今度は自分の好きなスキー場や遊園地にすら連れて行って貰えなくなってしまうので、常に自分の本心を偽り、親のご機嫌を伺った言動を取るようになる。そうして自分の本心を裏切れば裏切るほど、自分に対する自信がなくなっていくのである。
子供にとって、親から自分の存在を認めてもらうこと、親から自分を見捨てられないようにすることは、生きるか死ぬかを決定するほどに重要なことである。子供は親を喜ばせよう、不機嫌にさせまいと必死である。何故か不機嫌に溜息ばかりついている親を見て、子供はその原因を知りたいと思う。しかし「どうして不機嫌なの」と聞いても親は応えてくれない。そうしてますます不機嫌になっている。子供は幼心に、自分に何らかの原因があるのではないかと疑ってみる。そうして、「お手伝いをしていないからかな」と当たりを付けて、お手伝いをしてみる。それでも親の機嫌は直らない。そこで、「宿題を早くに片付けないからかな」と考え、宿題をさっさと済ませてしまう。それによってようやく親が「やっと分かったか」という顔をして、機嫌を少し直す。子供は「ああ、自分の怠惰が親を不機嫌にさせてしまっていたのだ」と認識する。このような関わりの繰り返しによって、子供はどんどん自分に対する自信を失っていく。どんどん、親を不機嫌にさせてしまう自らに対する罪悪感を募らせていく。子供は親と異なる人間なのだから、子供が親の期待と反する行動を取ることがあるのは当然のことである。しかし精神的に未熟な親はそれを認められない。子供が自らの心理的葛藤を刺激するようなことをするのを許せない。そうしてあからさまに不機嫌になる。そしてその不機嫌を、子供のせいにする。そのような環境で育った子供が、「親を不機嫌にしてしまう自分は存在価値がない邪魔者だ」「親の期待に応えられない自分の存在は迷惑だ」という感覚を持ってしまう。その感覚が心底に染みつくと、「自分はこの世の邪魔者だ」という感覚が常に自分自身の内面を支配するようになるのである。そしてその感覚が、自分という存在を無意識で否定し続けることによって、「毎日が何となく不愉快だ」「理由のない不快感に襲われる」「呼吸をしているだけで苦しい」「自分が存在していてはいけないような感覚に襲われる」といった生きづらさとなって、次々に表れてくるのである。

3.罪悪感と向き合うことが改善の第一歩

それでは、どのようにすれば自身の心底に植え付けられてしまった罪悪感と正しく対峙することができるのだろうか。まずは、自分の人生を生きづらくしている原因不明の漠然とした不快感の正体が、幼少期より精神的に未熟な親によって獲得させられた罪悪感であることを知ることである。そこをルーツとした、自分の内面を支配している「自分の存在はこの世の迷惑だ」という罪悪感が、自分の人生を大変生きづらいものにしている事実に気が付くことが非常に重要である。その上で、その罪悪感は誤った自己認識であることを徹底して頭に叩き込むことである。「自分の存在はこの世の迷惑でしかない」という認識は間違っている。それは幼少期に、精神的に未熟な親から不当な責任を負わされた過去を引きずっているだけなので、この世の真実ではないのである。その事実をしっかり認識することが大事である。そしてその上で、極力、これまで人の顔色を伺うために抑えつけ過ぎてしまってきた本当の自分というものを出しながら、人とコミュニケーションを取っていくよう心掛けることである。小さなことからで良い。「あのテレビ面白かったよね」と友人から言われて、「そうだね」と自分を偽り迎合ばかりするのではなく、「自分はそうは思わなかったな」と、自分の本心を勇気を出して言ってみることである。この程度の自分を出してみたところで、人から邪魔者扱いされるようなことは殆どない。その事実を一つ一つ、実感をもって認識することである。また、自分より人に迷惑を掛けているにも関わらず、堂々としていて、周囲から好かれているような人を一人でも二人でも見つけて、その人をよく観察してみることである。そのような観察によって、「人に迷惑を掛けること」一つで大きな罪悪感を抱く必要などないのだという正しい認識を付けることによって、これまでの罪悪感に塗れた認識を地道に正していくことである。
そして日常において罪悪感に押し潰されそうになったときは、根気強く、罪悪感を覚えている自己と向き合うことである。何故、自分はこれほど苦しさを感じているのか、何故、自分はこれほどネガティヴな感情に苛まれているのか、何故、自分は自己耽溺の衝動を抑えきれなくなっているのか、何故、自分は浴びるほどのアルコールを欲しているのか等、徹底して自己分析に努めることである。感情に飲み込まれぬ冷静な自己の伴走が、十何年、場合によっては何十年という自己認識の改善に一役買ってくれるだろうという点で、自分自身の抱える漠然とした不快感が、幼少期より獲得した罪悪感であることを認めることは大きな前進なのである。
これまでの認識を180°変えるこのような試みは、大変辛く、一筋縄ではいかないものである。しかしそこから逃げることなく、しっかりと向き合って、前進と後退を繰り返しながらも、一歩一歩前に進むことができれば、これまでの漠然とした生きづらさが改善してくるはずである。




