「何の取り柄もない」ことを嘆く必要はない

自分と他人を比較し過ぎて卑屈になる病

0.「自分には何の取り柄もない」と嘆く人達へ
特別、「何の取り柄もない」と思われてしまう自分自身を嘆いた経験のある人は少なくないだろう。
例えばこんな時。
「長所」「特技」の記述を求められた時。
ふとした折に周囲にいる人の有能振りに触れた時。
自分より沢山の「いいね」を貰っている人を見つけた時。
すなわち、
「自分より凄い」と思わせる何かを持つ人の存在を意識させられた時。
「この人は自分より活躍している」と思わせる何かを持つ人の存在を意識させられた時。
こんな時、自身の無力感をまざまざと思い知らされる。そうして抱く劣等感。それに付随して伴う、「何の取り柄もない」自分への嫌悪。そしてこう嘆くのである――嗚呼。自分にも何か取り柄があれば、それを生かすことでもっと自信を持って堂々と生きられるのに――。
本記事では、そのような“嘆き”を抱いている人達の悩みの根幹にアプローチすることで、「自分には何の取り柄もない」と嘆き悲しむ、という“誤った負の情理”から脱却することを目的とした。
ちなみにここでは、「誰にでも取り柄はある」とか「取り柄はすぐに作れる」とか「努力して取り柄を作っていこう」といった議論に終始するつもりはない。何故なら、そのような議論では問題の根本原因に直接アプローチすることが難しく、以てこの問題の真の解決には
至らないためである。以下で中心に議論していくのは、患部に直接届くような根本原因へのアプローチについてである。実は、「自分には何の取り柄もない」という悲痛の嘆きの根幹に深く関わっているのは、実際にその人が「何の取り柄も持っていない」ことなのではなく、各人の心底において信念のようなものとして確立されている「自己否定感(自己肯定感の低さ)」なのである。すなわち、自己肯定感さえ高ければ、自分自身に取り柄がないことなんかにいちいち思い悩む必要はなくなるし、一方で自己否定感が高いままであるならば、仮にその人がどのような素晴らしい取り柄を持っていたとしても、「何らかの形で自分自身の現状を嘆いている」という状況そのものは変わっていかないのである。

