学歴コンプレックスの根本原因は「学歴」にはない




「自身の志望している大学に入学できなかった」ことに端を発する学歴コンプレックス。その度合いは“軽度”のものから“重度”のものまであり、“軽度”のものであれば、世の中はさほど問題とはしないようである。寧ろ、不本意な結果に終わり、大学受験というものに多少のしこりを残していても、その悔しさをバネに、入学した大学でベストを尽くそうとする学生は大変立派なもので、社会のお手本にさえ感じられるようである。
一方で、“重度”の学歴コンプレックスを抱える人達はそういうわけにはいかない。自分の志望していた大学に入学できなかった劣等感で滅茶滅茶になり、(客観的には“良い大学”に入学できていても)自暴自棄になったり、抑うつ状態になったりして、長い間、人生を棒に振ってしまったりする。仮に表面的に社会に適応していても、その裏では常に劣等感に苛まれており、幸せを感じることができないでいる。
世の多くの人々にとっては、「学歴」という、さして重要でないたった一つの尺度に大きく囚われ、自身の人生を台無しにしてしまっている人達の気持ちというものが、いささか理解しがたいものと思われるに違いない。確かに、年単位に渡る努力が報われなかったのは辛いことであろう。しかし、ただそれだけの理由で、これ程のコンプレックスを抱えて、その後の人生を丸々台無しにしてしまうのはいかがなものか、そう思われることに違いない。
しかし、“重度”の学歴コンプレックスを抱える人達の実際としては、自身の志望している大学に入学できないことは、自らの人生が丸々台無しになることに等しいのである。自身の志望する大学に入学できないことは、今まで必死に築き上げてきた人生における全ての実績が、一瞬にして水泡となってしまう一大事なのである。学歴コンプレックスを抱える人達にとって、志望大学に入学できないことは、決して大袈裟でなく、死ぬること以上に苦しいことなのである。そして自分自身、何故、「学歴」一つでここまで苦しまなければならないのか、分かっていない人が殆どなのではないかと私は考えている。
本記事では、“重度”の学歴コンプレックスに陥ってしまう人の真相について考察していきたい。

1.学歴コンプレックスを抱える人間は「しょうもない人間」か?

一見すると、「学歴」という一つの尺度に強迫的に拘って、人生を台無しにしてしまうことは愚かであるように思われる。世の中には「学歴」の他にも様々の価値尺度が存在しているわけだから、「学歴」が得られなかったならば、他の魅力を身に付けられるよう努力すればいいじゃないか、と、こう思うわけである。しかし、重度の学歴コンプレックスを抱えている人間にとっては、そのような助言は心に全く響かないし、殆ど救いにならないわけである。恐らく学歴コンプレックスに陥っている人も、頭の中では、世の中には「学歴」以外の「様々な価値尺度」が存在していることは百も承知しているのだが、心がそれについていかないのである。他のどのような価値を自らが身に付けられたとしても、「学歴」という一つのステータスが抜け落ちているだけで、それらの価値の全てが台無しに思われてしまう、または、「学歴」というステータスが抜け落ちていることで、その他のどのステータスを身に付けるにしても、そのための道がほぼ閉ざされたように感じてしまっているのである。そうして、「学歴」というステータスを失った自分の今後の人生は、決して恵まれたものにはならないだろうと思われることで、希望がなくなり、抑うつ状態になったり、自暴自棄になってしまうわけである。
これほどの感覚(換言するなら「絶望感」)は、重度の学歴コンプレックスを抱える本人以外にはなかなか理解しがたいものである。確かに、青春時代を費やしてまで続けた年単位の努力が実らなかったことが残念だという気持ちは分かる。けれども、果たして「それによって人生の全てが無駄になった」とまで考えて絶望してしまうのは行きすぎではないのか――このような、「行きすぎ」のように思われる他者の思考回路は時に、悩める張本人の内面の愚かさに帰着されることがある。「あいつは、“学歴”ひとつで人生を投げてしまうような、しょうもない人間だったのか」、と。
しかし、事実はそれと異なる。学歴コンプレックスを抱えている人間は、決して、「しょうもない人間」なのではない。寧ろ、その人が自身を「しょうもない人間」にしないため、必死にもがき続けた結果として引き起こされたものが、学歴コンプレックスだったのである。これは大袈裟な表現でなく、学歴コンプレックスを抱える人にとって、自身の望むような学歴を獲得することは、自らの生き残りを賭けた人生の大勝負だったのである。その理由を、事項で解説していく。

