『愛されたい症候群』の克服

先日ネットサーフィンをしていると、私の目に興味深い単語が飛び込んできた。その名も、「愛されたい症候群」。「他人から愛されたい」という願望は多くの人が持っているものだが、「症候群」となると、その思いが暴走するあまり、「他人から愛されたくてたまらない!」という状態にまでなっているものを指すようである。要するに、愛されたくて愛されたくて苦しみさえ感じる状態のこと。寂しくて寂しくてどうにかなってしまいそうな状態のこと。それが、愛されたい症候群。

「愛されたい症候群」について理解したところで、私はその原因に「幼少期より引き継がれてきた愛情不足」があるであろうことを予想した上で、その記事を下へ下へとスクロールさせていった。すると、その記事は言わば「恋愛コラム」とでもいったものの延長から書かれたものであるにも関わらず、その原因の一つとして、「幼少期の家庭環境」があることについて見事に言及されていた。私はひとり首肯すると共に、その事実に非常に驚かされた。今の時代となっては、幼少期の愛情不足がその人の健全なる人格形成に多大なる影響を与えることが、ここまで一般に浸透した事柄となっている事実に驚かされたのである。

愛とは、生き物が健全かつ健康な生涯を送る上で必要不可欠のものである。生物が生きるために食物を必要とするように、睡眠を必要とするのと同様に、愛情が与えられることもまた、同程度に重要なことなのである。これは決して大袈裟な表現ではない。

人は生を受けてから養育者の愛情を受けることで、この世を生きることの安心感を得る。
自分の身に不快なことがあった際、オギャーと泣けば養育者が自身の元に飛んできて、色々な問題を解決してくれる。また、自分の身に危険が生じた際、養育者の元に戻っていけばその危険から逃れることが出来る。こうした経験を積み重ねる過程で、自分という存在は守られているのだという安心感を得る。自分は愛されているのだという実感を得る。自分の周囲にいる人は信頼して良いのだという安心感を得る。そしてこれらの安心感により、この世は安心して生きられる場所なのだという確信を得る。この安心感、実感、信頼があるからこそ、自己肯定感が生まれる。自分という人間がこの世に存在していることに唯一無二の価値を感じていられる。自分で自分を愛することができる。自分の存在に自信を持つことができる。この自信があるから、成長してからも良好な人間関係を築くことができる。真っ直ぐな人間でいられる。自分らしさを存分に発揮し、魅力的な人間でいられる。適度な好奇心を持ち、色々なことに挑戦することができる。

しかし、幼少期より養育者から愛を与えられないと、こうした、世の中に対する安心感であったり、自分は愛されるべき存在であるという実感や、他者は信頼して良いものだとする信頼感が育たない。これら、世の中を健全に安心して生きていく上で必要不可欠の安心感を得られないまま成長すると、その警戒心の大きさや他者不信感、自己無力感によって、対人関係にとても苦労したり、社会的行動や感情の表出が不適切なものになったり、認知の歪み(ex.過剰なネガティブ思考)を抱え常に生きづらさを感じたりする。

Harlowによる、アカゲザルの人工的な代理母の実験というものがある。
子ザルを二種類の代理母の元で育てる。片方は針金で作られた代理母。この代理母の胸には哺乳瓶が取り付けられており、子ザルはこれを食餌とする。もう一方は肌触りの良い布で作られた代理母。しかしこちらの胸には食餌となる哺乳瓶は取り付けられていない。実験開始まで、子ザルは食餌を与えてくれる針金の代理母に愛着を示すと思われたが、このとき子ザルは、食餌を与えてくれる針金の代理母よりも肌触りの良い代理母を好んだという。
この実験は、親子の情緒的繋がりにおいてスキンシップの重要さを示したものだが、これには後日談がある。代理母の元で育った子ザルは、その後、社会行動や他のサルとの付き合いに多くの支障を来したという。つまり、生身の養育者より愛が与えられなかったことにより、健全な人格を形成することが出来なかったのである。

健全に生きるためには、愛が必要である。
愛が充分に与えられないと、成長してからも愛情飢餓に苦しむことになる。愛情飢餓が、健全な人格形成の邪魔をする。

「自分は愛される存在だ」という確信が得られなかった人は、自分の存在価値を自分で認めることができていない。そのため自分がここに存在していることを、周囲から認めて貰わなければならないと思い込んでいる。よってその承認を得ようとして、様々な努力をする。例えば八方美人となり誰彼構わず好かれようと迎合してしまう、他者からの期待に必要以上の結果で応えようと無理をしてしまう、話を盛って等身大以上の自分を相手に印象づけ自身の存在価値を誇示しようとしてしまう、等である。

「周囲にいる他者は信頼できる存在だ」という確信が得られなかった人は、その根底に他者不信と他者嫌悪がある。「他人は自分の自己実現の邪魔をする存在である」という認識さえ出来上がっていることがある。よって、他者との心通わすコミュニケーションとか、思い遣りとか、そういった「他者との情緒的結びつき」の類を解することが難しい。従って、他者に対峙する際に重視するのは専ら学歴、経歴、社会的地位、資産等の、その人の客観的な社会的ステータスである。それら社会的ステータス以外の観点から、他者を解することはできない。幾ら人格に優れている人でも、学歴が無ければ「価値のない人」、幾ら人格に難があっても、社会的地位が高いものであれば「素晴らしい人」と、こうなってしまう。よって他者と本当の意味で心を通わすことができない。人を道具のように扱ってしまう人もいる。損得勘定でしか人と付き合うことのできない人もいる。

