自分の愛し方

1.自分を愛することのできない人1)2)3)4)

自分を愛することのできない人がいます。とても魅力的な個性を持っているにも関わらず、自分の存在を肯定することができないような人のことです。ここで言う「とても魅力的な個性」というものは、何も「メディアに露出できるような特技があること」でも、「多くの人が『わぁ凄い』と唸るような頭脳があること」でも、「100人中、100人がそれと認めるような長所があること」でもありません。ただ、「自分の存在が誰かにとって、何らかのプラスになる」程度のもののことを指しています。例えば、この人とは価値観が合う、この人と話していると楽しい、この人と一緒にいると居心地がよい、この人の性格は素敵だ、この人の行動は面白い、この人の世界観が何となく好きだ、等といった何らかの好印象を他者に与えられるような個性のことを、その人の「とても魅力的な個性」と言っています。何ら特別なことではなくても、誰かにとってみると、その人の個性は「魅力」となり得るのです。だから、金銭等の見返りの要求なく、友達や仲のいい同僚、恋人等といった、良い人間関係を築くことができるのです。これは、自分の存在が何らかの形で「評価」されているということですから、たったそれだけで、「自分の存在には価値がある」ということは明らかなことなのです。自分を愛することができている人は、こうした事実を真正面から受け止め、自らの存在への肯定に結び付けることができます。自分を愛することができている人は、自分の「個性」や「存在」といった漠然とした曖昧な自らの要素に、しっかりと価値があることを認めることができます。
しかし、自分を愛することができない人は、その人が、たとえ上に挙げたような「よい人間関係」を築けているような人であっても、それを自分の“存在価値”に直接結び付けることができません。従って、自分を愛せていない人は、自分の“個性”といった曖昧で漠然とした人間的要素に価値を感じられないため、人生に漠然とした空虚感を抱えることになります。自分という人間の存在に価値を感じることができていないのですから、これは当然の感覚と言えるでしょう。

さて、その「空虚感」を抱えながら人生を送ろうとすることは、実際のところ非常なるエネルギーを要しますし、耐えがたき苦痛を伴うわけです。そのため、自身の抱えるその“人生の空虚”をどうにかして埋めようと試みるわけですが、自分を愛せていない人は、「他者からの承認を得ること」によってそれを埋めようとすることがあります。
「他者からの承認」を得ようとするための努力には様々なものがありますが、ここでは、過度に「いい子」と言われることで、他者からの承認を得ようとする人達の努力を例に挙げてみます。過度に「いい子」と言われるような人達の中には、「他者からの承認を得るため」に「いい子」を演じている人がいますが、そのような人は、親や先生から「偉いね」「いい子だね」といった「承認」を得るため、本当の自分を押し殺し、「いい子」を演じています。つまり本人は、大人から過度に「いい子」と言われるような人間では本当はないのだけれど、本当の自分を押し殺して生きることよりも、自分の存在価値を確認できないことの方が辛いから、無理をして「いい子」を演じることによって、大人からの承認を得ようとしているということです。
・本当は、勉強せずに友達と遊んでいたい。けれども、「ちゃんと勉強して感心ね」という言葉が聞きたくて、遊びたい心に蓋をして勉強をする。
・本当は、部活も勉強も完璧にこなす自分に疲れている。けれども、文武両道をよしとする教師から“素晴らしい生徒”だと思われたくて、無理をして両方をこなそうとする。
・本当は、親に言いたいことが沢山ある。けれども、それを飲み込んで、ニコニコしている。そうすると、周囲の人は「この子は反抗期がなくていい子ね」と言う。満足げな親の表情を見て、子供はホッと胸を撫で下ろす。

他者承認がないと自分の存在価値を感じられない「いい子」にとって、自分の感情や価値観を大事にして生きていくことよりも、本当の自分を押さえ込み苦しんででも、他者承認を得ることの方が大事なのです。