2.学歴コンプレックスの根本に潜む問題は「学歴が得られないこと」ではない

それでは何故、重度の学歴コンプレックスを抱いている人は、他の人達よりも「志望校合格」に対する未練が強く、受験失敗が人生に与える影響が大きくなってしまうのだろうか。その答えは、その人の幼少期、子供時代を見つめることで分かってくる。重度の学歴コンプレックスに陥るような人は、幼少期に基本的欲求が満たされていないのである。
人間は生まれながらにして「幼児的願望」というものを持っている。この「幼児的願望」というのは、赤ん坊が親に望む基本的欲求のことで、具体的には「自分を愛して欲しい」「自分のことを認めて欲しい」「自分が泣いたら“どうしたの”と言って世話をして欲しい」「自分に構って欲しい」「自分だけを見ていて欲しい」「自分を大切にして欲しい」「自分を一番だと言って欲しい」等といった「愛情欲求」、「承認欲求」である。人間は生まれながらにして持っているこうした「幼児的願望」を親から与えられることで、「自分は愛される存在なのだ」という感覚を持つようになる。この「自分は愛される存在なのだ」という感覚があるからこそ、人は自分という存在に価値を感じることができる。すなわち、自分の持っている“個性”に自分自身で価値を感じ、愛することができるのである。「自分で自分の存在に価値を感じられる人」は、自身の“人間性”等といった“数値化されていない要素”にも自信を持って価値を感じることができる。従って、世の中に存在するあらゆる価値尺度に対して多面的な視点を持つことができ、人間の価値や魅力といった事柄に対し、柔軟な考え方を持つことができるのである。
一方で、生まれながらにして持っている「幼児的願望」を満たされずに育ってしまう人も存在する。そういった人達は、生まれながらに持っていた「自分を愛して欲しい」「自分を認めて欲しい」といった自らの「愛情欲求」や「承認欲求」が満たされていない。こうした「満たされていない」人達は、自分の望むような愛情や承認を親から得られないまま成長することを余儀なくされてしまうわけであるが、この満たされなかった「幼児的願望」は、残念なことに乳児期を過ぎても消えることはなく、残ってしまうのである。こうして「幼児的願望」を満たされなかった人達は、それが満たされた人達とは対照的に、「自分は愛される存在だ」という感覚が育まれない。そのため、自身の“個性”に自分で価値を感じ、愛するということができないので、代わりに“他者からの承認”というものを過度に必要とする人間に育っていく。“他者からの承認”というものは“数値化された価値”を身に付けることで得られやすい。おまけに、幼少期に「承認欲求」が満たされなかった人達は人からの承認に飢えている。そのため、「幼児的願望」が満たされなかった人達は、収入や学歴、社会的地位、「いいね」の数等といった、客観的で、数値化されたステータスを身に付けることで、他者からの承認を得ようとする性向に極端に偏るのである。

「幼児的願望」が満たされないような家庭というものは、子供からしてみれば常時、緊張感が漂っているようなものである。
生まれてより、親から「愛情」や「承認」を与えられないで育った子供は、その幼少期、子供時代も、どうにかして親から「自分を愛して欲しい」とか「自分の存在を認めて欲しい」といった欲求を満たして貰おうとするが、それが望ましい形で満たされることは極めて稀である。すなわち「そのままのあなたは生きている価値がありますよ」という“無条件の形”で満たされるようなことは稀である。それではどのような条件で親は子供を承認するのか、ということであるが、その代表的なものの一つが、テストで良い点数を取った後に「凄いね」と褒めることである。このとき子供は、喉から手が出るほど欲しかった親からの承認が得られることで嬉しくなる。そうして、もっとテストで良い点数を取って親からの承認を得ようと、学業に専念するようになるわけである。また、周囲の人々の「○○君、100点取ったんだって、凄いね」という賞賛の声や、テスト返却時の先生の「よく頑張ったね」という言葉が、当人の承認欲求を表面的に充足させる。そうして子どもはますます、自身の存在価値を認めてもらうために学業にのめり込むようになるのである。このような流れで問題となるのが、元々、「自分は存在している価値がない」という感覚を抱えている子供が、「テストで良い点数を取ったときのみ褒められる」という状況から、「テストで良い点数を取れるときだけ、自分は存在している価値がある」という感覚を持ってしまうことである。この感覚が、後々、様々な社会的不適合を起こすことになるのである。