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8件のコメント

  1. 初めまして。
    生きづらさを感じ、どうにか解消できないかと思い、何度もネットで検索し、たまたまこちらのブログを見つけました。
    たくさんの本を読まれているとのことで、とても面白い文章だと同時に、共感する記事ばかりで、自分の嫌いな部分をまざまざと見せられ、再確認させられているような感覚で、読むのが辛いです。笑

    私も世間でいう毒親に育てられたアダルトチルドレンだと思います。(診断は受けていないので断言はできません。)
    母親は同性の娘である私に、過剰に期待し、子どもは自分と同じ考えを持っているものだと妄信し、支配しようとしていました。
    お金が何よりも大切で、私が何かしたいというと、お金がかかるからと否定され続け、大人になっても自分がやりたいことが分かりません。
    母親の思い通りな対応を私がしなかった場合、悪い子・わがままだと常に言われ続けていました。
    子どもであっても、親とは別人格であり、エスパーではないので、親の考えていることすべては分かりません。
    母親はそれを理解しておらず、私は悲しい思いばかりしてきました。

    母親は私の幼少期に病死したため、大人になった今、絆や関係性の改善を行うことができす、身体は大人になったのに、心は幼少期から前に進めずにいます。
    もう20年近く昔の事なのに、その時のことを思い出し、涙したり死にたくなる自分が、馬鹿馬鹿しくも思っています。

    こちらのブログを拝見し、親もまた毒親に育てられたアダルトチルドレンだったのだと思います。
    幼少期の記憶ですが、確か母親は異様に祖母にいい子と言われる為に、様々なことを選択してきた人生のようでした。
    それに気づけなかったときは、母親は私の幸せを願って、一種の愛情により厳しく育てたのだと思っていました。
    しかし、母親もアダルトチルドレンだった為、自分自身では理解不能な不安感や焦燥感を持っており、それを子供にぶつけ、子どもが思い通りに育たないから私は苛ついていると無意識に結論づけるために、私に接していたのではないかと思えました。

    そのことに気づくことができ、母親は厳しさという形であれ、愛情をくれたが自分が受け取ることができなったという、罪悪感のようなものがほんの少し減りました。
    気付きこそ問題解決の第一歩その通りだと思います。
    ただ頭ではわかっていても、なかなか心がついていきません。
    こちらのブログのおかげで、ほんの少し自分の為の人生を送ることに近づけた気がします。
    ありがとうございます。無理せずご自身のペースで更新してくれると嬉しいです。

    1. はじめまして。
      コメント読みましたが、「かなりしんどい思いをされてきただろうな」と拝察します。今日まで生きるだけでも、結構大変だったのではないでしょうか。

      「たとえ“自分の子ども”であったとしても、自分とは違った価値観を持つ一人の人間である」
      ということを分かって頂けなかった悲しみからは、なかなか抜け出せませんよね。
      「それも“愛情”の一つの形だ」
      とする主張を見かけることもままありますが、私は“それは違う”と思っています。「衣食住が提供されたこと」と「愛情をかけられたこと」は別物です。「内面の葛藤を子どもにぶつけてしまうこと」と「愛情をかけて子どもを育てること」も当然、別物だと思っています。ですので、「厳しさの中にある愛情を感じ取れなかった自己」をあまり責められなくてもよいと思っています。「人格を持った一人の人間」として尊重されて初めて、「愛情」は「愛情」たり得るものと、私は考えています。そうでない愛情は、部分的で、虫食い的で、不十分で、受け取る側からすると非常に受け取りづらく、感じ難いものです。

      少しでもこのブログがお役に立てたようで良かったです。ただ、このブログは「症状やその原因の記述について」は雄弁なくせして、肝心の「具体的かつ有効な対応策について」の記述に弱さがありますので、今後はそこを改善していく所存です。見ていて希望の持てるブログにしていきたいです。

      最後にアダルトチルドレンの連鎖について言及がありますが、どんな形であれ、連鎖は私達で止めたいものですよね。改善策の探求はそこにも繋がっているはずなので、これからもお互い有効な改善策を模索していきましょう。

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