人が怖いけれど、愛されたい――恐れ・回避型愛着障害の抱える闇

「人という存在が怖く、極力“人間関係”からは離れていたい」

「けれども心の底では、そんな“人”という存在から、誰よりも“愛されたい”と願っている」

――このような、

一見すると相矛盾する願望と渇望

を胸に秘め、

両者決して相容れることのない、痛苦のジレンマ

に悶え苦しむ人々が、この世には存在する。

他人の目が怖い/過度に気になってしまうときに考えたいこと

人が怖い

根本に、“人”という存在に対する恐怖心があって、

「人はいつ、自分を攻撃してくるか分からない」
「人はいつ、自分を否定してくるか分からない」
「人と関わることで、いつ、どんな形で、自分が傷付いてしまうか分からない」

といった警戒心を抱え、

現実における対人関係の場面では、常に気を張り、

あまりの緊張で全身を強張らせながら、

眼前の他者から、
「嫌われないように」
「否定されないように」
「失望されないように」
「馬鹿にされないように」
と、薄氷を踏む思いで、

自身の一挙手一投足、一寸のmistakeミステイクも生じないようにと、終始神経を尖らせては、

決河けっかの冷や汗して、刹那の対人関係をやり過ごす。

恐怖心と、
警戒感と、
過度の対人緊張によって覆われた「対人関係」の場面をやり過ごし、刹那的にでもそれを乗り越えることは、

まるで、何かの難事業の重責を背負わされたときのような、重たい、実に胸苦しい疲労を伴ってくるはずだ。

けれども、人から愛されたい

こんなことになるならば、人と関わりなんて持ちたくない

と、一旦は“対人関係”から永遠に逃避できるような、そんな生き方を模索してはみるものの、

いざ独りになってしまうと、どういうわけか突如襲ってくるのが、

心から信頼できる人と、気持ちや感情、愛情を共有したい

とする、

あれほど警戒し、恐れていたはずの“人”という存在に対する、

底なしの渇望

なのである。

そう。
人を恐怖し、
人を過度に警戒し、
対人関係の場では必ず、過剰の緊張により全身を強張らせるその人自身の心が、

その奥底の、大本おおもとの部分で、本当に望んでいるのは、

自分にとって重要である特定の他者から、
無条件の愛情や承認を与えられることによって得られる、無上の喜び

という、人との交流により享受し得る限りの、最高の幸福なのである。

しかしながら、やっぱり人は怖い

けれども、そうした「底なしの渇望」と共に鎌首をもたげるのが、その人の全身を支配している、人に対する恐怖心や、警戒心である。

「人からは愛されたいし、承認されたいし、気持ちの共有だってしたい」

「そうして、“人との交流”を本心では楽しみたいし、何より、人との心の交流を通じて、自身の渇いた心を満たしたい」

満たしたいのだけれど――

「やっぱり、人が怖い」

「“自分が傷付けられるんじゃないか”という警戒感から、どうしても人に近付けない」

という、

両者相容れることのない、痛苦のジレンマから抜け出すことが出来ない――そんな苦しみを抱える人が、この世には存在する。

これって性格?対人スキルの不足の問題?

人によっては、自身のこうした性質を「生まれもった性格」に帰着させて、

「随分、社会適応の難しい性格に生まれてきてしまったものだ」

と嘆くか、

「どうにかしてその性格を改善しよう」

と、性格改善に向けた何らかの努力をされてきたかも知れない。

またある人は、自身の“対人スキルの不足”に帰着させて、

「対人スキルの向上」

に心血を注ごうとしたかも知れない。

そうしていずれの場合にしても、これといった捗々はかばかしい成果が得られぬまま、半ば自身の性格や対人スキルに絶望する毎日を送りつつも、

それでもやはり、

対人への過度な恐怖、警戒心を払拭し、“人と交流することの喜び”を享受したい

という願いは、決して消えることがなかったのかも知れない。

ここでは、こうした

人を怖いと思うけれど、同時に人を求めてしまう

といった願望の所以を「性格」や「対人スキル」には帰着させず、

恐れ・回避型愛着障害(ないし愛着スタイル)

という、愛着理論の一つの概念に沿って考察していきたい。なぜなら、この「恐れ・回避型愛着障害」という概念は、

“人”を回避する一方で、同時に“人”を求めてしまう

人の心理的メカニズムを、適確に説明してくれるものだからである。

“愛着障害”って知ってる?1)2)3)4)

「愛着」とは、簡単に言うと「情緒的絆」のことを言う。

私達は、他者と
親しくなったり、
友達になったり、
恋人同士になったり、
家庭を築いたり、
子供を育てたり等といった、“人と人との結びつき” によって社会を成り立たせているが、