学業で結果を出さないと、親から「お前なんて見捨てるぞ」と脅されて育つ子供もいる。このような子供も、生まれてより「幼児的願望」が満たされておらず、「自分は存在している価値がない」という感覚を持っている。その上で、親からは日常的に「テストで良い点数を取らなければお前を見捨てる」という圧力を受けている。言葉としてそのように言われなくても、態度で示されることでも子供は傷付く。
テストでくだらないミスをしてしまった。点数は90点と上々であったが、親はその「くだらないミス」が許せない。そうして子供を責め立てる。「何故、こんなくだらないミスをしたのか。やる気がないのか」。子供は、「やる気がない」のではない。一生懸命勉強した。90点という点数がそれを物語っている。しかし共感性というものに極めて乏しい親は、「くだらないミス」一つで、その事実さえ否定してしまう。自分の頑張りを認めて貰えなかった子供は傷付くだけでなく、「テストで良い点数(親の思うような点数)が取れない自分は価値のない人間だ」「過程は大事でなく、結果が全てなのだ」「客観的な数値を出すことだけが自身の存在価値の証明になるのだ」という感覚を抱くようになる。そうしてますます自分に対する自信を失っていくと同時に、強迫的に、結果を出すことに拘っていく。その他にも、子供が一生懸命頑張って取った“90点”を「どうして100点じゃないんだ」と言って責める、子供が不本意な点数を取った際に「お前はウチの子ではない」等と言って責める、「○○大学以下は大学じゃない」等といった偏った価値観を押しつける、子供が「こんなに勉強をしたくない」という主張をすることを許さない、そして、その他、“点数を取ること”以外の要素(例えば人間性といったもの)を全く認めない、といった暴力、脅迫によって子供をコントロールすること等の態度によって、子供は「テストで良い点数を取れない自分は存在価値がない」という感覚を一層強めていくわけである。

さて、「幼児的願望」が満たされていない上に、このような、「親から見捨てられるのが怖いから」勉強を続けた子供や、「親や周囲からの承認が欲しくて勉強を頑張った」子供の抱えている感覚はいずれも「テストで良い点数を取れない自分は存在している価値がない」という感覚である。これはすなわち、「自分という人間はテストで良い点数を取れること以外に価値がない」ということを意味しているわけだから、このような感覚を持つ人間が「テストで良い点数を取れる自分」というものを失ってしまったら、その人は自分の中に何も縋るものがなくなってしまう。そのため、そのような人間は自身の価値を何としてでも維持しようと、「テストで良い点数を取る自分」や「他者よりも偏差値の高い学校に通える自分」というものに強迫的に執着するわけである。そうしてその延長で、「学歴を得られない自分は価値がない」という感覚が形成されるのである。学歴に異様に執着を見せる人間にとっては、自身の人としての価値や、自身の人間関係、周囲の環境といったあらゆる要素の何もかもが、「自分がテストで良い点数を取れているから」「自分が良い学校に通えているから」という理由によって獲得されていると考えてしまうのである。現実には、その人の“人としての価値”は何もテストの点数で決まるものではないし、その人の人間関係もテストの点数によって決まっているわけではない。けれども、幼少期からの歪んだ親子関係の影響により、学歴コンプレックスに陥るような人は、そのことが分からないのである。よって、そういった人達にとって、「自身の志望した大学に入学できなかった」という事実は、単に「努力が報われず残念であった」ということだけに留まらず、「自身の存在価値の喪失」や、「自分がこれまで積み重ねてきた様々な実績の崩壊」をも意味してしまうわけである。このため、学歴コンプレックスを抱える人達は、「受験失敗」がまるで「人生の終わり」のように感じられ、自暴自棄になったり、過度に意気消沈して抑うつ状態になったり、結果、引きこもってしまったりするのである。このことから分かるように、そういった人達はなにも、「思うような学歴が得られなかったから」という理由で人生を台無しにしているのではない。思うような学歴を得られなかったことで、「自分の存在価値がなくなってしまった」と感じてしまっていることにより、人生を台無しにしてしまっているのである。「学歴」そのものはそのトリガーとなったに過ぎない。

3.学歴以外のステータスを手にして見返してやろう、という対処法は根本解決にはならない

親による、「テストで良い点数を取ること以外、お前に存在している価値はない」という刷り込みは、子供の精神を確実に蝕むことになる。
中村淳彦氏の『東京貧困女子。』という本に、このような記述がある。1)