1.取り柄がないから自己否定するのではない。自己否定をしているから取り柄がないように感じられるのである
「何の取り柄もない」という一言を検索エンジンに掛けると、そんな人への励ましの文句として、「誰にだって取り柄は存在するのだから安心しなさい」という主張を度々目にする。この主張に関しては、私は概ね正しいと思っている。ただ「誰でも取り柄はある」などと言ってしまうと、「それがないから困っているのだ」という人が出てくるだろう。そういった人にとって、「誰でも取り柄がある」という言葉は、中身の伴わないその場凌ぎの励まし文句に感じられるかもしれない。しかし、それは決して「中身の伴わないその場凌ぎの励まし文句」などではない。視野を広げさえすれば、「取り柄」など簡単に見つけることができる。例えば「健康である」とか「笑顔が素敵である」ことも取り柄となり得るし、何なら「寝起きがいい」、「洗濯物を畳むのが上手い」、「綺麗好きだ」、「地声が高い(低い)」といった要素だって取り柄となり得る。考えようによって、このように幾らでも取り柄の候補なんてものは出てくるのである。
「ネコはかわいい」というのも、ネコの取り柄である。これに首肯できるのなら、どうして自身の「笑顔が素敵である」ことを取り柄として認められないのだろうか。「誰にでも取り柄はある」という主張は、以上をもって概ね間違っていないことは分かっていただけたことと思う。先程ちらと記述した「取り柄はすぐに作れる」という主張もこの点からして、間違っていない。それらの要素を自分自身で「取り柄」と思えるかどうかが鍵なのである。
が、多分このような話をすると、「いいえ私はそんな小さな取り柄では満足できない」という人が出てくるだろう。そういった人は、恐らく収入の多さや社会的地位、会社や世間での目に見える評価、学歴等の客観的な評価を得られているのでないと取り柄とは言えないと考えているのだと思う。よって、それら“客観的評価”の得られていない自分は取り柄のない人間だ、という論理である。客観的評価の得られていない取り柄のない人間だから、嘆く、悩む、自分に自信を持てず卑屈になる、と、こう考えている。しかし本当にそうだろうか?本当に「年収一千万」を稼げるようになれば自信を持てるようになるだろうか。本当に「出世」すれば嘆くことはなくなるだろうか。本当に「高学歴」の肩書きを得られれば卑屈さはなくなるだろうか。本当に何桁もの「いいね!」を稼げば人生に満足するだろうか。果たしてそれら獲得した客観的評価を自身の「取り柄」として自信を持って生きていけるようになるだろうか。そこで獲得したように思われる自信は、ちゃんと「自信」と言えるような代物なのだろうか。残念ながら、実はそれらの答えは「否」である。何故なら、「自分には何の取り柄もない」と嘆く人の心理の根底には「自己否定感」が根付いているからである。心の根底に「自己否定感」が存在している限り、どんなに素晴らしい客観的な”箔”を付けても、自信を持てることはない。悩みや嘆きが消えることはない。
こう言うと、「何を言う。何の取り柄もないから自己肯定感が育まれないんだ」と主張する人があるかもしれない。順序が逆だろうと。しかし逆ではない。輝くものを持っているから自信が生まれるのではない。「自信があるからこそ、持っているものが輝く」のである。
どんなに光輝くものを持っていても、心の根っこに自己否定感のある人は、それを真の意味での“自信”に変えることはできない。根底に自己否定感のある人は、あらゆる角度から、「自分はダメな人間だ」という信念の根拠となるものを探し出そうとする。それは例えるなら、自分では「イケメンだ」と思っていない人間が周囲から「イケメンだ」と言われたとき、それが褒め言葉ではなく皮肉に感じられてしまう心理と同様である。例えば、以下のように。
年収が一千万に到達した。とても誇って良いことである。しかし世の中にはそれ以上に稼ぐ人間が山ほどいるのも事実である。そういった人達を前にすると、誇って良いはずのステータスを有していても、どうも卑屈になってしまう。自分らしくいられない。どうしても上を向いていられなくなってしまう。
年収が一千万円に到達した。世間一般的には大変凄いことである。しかしその横で、音楽的才能を生かして人々の承認を得ている人が輝きを放っていた。残念ながら自分にその才はない。その分野で人々の承認を得ることは難しい。本当は誇っていて良い人間であるはずなのに、ただそれだけのことで、自分そのものがちっぽけな存在に感じられてしまう。
難関大学に合格した。これも相当誇って良いことである。しかし世の中にはそれ以上に難関とされる大学が沢山存在する。そういった大学の卒業生を前にすると、その誇りも消え失せ、堂々と振舞っていられなくなってしまう。つい、自嘲的になってしまう。
難関大学に合格した。それだけで世間一般的には大変凄いことであり、その上その人は実際に世間一般的に優秀である。しかしその大学内には、自分よりも優秀な学生が少なからず存在した。その学生の存在を意識するにつけ、自身の無力感に襲われてしまう。世間一般では優秀であるにも関わらず。
SNSで「いいね!」を沢山貰った。とても気合いの入った投稿だった。しかしその投稿以上に圧倒的な「いいね!」を得ている人の存在しているのを目の当たりにすると、途端に先程まで自信満々だった投稿がバカらしく感じられてきてしまった。そして自身の小物感に打ちひしがれてしまった。
SNSで「いいね!」を沢山貰った。とても気合いの入った投稿だった。それは確かに世間一般的に価値のある投稿であった。しかしその投稿にはいつものAさんからの「いいね!」が来ていなかった。それだけで「今回の投稿はダメだったんだ」と落ち込んでしまう。
このように、自己否定感に苛まれている人は、常に自分のダメなところを探している。どんなに誇り高い取り柄を手に入れても、ちょっとした挫折で脆く崩れ去ってしまうのである。