先にも述べました通り、これは一例です。他にも、過度に「明るい子」、「自己犠牲的な人」、「品行方正な人」、「勤勉な人」、「名誉欲の強い人」、「努力家の人」、「立派な人」等もそれに当たります。表向きは、様々な様式によってまことに感心な行動が本人によって取られるわけですが、その行動の動機となっているものは、いずれも「自分の存在を認められたい」とする他者承認への渇望です。また、「他者承認」とは一見するとほど遠いような“非行”やドラッグ、アルコール依存、自傷行為等の“自己耽溺行為”に関しても、その動機は「自分のことを認めて欲しい」「自分のことを分かって欲しい」という他者承認への渇望であることが多いです。と言いますか、「他者承認」を求めるあまり、自分を押し殺し続けることに我慢の限界が来てしまった結果、非行や自己耽溺行為といった形で欲求不満が爆発する(その一方で、やはり他者承認を望み続けているのですが)、という流れになっていると言ってもいいかもしれません。内面に黒い感情を抱えながら「いい子」「明るい子」「非行少年・少女」をやっているような人達は、自分の感情を過度に抑圧してでも、他者承認が欲しいのです。

このような、人生への空虚感から過剰の「他者承認」を求める行為は、本当の自分を過度に抑圧するという代償を払っているだけに、凄まじい精神的負荷をその人に強いていることになります。しかし、本当の自分を押し殺す対価に他者承認を幾ら得たところで、その人の期待しているような満足が得られることは永続的にありません。というのも、その人の望んでいる他者承認の根幹は、例えば「いい子」にしていることによってのみ得られるような条件付きの承認ではなく、たとえ「いい子」にしていなくても、「あなたはあなたのままでいいんだよ」と言って貰えるような、無条件の承認だからです。また、自分の存在価値を他者承認で補うにしても、その人自身が「自分には存在価値がない」という評価を自身に下していれば、幾ら他者承認を積み重ねたところで、一向に期待しているような満足を得られることはありません。そして、自分を愛することができていない人の無意識には他者不信が根付いているものですが、この無意識にある他者不信が、他者からの承認を受け取る際の障壁になっていることもあります。
このように、本当の自分を抑圧することによる凄まじい精神的負荷を抱えていながら、自身の求めているような満足を一向に得られることのない状況は、その人を確実に追い詰めていきます。そのような理由で、「いい子」と言われていたような人が犯罪に手を染めたり、表面では大変「明るい子」が陰でリストカットをしていたり、「自己犠牲的な人」が社会奉仕活動への傾倒の後にバーンアウトしたり、「名誉欲の強い人」が、自らに社会的な泊を幾ら付けても一向に満足感が得られない、等といった問題が生じてくるのです。自分を愛することができてない人は、他者からの承認や評価、愛を真っ直ぐに受け取ることはできないのです。

2.自分を愛することができない理由1)2)3)

人が自分を愛することができなくなる理由は、その人が生まれながらに持っている「自分を愛して欲しい」という願望(“幼児的願望”と言います)が叶えられないまま成長してしまったことに起因しています。人は生まれながらにして持つ「自分を愛して欲しい」という欲求を親から満たして貰うことで、自己、他者、世界に対する信頼感を獲得します。この信頼感こそ、「自分の存在に対する肯定」や「自分で自分を愛するという感覚」に繋がっているのです。しかし、この欲求が満たされなかった人は、自己、他者、世界に対する信頼感を獲得しないまま成長するわけですから、「自分の存在に対する肯定」のみならず、「他者信頼」「この世に対する安心感」をも持たない状態で世界と対峙しなければならなくなります。この状態は、周囲が敵だらけの世界を、誰も頼りにできる人がいない中で、無力な自己を頼りない自分自身の力のみで守っていかなければならないような絶望感で押し潰されるような感覚をもたらします。このような絶望的な世界で生き残るため、人は様々な適応を見せます。
例えば、自分という存在を他者にとって無害化することによって生き残ろうとする人は「大人の理想通りに振る舞うのをよしとするいい子」、「誰に対しても感心な程元気に接する明るい子」、「自分を持たず他者への献身のみを生き甲斐にする過剰な自己犠牲精神を持つ子」等になりますし、社会的な泊をつけることで他者に尊敬されることによって生き残ろうとする人は、「強迫的なまでに名誉欲の強い子」になるでしょう。