こうした「人と人との結びつき」を生物学的に支えているのが、「愛着」という仕組みである。

さて、「人と人との結びつき」を形成する上で欠かせないこの「愛着」だが、

その仕組みを支える生理学的なメカニズムが、「オキシトシン」というホルモンだ。

オキシトシンを「愛情ホルモン」という表現で覚えている方もいらっしゃるかも知れないが、その名の通り、オキシトシンには、人の社会性や共感性を高める作用がある上、

人は、「脳がオキシトシンを浴びているときに一緒にいた人に、特別な愛着を覚えるようになっている」とも言われている。

ここで話を「愛着障害」に進めてみる。

こうした、“人と人との結びつき”を支える「愛着」が障害されるということは、愛着障害を抱える人は、すなわち、

・人と親密な関係を結ぶことに関して、“不安定な何か”を抱えている
・脳内のオキシトシン濃度が低い(正確にはオキシトシン受容体の数が少ない)

と、いうことになるのだろうか――答えは、“Yes”である。

愛着障害の原因1)4)

人が生まれてより、自らの「愛着」を安定させる上で欠かせないのが、

自らの親と情緒的な絆を結べているか、どうか

ということである。

人間というものは、生まれた瞬間は全くの無力である。そのため、自らの眼前に広がる世界というものは、本来であれば、非常なる脅威に満ち満ちたものに感じられる。

しかしながら、自身の親が、いつも自らを見守ってくれ、
自身がピンチに陥ったときには、都度助けてくれ、
自らの存在を大切にしてくれ、
自らの気持ちを理解してくれる
といった「親子間の情緒的絆の形成」を経るにつれ、

・世の中は安全なところであること
・自分は存在するに足る人間であること
・人間というものは基本的に信頼して良い存在であること
・従って、この世の中を更に知るため、自ら探索行動を取っても大丈夫であること

等といった、自他共に対するポジティブなイメージを感じ取っていく。

だからこそ“愛着の安定した人”というのは、

過度の緊張なしに人と関わっていけるし、
自己肯定感を持てているし、
世の中を格別に悲観視することもなければ、
過度に失敗を恐れず、色々なことにチャレンジ出来るマインドを持てている

といった特徴がある。

自分という存在そのものに自信を持ち、
他者という存在に対して、過度の恐怖心・警戒感を持っていない

――以上の理由により、こうした人々の「愛着」は安定したものになる。

一方で、「親子間の情緒的絆の形成」に失敗してしまった人間は、その「形成の失敗の様式」によって、安定型の人と比べ、幾分、偏りのあるパーソナリティを形成するようになる。今回は、その中でも
「回避型愛着障害」
「不安型愛着障害」
「恐れ・回避型愛着障害」
に絞って、解説をしていく。

「社会不適合的気質で辛い」←愛着障害のせいかも

回避型愛着障害
これは「親から放っておかれること」に適応した結果、獲得されたパーソナリティだ。

幼少期、自らが、親からの注目や承認、助けを求めても、あまり相手にして貰えることがなく、

おまけに、親が共感性に乏しく、自身の気持ちを汲み取ったり、共感してくれたりすることが無かったとき、

そうした親によって育てられた子供は、

「人を求めることは無駄なこと」
「人と気持ちのやり取りを試みるなんて無駄なこと」

といった信念を獲得することがある。

その結果、「回避型愛着障害」の人は、

・人と親密な関係を求めようとせず、
・人と気持ちを共有することに対し、関心が低い

傾向にある。

そもそも“人と関わること”を煩わしいことと思っているため、自らの対人関係が希薄であることに、寂しさというものをあまり感じない。

また、
人との情緒的なやり取り
によって心を満たすことよりも、権力や、お金、地位、名誉といった目に見える社会的ステータスで心を満たすことの方が、ずっと魅力的で、興味を感じられる対象となる。

人の気持ちに鈍感なので、非常にクールな印象を持たれるかも知れない。情けや温情よりも、非常に冷静な結果主義で人を見、判断する傾向にある。無能と判断された人間とは関わらず、自身が有能だと認めた人間とだけ、表面的に付き合う、ということを望むこともある。

ただ人の気持ちのみならず、自身の気持ちに対しても鈍感であるため、自らの気持ちを表現することは苦手である。
それどころか、自らの気持ちそのものになかなか気付つことが出来ず、心はとっくにSOSを出しているというのに、それに気付かず無理をし続け、結果、心身を壊してしまう、ということもある。

「気持ちのやり取りなど無駄」という信念を有しているため、自身が何らかの危機に見舞われたとき、それを誰かに共有し、愚痴を聞いて貰ったり、助けて貰おうとしたり、といった発想には至らない。
どちらかと言うと、人に助けを求めることは、自らの弱みが曝け出されてしまうことであって、助けを求めることによって、まるで自らの弱みが、他者に握られてしまうようにも感じられる。そのため、他者の力が必要なときでも、決して他者に頼ろうとせず、自分の力で頑張りすぎ、力尽きてしまう傾向にもある。