(前略)
平和な学生生活を期待して最難関校(高偏差値の中高一貫校のこと:筆者注)に進学したが、中学校では同級生からさらに酷いイジメに遭った。そして、うつ病を発症する。

進学した中高は精神疾患の子だらけでした。本当に異常っていうくらいの状況でした。中学3年になるとクラスの女子の半分くらいがリストカットして、学校側はリストカットする生徒の名簿をつくっていた。私、自傷はしないので三者面談で先生が「あなたの娘さんは、精神状態は大丈夫です」みたいなことを言っていました。

親の大きな期待を背負わされ、小学生のときに遊ぶことなく、ひたすら勉強をしてきた子どもたちだ。偏差値75の出身校は毒親育ちの子どもが多く、クラスの半分以上が心身の状態が悪かったという。教師の目の届かないところでイジメも蔓延していた。

この後、「イジメは、親から受けたモラハラやDVの発散が目的であろう」とする記述が続くが、これを読んだ当時の私は「まさか」と思ったものである。が、今となっては「強ち“嘘”とも言い切れないな」と思っている。自分の存在価値が分からない上、自身の“人間性”等といった要素には目も向けて貰えず、自分の気持ちには見向きもされず、言いたいことも言わせて貰えず、親から数値的な結果ばかりを要求される環境に身を置いていれば、神経症的な精神状態になってしまうのは寧ろ自然な流れと言わざるを得ない。
このような神経症的な精神状態が、後々、重度の学歴コンプレックスを引き起こすのである。学歴コンプレックスを抱えるような人達が自身の「学歴」のような数値的なステータスに強迫的なまでに拘る真の理由は、その人にとって「学歴が大事だから」ではなく「自分の存在価値を失いたくないから」である。幼少期から思うような愛情を与えられず、自分の気持ちに寄り添って貰えることもなく、客観的で数値的な尺度でしか自らの存在を認めて貰えなかったという心の傷が、「受験失敗」によって強く自覚されることとなったというのが、学歴コンプレックスの正体なのである。

これらのことを踏まえて、学歴コンプレックスの克服について考えてみたい。
神経症的な精神状態によって重度の学歴コンプレックスが引き起こされているような人が、そのコンプレックスを克服するに当たって、一般的に言われているような「学歴以外のステータスを手にすることによって解決する」という手法を取ることは真の問題解決にはならない、というのが私の見解である。何故なら、学歴コンプレックスを引き起こしている根本の原因は、「客観的なステータスを何も持たない自分の存在は何の価値もない」という、幼少期から刷り込まれてきた誤った思い込みの存在だからである。「自分の存在は価値がない」という感覚を心底に持ちながら、例えば「富を築く」というステータスを身に付けることによってそれを解決しようとしても、「自分の存在は価値がない」という思い込みは残ったままであるから、決して真の問題の解決には至らない。「自分の存在は価値がない」という感覚が、「富を持たない自分の存在には価値がない」という感覚になるだけである。「自分の存在には価値がない」という感覚が根底にある限り、どんなに富を築いても、本当の意味で心は晴れない。常にその富を失う恐怖、すなわち自身の価値を失う恐怖に苛まれることになるだけである。一見すると問題が解決したように思われるが、その人の内面は不幸せなままである。「富を失ったら、自分の周囲の人々は蜘蛛の子を散らしたように去って行ってしまう」という恐怖に怯えながら幸せを感じることはできない。また、アメリカの精神科医であるジョージ・ウエインバーグは、「行動は背後にある動機となった考え方を強化する」2)と述べていると、加藤諦三氏が著書『自身と劣等感の心理学』で紹介しているが、これによると、「自分の存在には価値がない」という劣等感の解消(=動機)のために「富を築くことによる解決」を試みること(=行動)は、結局は「自分の存在には価値がない」という感覚を強化してしまっている、ということが分かることと思う。これでは幸せになれるはずがない。無論これは、大学入試を突破し、一先ずは学歴コンプレックスを免れた人達にも言えることである。そういった人達は、確かに表面上はコンプレックスを抱えることはなかったが、結局は「自分の存在には価値がない」という感覚を強化してしまっているのである。だからこそ、「学歴を得る」という目標を失った途端に、燃え尽き症候群になるような人が出てくるのである。学歴を求めたその動機が、「自身の劣等感の解消」であったため、そのための具体的な指針がなくなった上、学歴を得られた後でも自身の存在価値への疑問が一向になくならないから、そのような事態に陥ってしまったのである。