ここで問題にしているのは、こうした「いい子」、「明るい子」、「名誉欲のある子」として子供が育っていることではありません。子供が自身の成長動機のために「いい子でいる」、「明るい子でいる」、「勤勉な子でいる」のではなく、子供が、他者からの承認を得られなければ自分はこの世界で野垂れ死んでしまう、という恐怖心から「いい子でいる」、「明るい子でいる」、「勤勉な子でいる」ことに問題があります。「自分は医者になりたいから勤勉でありたい」という成長動機ではなく、「医者にならなければ皆から見捨てられてしまう」という不安感から「勤勉である」ことを選択していることに問題があります。その恐怖心の中に「真の自己」はありません。「真の自己」を押し殺し、他者承認を求めた「偽りの自己」を演じ続けていたのでは、到底、自分を愛することはできません。

3.“愛される”ということと世代間連鎖1)2)3)4)

前項で、人は生まれながらに「自分を愛して欲しい」とする幼児的願望を持っていると述べましたが、その実は、「そのままの自分を愛して欲しい」という無条件の愛情のことを示しています。すなわち、「勉強やお手伝いができたら褒めてあげる」、「いい子にしていたら優しくしてあげる」、「私達(親)の都合の良い子でいるときだけ構ってあげる」といった条件付きの愛情ではなく、「どんなあなたでも私達の大事な子供だよ」という究極の存在肯定のことを言います。人は幼少期に、親からこの無条件の愛情を得ることによって「自分は存在する価値のある愛されるべき人間なのだ」という感覚を持つことができるようになりますが、この感覚は他者信頼やこの世に対する安心感を得るための重要な基礎になります。

無条件の愛情を与えることはとても大変なことなのですが、中でも、自身の幼少期に幼児的願望が満たされないまま大人になってしまった親にとっては、その難度は更に非常なものになるでしょう。何故ならそのような人は、社会的には親という役割を与えられているかもしれませんが、内面では無意識に、「幼少期に愛されなかった」ことに依る心理的葛藤を抱えているからです。要するに、社会的には確かに“親”なのですが、心理的にはまだ子供時代の傷が癒えておらず、“子供”のままなのです。心理的に子供のままである親は、自身が幼少期に愛されないまま大人になったことで、自分に対する愛情や他者信頼を持てないまま、それでも自己犠牲的な過度の社会適応によりどうにかしてこの絶望的な世界を生き抜いて、ようやく親になったわけですが、親となった時点でも、その人の内面では「愛されたい」という欲求が満たされないままです。フロイトが「幼児的願望は抑圧されることはあっても無くならない」と指摘したように、幼少期に満たされなかった「愛されたい」という欲求は、大人になろうが、親になろうが、無意識に抱えられたままです。「愛されたい」と欲求している人間は愛情飢餓状態ですから、他者に愛情を与えるだけの余裕はありません。愛情を求めている愛情飢餓者にとって、逆に他者から「愛してくれ」と甘えられてしまうことは非常に厳しい要求でありますから、そうした“愛情飢餓者-愛情欲求者”間の関係には何らかの無理が生じることになります。その「無理」が表面化した際に代表して見られるものが、ボウルビィの示した「親子の役割逆転」です。これは、自身の愛情飢餓感に耐えられなくなった親が、逆に子供に甘えることによって、自身が幼少期に愛されなかったことに起因する心理的葛藤を解決しようとする、というものです。幼少期からの愛情飢餓を抱え、それが親となった今となっても解消されていない親は、子供を自分の都合の良いように支配することで、自身の心理的葛藤を解決しようとします。その一例を、生まれた子供が過度の「いい子」として育つケースで検討していきます。