この前、あるテレビ番組で、某女性タレントが「私、ダメ男ホイホイ(「ホイホイ」ではなく「製造機」だったかも)なんですよ~」と番組内で嘆きながら、そのダメ男から受けた仕打ちの数々を壇上から語っていた。多分この女性タレント、恐らく実際はダメ男ホイホイなのではなく、(無意識的かも知れぬが)敢えて自らダメ男を恋人に選択しているのである。自分の存在価値に自信が無いから、ダメ男に尽くすことでその価値を見出そうとしているのである。自己肯定感が低いから、その自己評価に見合う相手でないと落ち着いて恋愛をすることができないのである。「尽くし癖」のある人は、その人自身が愛情不足を抱えている可能性がある。恋人から、愛されたい。恋人から、自分の存在価値を認めて貰いたい。だから相手に尽くす。これでもかと尽くす。しかしその愛は、本物の愛ではない。本当に恋人を思って与えている愛ではない。その実は自己愛である。これだけ尽くしているのだから私のことを認めてね、という自己愛である。従って(従ってと言うか、それを受け取る側もまた愛情不足に苦しんでいるからなのかも知れないが)、相手からはさっぱり愛されない。そうして関係が破綻する。愛情不足を抱える人は、真っ直ぐ人を愛することが難しい。自分の「愛されたい」願望の充足のために、他者を本当の意味で愛することは斯くの如く、至難の業なのである。
精神分析風に言うと、自身の「愛されたい」という欲求を恋人に投影して、その反動形成で恋人に(歪曲した)愛を与えても、それは自他共に愛情欲求の充足にはならない、という事になるであろう。

愛されたい症候群を克服するためには、私はまず「自分で自分を愛せるようになること」が最優先であると考えている。他のサイトでは、この他に「他人の役に立つことで自信を回復する」とか「他者を愛することで克服する」等のことが書かれてあったが、私はまずこれらの実践よりも、「自分を自分で愛せるようになること」を実践することが大事であると考える。と言うのも、自分を愛せていない状態、つまり、自分自身が愛情不足を抱えていたり、自分の存在価値を認められないでいるままであったり、他者信頼が構築されていない状態で、本当の意味で他者の役に立ったり、他者を愛することは難しいからである。これは先に書いたとおりである。自分で自分の存在価値を認められない状態で「他人の役に立つことで自信を回復」しようとすると、「自分の存在を否定されたくない」という自己防衛がどうしても働いてしまって、「自分の存在を認めて貰うため」という強迫観念を動機として他者の役に立とう(これは往々にして無用の他者迎合や八方美人、過剰の自己犠牲等によって達成され得る)としてしまうからである。これでは元の木阿弥であり、どんなに人の役に立てたとしても、自身の愛情不足は埋まらない。常に人の役に立っていないと自身の存在価値を保てない状態となり無理をして潰れてしまったり、仮に自分の思う様な結果が得られなかった際には尚更自分に対する自信を失うだけである。
また、自分自身が愛情不足を抱えたまま「他者を愛することで克服」しようとすると、先に示した「某女性タレント」のようなことになりかねない。従って私は、愛されたい症候群の克服のためには、まずは「自分自身を愛すること」を実践していくことが大事であると述べたわけである。自分自身さえ愛せていれば、健全な人格を以て社会と対峙することができるから、不適切な社会適応が減ってくる。その結果として、適切なやり方で人の役に立つことができるし、他者を愛することもできる。そういうわけであるから、克服を試みる際には、「自分自身を愛すること」を最優先で実践していきたい。他の克服法も試したいなら、最低でも「自分自身を愛すること」の実践との並行で試したいところである。
さて、その「自分自身を愛する」方法であるが、兎に角自分自身に嘘をつかず、認めてしまうことである。「自分は愛情不足なんだ!」と、目を背けることなく認めることである。自分の真の欲求に、素直になることである。「愛情不足だなんてカッコ悪い」と言って、その思いを無意識の領域に抑圧してしまわないことである。その上で、自分の存在価値というものは、例えば他者からの承認や社会的ステータス等といった「優劣の尺度」で以て判断されるべきものではないという事実を徹底的に頭に叩き込むことである。A~Zのアルファベットそれぞれに優劣が付けられないのと同様に、人の存在価値も、人為的に順序を付けることが難しい類のものである事実を知ることである。ただ、そこに存在しているだけで価値がある。各々の存在に理由なく価値がある。そう思うことが重要である。そうして社会行動をしていく際、いちいち自身の「愛されたい症候群」、「愛されたい欲求」に突き動かされてしてしまった行動というものを一つ一つ分析し、またそれらに適切に対応、矯正していこうと努めることである(具体的には、『嫌われる勇気』を読んでもその勇気を持てないあなたへで述べている)。これらの努力を続けることによって、いつか自分で自分の存在を認め、自然に自分自身を愛することができるようになってくる。自分を愛せるようになった先に、ようやく本物の他者貢献や、他者愛というものが生まれ、それによって、これまで抱え続けてきた『愛されたい症候群』というものが解消されていくものと、私は考えている。




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