畢竟、重度の学歴コンプレックスを解消するためには、「自分の存在は価値がない」という感覚を正しい方向に矯正することが大事だということが分かる。人間の魅力というものは、なにも、客観的な数値によってのみ測られるものではないのである。自分の周囲にいる人々をよく観察することで、それが分かってくる。自分や、その周囲が繋がっている友達や恋人というものは、「何となくこの人といると居心地が良い」とか「何となく価値観が合う、話が合う」といった非常に曖昧で主観的な要素によって繋がっている。人間の言う「好き」という感覚は、「こちらの方がスペックが高いから好き」とか「こちらの方が点数が高いから好き」というものではないのである。まずはそのことに一つ一つ、気が付いていくことである。人間関係は、客観的な数値的指標でのみ決定されるわけではない。その時の縁と、その人の人間性というものが評価されて、人間関係というものが築かれているわけである。そのことに気が付き、存在価値のないはずの自分に何故、人が(誠実な)関わりを持とうとしてくれるのか、そういったことを一つ一つ、分析することが大切である。それは自分の人間性というものに何らかの魅力があるからに他ならない。つまり自分には、存在するだけの何らかの価値というものがあるのである。自分の“個性”というものは、ただそこにあるだけで、誰かにとっては価値あるものとして映るのである。この感覚は到底信じられないことであろうが、事実である。ますはそのことに一つ一つ気が付いて、幼少期からの誤った刷り込みを正していくこと、それが、学歴コンプレックスの真なる解決に繋がるものと、私は考えている。

客観的な数値的指標によってのみ、自らの存在価値を測ってしまうという癖は、幼少期から長年にわたり刷り込まれてきた癖なので矯正することは容易でない。しかし、本当の精神的な安定、平穏、人生の充実を手にするためには、「自分の存在に価値はない」というこの誤った刷り込みを地道に、根気強く取り除いていくことが不可欠である。そして、その地道な試みが上手く花開いた暁には、もう、学歴コンプレックスで悩むようなことはなくなっている。

引用文献
1)中村淳彦『東京貧困女子。』(2019) 東洋経済新報社 pp.121-122
2)加藤諦三『自身と劣等感の心理学』(2002) 大和書房 p71

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5件のコメント

  1. 覚えてますか?亀井さん、いや、ふくろうさん。すばるです。

    今現在はPGとしてIT企業で働いてます。就職するまで、プログラミングの経験はほとんど皆無でしたが、研修期間でプログラミングの奥深さと面白さに気づき、今では一プログラマーとして、社会の一端に生息しております。

    学歴を求めて仮面浪人という荒波に船を漕ぎ出し、たった数日の受験の為に、年単位の歳月に全力を尽くしたあの頃から、幾ばくかの時が流れていきました。

    冒頭では学歴を求めて、と記載しましたが、学歴コンプレックスの根本的な原因は「学歴」ではないというお言葉には賛同致します。私の場合は、社会というものを難しく考えすぎていた、と思います。こうでなければならない、という自分像に囚われ過ぎていたなぁと考えています。

    大事なのは、形に囚われるのではなくて、どんな形でもいいから前に進んでいくこと、失敗を全くしないことではなく、失敗した時のリカバリー能力とか、そういう所にあると思います。遅かったとは思いますが、やっと気がつきました。

    あれから、仕事をこなし、新しい趣味が出来たり、新しい友達、新しい彼女も出来たり、その後、自分の情けなさにより、彼女に振られ、成長出来たかはわからないですが、自分の中でPGとして生きていく、という覚悟は芽生えました。そして、その覚悟は揺るぎないものである、という確信はあります。20代のうちに方向性が決められたのは、自分としては一先ず良かったと思います。

    近況はこんな所です。

    1. 勿論覚えています。というか、時々思い出していました。今頃、どうされているのかな…と(苦笑)
      こうしてコメントをいただけて嬉しく思っています。またそれ以上に、昔と比較してかなり前向きな人生観をお持ちになられていることに感動しています。
      コメントにもありましたように、大事なのって、形ではないんですよね。失敗しようが上手く行かなかろうが、その失敗や挫折から何かを学んで、以降の人生をより輝かしいものにしようとする姿勢が大切なんですよね。私も最近になってようやく本当の意味で、この言葉の言わんとすることが分かってきたような気がします。

      一度転んだ人間っていうのは立ち上がったとき、強いはずだと信じています。お互い、誠実な人生を重ねていきたいですね。素敵な人生にしていきましょう。コメントありがとうございました。

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