「光輝くものを持っている」ことが、「自信」をもたらすのではない。「素晴らしい取り柄」が、「自信」をもたらすのではない。真の「自信」をもたらすのは、取り柄ではない。「自己肯定感」である。「自分は、存在する価値のある人間だ」とする自己肯定感があって初めて、「取り柄」が「取り柄」足り得るのである。心の根底が「自分は価値のない人間だ」「自分はダメな人間だ」という「自己否定感」に支配されていると、どんなに素晴らしい取り柄を持っていても、それを心底から取り柄と思えなくなる。常に何かを得られない不満、何かを奪われてしまう不安に苛まれ、ともすれば自分のダメなところを血眼になって探してしまう。そのような人生は不満に満ちている。自己肯定感があれば、「今日という一日を一生懸命生きた」ということで満足できる。自己肯定感の高いネコは、自分の“かわいさ”を取り柄と認識できる。自己否定感が強いネコは、自分の“かわいさ”を取り柄と思えない。そんなネコは、何らかの主観的な理由、根拠を基に、それが決して取り柄となり得ないことを必死になって証明しようとするだろう。

2.取り柄を「取り柄」と認識させない自己否定感のルーツ
前項では、「取り柄がないから自己肯定感が生まれない」という思い込みを排したところで、「自己肯定感が低いから取り柄がないように感じられてしまう」理由を説明した。よって、自己肯定感を高めるためにはどうすれば良いのだろう、ないし自己否定感を無くすためにはどうすれば良いのだろうということが問題となってくる。そのためにはまず自己肯定感、自己否定感の生まれるルーツを辿っていく必要がある。
自己肯定感は、“ありのままの自分”を受け入れられる経験によって育まれる。反対に自己否定感は、“ありのままの自分”を受け入れられなかった経験によって生じる。例えば。
・絵を描くのが好きな子供がいた。自分の描いた絵を褒めて欲しくて、自由帳に描いたそれを養育者に見せた。この時、養育者が眉間に皺を寄せ、次のような言葉を子供に投げかければ、その子供の自尊心は傷付き、自己否定感を生じさせるきっかけになるであろう。
「絵なんか描いていないでもっと成績を上げてはどう?」
「下手くそねぇ。○○さんの方がよっぽど上手い絵を描いていたよ」
「こんなことに自由帳を使って。そんなことをするために買い与えたわけじゃないんだけど」
「『お絵描き』なんて下らない。外でお友達と体を動かしてくればよっぽど有意義なのに」

・活気ある場所の苦手な子供がいた。養育者は我が子をテーマパークに連れ出した。しかし連れ出された子供はあまり楽しそうにしていなかった。その時、養育者からこのような言葉を掛けられた子供は自尊心を傷付けられ、自己否定感を強くしていくであろう。
「何だ、折角連れて行ってやったのにそんな顔をして。もう二度と外出には連れて行ってやらない」
「ここまで来るのに幾ら掛かったと思っているんだ」

上の例のような言葉を投げかけられた子供の内面では、どのようなことが起こってくるか。
まず、「自分が感じたことを感じたままに表現する」ことに対する罪悪感が芽生える。「これが好きです」とか「これに興味はありません」といった意思表明に何度も否定的なダメ出しをされるような経験を積み重ねることで、自分の好きなもの・ことをそのまま「好き」と表現することに躊躇いが生じてくる。そうしていつの日か、その子供の内面には「自分の好きなものを好きだと表現することは良いことではない」「面白くないと思ったことを面白くないと表現することは良いことではない」といった誤った価値観で満たされる。それと同時に、「養育者に認めて貰えるようなものならば好きだと表現するのは良いことだ」「養育者の期待通りに動くことこそが良いことだ」という価値観が生じる。そのような価値観が強固なものになればなる程、その子供は本当の自分というものが分からなくなってくる。自分は何が好きなのか、何に興味を持っているのか、何をしたいのか、何を感じているのか、分からなくなってくる。しかし一方で、養育者から認められるような事柄に対する感覚は研ぎ澄まされてくる。
自分がこうすれば褒められるだろう。
自分がこれをやれば認めて貰えるだろう。
自分がこんなことを言えば喜んでくれるだろう
そのような感覚ばかりを研ぎ澄ませ、それに則った言動を、本来の自分の言動に優先して取るようになる。そうして「自分を押し殺す」ことによって養育者から認められることで、ますますその感覚が研ぎ澄まされ、行動に移される。このような思考・行動様式が、養育者との間の家庭内の関係のみに留まらず、社会生活を営む際にも適応されてしまうと、人生全般において、大変な生きづらさを感じることになる。すなわち、
自分がこうすれば他者は喜んでくれるだろう
自分がこっちを選択すれば他者から認めてもらえるだろう
自分の本音を言ってしまえば他者は皆私を承認してくれないだろう
といった思考・行動様式で社会と対峙することになるからである。自分の思ったことを思った通りに実行することができないので、自分の意志ではなく、他者の意志を通してあらゆることを決めようとする。例えば大学。例えば職場。例えば人間関係。しかしそれらの決定は、本当の自分の思いには適っていない。従ってそのような、自身の行動の大部分を他者からの評価に依存している人は、自分の人生であるにも関わらず、全く自分の人生を生きられていない。自分の意志に反することをし続けていて、自尊心、自己肯定感が育つわけがない。その人の心底にあるのは、「自分は自分らしくあってはならない」という根深い自己否定感である。この自己否定感が、自己像に関するあらゆる認知を歪ませる。本当はその人は、素晴らしい取り柄を持っている。しかし、根本に「自分は価値のない人間だ」という自己否定感があるせいで、その取り柄を「取り柄」と認識できない。「○○さん程ではないから」「多くの人から認められているわけではないから」「多くの人は認めてくれるけど○○さんには認められなかったから」「それは大したものではないから」「No.1じゃないから」「その何倍もの短所を持ってしまっているから」「~の場面では何の役にも立たないから」等、折角良い取り柄を持っていても、何かしらの(非常に偏った主観的な)理屈を付けては、否定しようとしてしまうのである。従って、嘆くべきなのは、「自分には何の取り柄もないのだ」ということではなく、「自分の心底には自己否定感が根付いているのだ」という事実の方、こちらを嘆くべきなのである。