一般的に「いい子」として評価されるような子供は、生まれたときから、親や教師にとって都合の良い言動を取るような性質だけを持っていたわけではありません。やはり小さい頃は、先程紹介した「自分を愛して欲しい」という幼児的願望にはじまる様々な欲求や、その子供特有の個性というものを持っているわけです。ただ、これらの子供の欲求や個性というものは、心理的葛藤を抱えている親にとっては「邪魔」になります。何故なら、心理的葛藤を抱える親は、子供が自分の思い通りに動いて貰えないと困るからです。自身の「愛されたい」という心理的葛藤は、子供に対する甘えとなって表出します。本来は、子供が「自分をこう扱って欲しい」「自分のことを認めて欲しい」「自分のことを思い遣って欲しい」と親に甘えるところを、親が子供に「自分をこう扱って欲しい」「自分のことを認めて欲しい」「自分のことを思い遣って欲しい」と甘えるのです。このとき、子供は子供でいることを許されず、親の面倒を見る大人の役割を担わなければならなくなります。これが「親子の役割逆転」と言われる所以です。従って親は、子供に対して様々な要求をします。「私が出した料理を美味しいと言って」「私が提供した家族サービスは必ず喜んで」「私の機嫌を取って」「私と一緒に居るとき楽しそうにして」「私に恥を掻かせるような言動は慎んで」等、「あなたは私の期待しているような言動を取ってね」という要求を言語的、非言語的問わず、子供に出すのです。そうして、これらの要求を子供が汲み取れた際には「偉いねー」「凄いねー」「いい子だねー」と褒める一方で、要求を汲み取れなかった際にはそのことを様々な形で非難します。その最たるものが、「私の期待したように行動できないあなたは要らない(私の子ではない)」というサインを送ることでしょう。子供にとって、親から見捨てられることの恐怖というのは凄まじいものですが、その恐怖を利用することによって、子供を自分の思い通りにコントロールしようとするのです。親は自分の子供を自分の思い通りに動かすことで、自身の「愛されなかった」ことの心理的葛藤を解決しようとしているのです。このようなやり取りの中で、子供は親から見捨てられることの不安や恐怖心によって、親の思うような人間に育っていきます。その結果、親の顔色を伺い、親が子供である自分に何かして欲しそうなことがあるようならばそれを瞬時に察知してそれを実行に移し、親の機嫌を取るようなことをペラペラと言葉にし、親が恥を掻かないよう外では教師等の大人に過度に迎合する「いい子」が出来上がります。言うまでもありませんが、このようにして作られた「いい子」は子供が主体的に選択した性質ではなく、親から見捨てられることの不安、恐怖心により作られた性質ですから、子供にかかる精神的負荷は凄まじいものなのです。このような子供は、自分の感じるままに物事を感じることを禁止され、親の感じるように感じることを強要されているので、次第に自分というものが分からなくなっていきます。「自分というものが分からない」という人の存在は、こうして説明することができるのです。これは先程挙げた「明るい子」や「自己犠牲的な人」、「名誉欲の強い人」も同様にして考えることができます。このように、見捨てられる不安から自分の言動を規定している子供は、親から「そのままのあなたではダメだ」というサインを受け取り続けて育ったわけですから、自分の存在価値を見出すことは困難です。親からコントロールされてきた名残から、「自分の存在は親にとって邪魔なんだ」「親の期待通りに動けない自分はダメな人間だ」「自分はクズな人間だけれど、親の温情によって生かされているのだ」といった自己認識を持ちますが、このような自己を愛することなど到底できません。そして、そのようにして育った子供は、自身も「幼少期に愛されなかった」ことによる心理的葛藤を抱え続けたまま大人になり、親になり、そうして、自身の子供を通じて自身の心理的葛藤を解決しようとすることになります。これを世代間連鎖と言います。