3.自己否定感を取り除くためには
前項で、自己否定感を取り除いた先に、「何の取り柄もない」と嘆いてしまうことへの解決があることを述べた。そこで、この項では「自己否定感を取り除く方法」について解説する。ただ、その道のりは非常に根気の要るものであることを予め申し上げておかなければならない。長年に渡って染みついてしまった自己否定感の深く根付いた思考・行動様式を変えることは一筋縄ではいかないのである。何度も何度もtrial & errorを繰り返し、自分の内面と向き合っていかなければならない。
初めに、自分自身に「取り柄」「長所」「特技」「魅力」といった類の要素が何も感じられない、といった感覚は、「本当に何の取り柄もないからそう感じてしまうのである」わけではなく、「自身の心底において強い自己否定感があるから、何の取り柄もないように感じられてしまうのである」という事実をしっかりと認識することである。貴方は何の魅力も持っていないわけではない。貴方の心底に蔓延する自己否定が、貴方に自身の魅力を感じさせる能力を奪っているのである。この事実を何度も頭に叩き込むことである。
次に、その事実を基に、これまで「他者のため」に営んできた社会生活を、徐々に「自分のため」に送ることを意識することである。「他人に評価されそうだから」という理由で始めた、本当は興味のない趣味に時間を費やさない。「世間体」だけに縛られた進路決定をしない。「自分の本当に好きなものは何か」を考える。「自分の本当の気持ちは何か」に意識を向ける。そのようにすることで、これまで「他者のため」に社会生活を送っていた人生を徐々に「自分のため」に送るよう変えていくことである。人生におけるあらゆる行動動機を、「自分は価値のない人間だから他者から認められるような振る舞いをしなければならない」というものから、「自分はこう思ったからこう振る舞ってみよう」というものに変えることである。他人の人生から自分の人生を生きるように心掛けることで、段々と自己肯定感が育まれてくるはずである。
そして、事実を「事実」として、できるだけ客観的に捉えるよう努めることである。「自分は価値のない人間だ」という自己否定が根底にあると、事実をそのままの形で捉えることが難しくなる。例えば、自己否定感に囚われている人は、ただ、「笑顔なく挨拶された」という事実を、「私に何か失礼があったのだろう」と否定的に勝手に決めつけてしまいがちな一面があるが、このような邪推をしないことである。実際、それは数ある考えられ得る推測の中の一つに過ぎないのであって、事実は「本人は笑顔を作っているつもりだったがそれが表面に現れなかっただけ」かもしれないし、「本人の体調が優れないため笑顔を作れなかっただけ」かもしれない。他者の一挙手一投足が、何でもかんでも自らの存在を否定するものではないことを頭に入れながら、事実をそのまま認識するよう努めて社会生活を送ることである。そのようにすると、これまでよりも視野が格段に広くなり、たとえ自分が人間関係において多少の失敗をしてしまったとしても、その一つや二つで他者が自分を見捨てたり、敵意を向けてきたりすることは稀であることが分かってくるだろう。それが分かり始めると、次第に自分を出せるようになってくる。そうして自分の人生をより生きられるようになることにより、自己肯定感が高まってくる。