4.自分の愛し方4)5)

例えば過度の「いい子」というのは、自分が親から見捨てられてしまう不安、恐怖心に苛まれながらも、その中でどうにかして生き残ろうとして、自身の「愛されたい」「認められたい」「甘えたい」という欲求を無意識の領域に抑圧して、周囲にとって理想の人間であり続けようとした人であり、ある意味で、子供時代がなかった人です。人が健全に生きていくのに不可欠である基本的欲求が充分に満たされていない中で、「人から見捨てられないよう」「人から失望されないよう」懸命に生きてきてきた人です。辛くないわけがないのです。目に見えるところでは何ら問題を抱えているようには見えないかも知れませんが、その内面、無意識には、充分に満たされることなく悲鳴をあげている愛情欲求、承認欲求がドロドロと渦巻いているのです。その欲求を自覚して真正面から向き合うと、心(自我)が壊れてしまう程の苦しみを覚えてしまうため、無意識の領域にその欲求を抑圧するわけですが、欲求は無意識の領域に抑圧できても決して無くならない上、抑圧された欲求は無意識的に(ないしやや意識的に)その人の内面や行動を支配しますから、愛情飢餓者は、愛情飢餓の苦しみから逃れられているときなどなかったのです。「客観的に自分は幸せで良いはずなのに何故か生きづらい。私の悩みは贅沢なのか」と思っている人は、考えを改めることが大切です。生きづらい、苦しいのは当たり前なのです。まずは、自分自身が抱えている問題に対する認識を改めることが必要です。基本的欲求の不足に伴う苦しみは、贅沢な悩みなどでは決してありません。そのため、「自分が苦しさを感じるのは当たり前のことなのだ」という感覚をもっと堂々と持っていて良いのです。もう、自分の身に降りかかる不幸せを「これで少しは自分の苦しみを客観的に人に理解して貰えるかな」などと心のどこか片隅で喜ぶようなことをする必要はないのです。

続いて、これまで生きてきた自身の人生を振り返って、自分の中に、自身を肯定する要素を見つけていくことが大切です。自分が先天的、ないし後天的に身に付けた人間的魅力の存在することを一つひとつ、意識化していく作業が大切です。
まず、自分が「いい子」や「明るい子」、「勤勉な子」となって社会に過剰適応し、他者承認を得ようとしていたのは、自分が自己をいたわった結果である、ということに気が付くことです。すなわち自分自身、実は心底に「自分のことを大切にしたいと思う」気持ちを持っているのだ、ということに気が付くことが大切です。自分は、心底では自分を大切にしようと思っているのです。このことに気が付いてください。

また、「愛情飢餓」という非常に深刻な問題を抱えていながら、それでもここまで逞しく生き延びてきたのだという、“自身の強さ”に気が付くことです。「自分は、深刻な問題に耐えながらも、何とかして社会活動を送っていけるだけの“強さ”を持っているのだ」ということに気が付くことが大切です。

他にも、自分が「良いな」「素敵だな」と思う対象(例えば、自然、音楽、動物)を持っていることを自覚した上で、そうした対象の“良さ”を知覚できる自身の精神性というものに気が付き、そうした精神性に価値を感じてください。「ああ、自分が音楽を好きなのは、音楽を“良いもの”として知覚できる自身の精神の純粋さがあるためなのだな」といった精神性の価値に気が付くことも大切なのです。

更に、子供ながらに親の面倒を見たという幼少期の経験で身に付けた自身の資質(他者の非言語的サインからその人の要求を察する能力etc.)に可能性を見出したり、愛情に飢えているエネルギーを芸術、スポーツ等の社会的に望ましい活動に昇華することができるなら、その資質に可能性を見出したりする等、自身の持つ可能性というものに気が付き、それに主体的に価値を見出していくことが大切です。

そして、自分自身で、これまで深刻な問題を抱えながらも頑張ってきた自分、これからも問題と向き合いながら前に進んでいく自分に、「よく頑張ったね」「実は今あなたはとても凄いことをしているんだよ」「辛いことがあったら甘えてもいいんだよ」と声を掛けてあげることです。本当は幼少期に親から掛けて貰いたかったいたわり、共感の言葉を、自分で自分に掛けて、自分を思い遣ることです。

またその中で、自身の築いてきた人間関係を改めて見つめ直してみることです。これまで自分の周囲にいてくれた人達は、果たして「過度の他者迎合」をしていないと、自分の元から離れていってしまう人達なのだろうか、ということを見つめ直すことです。これまでは「見捨てられ不安」が先行して、周囲の人達と“自分らしさ”を出しながら関わっていくことができなかったかも知れませんが、仮に“自分らしさ”を少しくらい出したところで、自身の元を離れていってしまうような人は実際のところ、殆どいない(もしいたとするなら、その人とは今後は深く関わる必要がない)ことに気が付いていくことが大切です。今、自分が関わっている人達は、出会ったそのときの縁と、自身の持つ何らかの人間的な魅力に惹かれた結果、こうして付き合い続けてくれている人達なのだということに気が付くことが大切です。もし、こちらが“自分らしさ”を少しずつ出していく過程で、多少の意見の食い違い等といった“すれ違い”があったとしても、周囲の人達とは、たった一度のすれ違い、衝突などでは決して切れることのない強い関係で結ばれてあるのだ、ということに一つひとつ、気が付いていくことが非常に大切です。

意識したことはあまりないかも知れませんが、自分という人間は、ちゃんと自分の中に存在しているのだ、という感覚を持ってください。その「自分という人間」には、様々な個性が潜んでいて、それは例えば「音楽を愛する精神の純粋さ」を持ち、「他者の非言語的サインを正確に読み解くスキル」を持ち、「愛情飢餓という深刻な問題を抱えてもこの世を生き抜く強さ」を持ち、「他者よりも我慢強さ」を持ち、「これまで抱え込んでいた負のエネルギーをなんらかの社会的活動で昇華しよう」とするアイデンティティの芽を持ち、そして、「見捨てられ不安」から過度の他者迎合をしなくたって、自分と繋がってくれる他者が存在する、といった事実が今、自分の目の前にはあるのだ、ということを一つひとつ、しっかりと確かめていってください。これらのことが、「これまで愛せなかった自分を愛する」ことに繋がっていきます。

参考文献
1)加藤諦三『人生の悲劇は「よい子」に始まる』(2019) PHP文庫
2)岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』(2013)新潮新書
3)加藤諦三『ココロが壊れないための「精神分析論」』(2007)宝島社文庫
4)加藤諦三『自分に気づく心理学』(2000) PHP文庫
5)祖父江典人『公認心理師のための精神分析入門』(2019) 誠信書房




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7件のコメント

  1. 今日、初めてこちらのブログに辿り着きました。
    先日まで、まさにこの問題でカウンセリングを受けていたところです。
    最後の文章、読みながら泣きました。
    このブログに辿り着けたことに感謝します。
    ありがとうございました。

    1. コメントありがとうございます。
      これからも、自分を肯定するための言葉を沢山集めて、その一つひとつを自分のものにしていっていただければと思います。
      お互い、頑張りましょう!

  2. はじめまして。病院に10年通っています。
    度々、支えてもらっている方に爆発してしまい何度もつらくなりここにたどり着きました。心に響く記事をありがとうございます。
    これからも、色々あるだろうけどもう少し楽になれますように。ここに来るかたが自分を愛することができますように。

    1. コメントありがとうございます。少なくとも自分自身は,自分を愛せるようになりたいものですよね。

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