4.取り柄を作る努力をするなら、努力の方向を誤ってはならない
「努力して何かしらの取り柄を作ろう」という気概は、とても素晴らしいものだと思う。幾ら自己肯定感が高くても、自分自身に何らかの不足を感じる機会もあるだろうし、その不足を努力によって埋め合わせることで、更に自信が付き、自己肯定感も高まるだろう。それに関しては何ら問題ではない。しかし、「努力で取り柄を作る」ことの動機が、「自分の人生の空虚を他者からの承認によって埋め合わせること」になっているとき、その試みは高い確率で失敗に終わる。何故なら、そのような動機による努力は自分の意志によって為された努力とは言い難い上、非常に視野の狭いものになりがちになるからである。
「自分は価値のない人間だ」という自己否定感に伴い生じる人生の“空虚”を、例えば「難関大学の合格」によって埋めようとしたとする。しかし兆の本人は勉強が好きでなく、その適性も実際のところイマイチである。おまけにその大学に入ってやりたいこともない。ただ、価値のない自分の人生の空虚感を、養育者や世間一般の目を通じ、大多数の人間に「承認されそうなもの」を手にすることによって解決しようとしたのである。これは厳密には、自分の意志による決定ではない。養育者や他者の意志による決定である。そうして、自分の意志ではない、自分の特性に適切でない“目標”を掲げてしまう。その結果、思うようなやる気、結果が得られない。仮に結果が得られたとしても、その難関大学内で更に優秀な学生と接するにつけ己の無力感に打ちひしがれ、自己否定感が強固になってしまう。自分の意志により到達した目標ではないため、達成時の刹那的な喜びを過ぎてしまえば、再度虚無感に襲われることになる。また、もし目標が達成できなかった際は、「難関大学に受からなかった自分は価値がない」という非常に視野の狭い価値観に縛られた更なる強力な自己否定感に襲われることになってしまう。
自分の意志で目標を立て、それの達成に向け努力することが大切である。自身の興味、能力、適正を顧みて、「自身のこの取り柄(ないし、取り柄となり得る要素)を伸ばしたい!」という動機で、取り柄を獲得する努力をしていたいものである。

5.「何も取り柄がない」ことを嘆く必要はない
以上、「何も取り柄がない」ことに対する悲痛な嘆きの根幹にある自己否定感にアプローチすることで、このような嘆きに対する適切な嘆き方、および改善法を示した。「自己否定感」の人生にもたらす負の効果は、何も「取り柄」に限った話ではなく、その人の人生そのものの根幹に関わる重大事であると私は考えている。が、今回は「何も取り柄がない」という嘆きを持つ人達の心により届かせるような内容で、自己否定感についてお話しをしてみたつもりである。本記事にて、嘆くべきなのは「自身に何の取り柄もないこと」ではなく「自身の心底に自己否定感が満ちていること」であることを理解し、そして、心底にある自己否定感を改善し、自己肯定感を育むことで健全な自己像が形成されたとき、これまで虚無に満ちていた人生が一転して輝き出すこと(すなわち、トップ画の真に意味するもの)が分かっていただければ幸甚である。




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15件のコメント

  1. 自己肯定感と努力には、本当に考えさせられます。内面と向き合い真面目に生きていきたいものです。
    毎回考えさせられる記事ありがたく思っております。また楽しみにしております。

    1. 生きる上での「自己肯定感」の重要性に気が付くと、それと同時に、私達の抱えている「心理的な悩みの生じる背景」が次から次へと了解されていきます。
      これからも自己肯定感に関する考察をより一層深めていくつもりです。よろしくお願いします。

  2. これからの人生良い人生にしていこうと思います
    ありがとうございました。

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