不安型愛着障害
これはその幼少期、

中途半端な愛情しか与えられなかったこと

によって、その人の中で“愛情不足”が深刻なレベルに達しているため、それを希求するあまり、現実世界に不適応を起こしてしまっている状態、と言えるかも知れない。

「不安型愛着障害」の人は、例えばその幼少期、親から

何があっても、あなたは私達にとって、大切な存在だよ

といった“無条件の愛情”や“無条件の存在肯定”を与えられる代わりに、

親にとって都合の良い振る舞いをするときは大切に扱われ、そうでないときは雑に扱われた
とか、
親の気分次第で、大切に扱われたり、粗雑に扱われたりした
あるいは、親には決して悪気がなくとも、
まだ親の愛情を必要とする時期に、下の子が生まれた等の理由によって、親の関心をそちらの方に奪われてしまった

といった理由により、結果的に「愛情不足」や、「中途半端な愛情をかけられたまま」成長してしまったことで、その内面は「愛情への飢餓感」で渦巻いてしまっている。

そうして、子供の頃であれば、親から何とかして愛情や承認を引き出そうと、

・親から褒められるよう良い子や優等生を演じたり、
・親から注目して貰えるよう、敢えて問題を起こしたり、
・自身の不遇さ、不憫さを涙ながらに訴えて親の気を引こうとしたり、

といった行動に出ることも少なくない。

しかしながら、仮に、そうした行動により親の気を引くことが出来ても、そこで得られるのは、その人が真に欲している「無条件の愛情」ではない。せいぜい、一時的な「条件付きの愛情」だけ、というのが関の山だ。

幾ら愛情を求め、
自らが頑張っても、
我慢しても、
無理をしてまで自らを偽っても、
一向に求めているものが得られることのない空虚感から、ますますその人は「愛情飢餓感」を強くしていく。

そのため、大人へと成長した不安型の人は、兎に角、何とかして、“人からの愛情を求めよう”と奔走することになる。

不安型の人の日常は、

・人から好かれようと、過剰に自らを偽ってでも人に合わせようとするあまり、人間関係で疲弊してしまうこともあるし、
・眼前にいる人にとって完璧な自分でいようと、無理をして頑張りすぎてしまうこともあるし、
・時には、長期的には自らが損をすると分かっていることであっても、周囲の注意・関心を引くために、軽率な行動を取ってしまうことさえある。

また不安型の人は、その愛情の飢餓感による苦しみから、人との距離感を誤ってしまうことが少なくない。

特に自分にとって「これだ!」という人(例えば恋人)が現れた場合、その恋人には、自分にとっての「完璧」を求めすぎてしまう。これは「無条件の愛情」を求めていることの裏返しでもある。その過去、十分な愛情を与えてくれなかった親を恋人に投影して、その恋人から、不足していただけの愛情を得ようとしてしまう。

しかし、不安型の人が真に求めているのは「自分という存在に対する無条件の愛情」であるため、恋人は不安型の人から求められている愛情の重みに耐えきれず、逃げ出してしまう、という結果に終わってしまうことも多い。

更に、不安型の人は、その愛情不足ゆえに、自分に自信がない。そのため、他者のちょっとした言動を逐一ネガティブに捉えてしまい、過剰反応を起こしてしまうこともあって、なかなか、対人関係が上手くいきにくい傾向がある。

さて、続いてご紹介する「恐れ・回避型愛着障害」は、上述した「回避型愛着障害」と「不安型愛着障害」の両方の特性を併せ持つパーソナリティのことである。

恐れ・回避型愛着障害
「恐れ・回避型愛着障害」の人の特徴は、

・人は怖い存在だ
・人は基本的に冷たいし、情緒的な交流なんてものは出来っこない
・だから極力、人とは関わっていたくない

といった信念を強く有している一方で、

・それでも、人からの愛情が欲しくてたまらない

という“愛情への渇望”も強く抱えている、というアンビバレンスなパーソナリティの特徴を持つものである。

人嫌い」である回避型の面と、
愛情飢餓」である不安型の面とがハイブリッドした恐れ・回避型愛着障害の人は、その幼少期、親との生活や交流を通じ、

・「他人とは煩わしい存在である」という信念と、
・「中途半端な愛情が与えられる」という愛情不足の土壌

の獲得が同時に為されてしまったことが考えられる。

さて、この“両方の信念”の獲得条件を満たす養育環境の一つが、
過干渉な親のもとで育った
というものである。

過干渉の親のもとで育つことにより、子供は、自らの主体性を発揮することが出来ない。

自分が好きなもの、興味のあるものをことごとく否定され、親の価値観に沿った言動を強制的に求められ続ける、という経験を通じて、

他者というものは、私の主体性を脅かしてくる、煩わしい、恐怖すべき存在だ

という信念が形成される。

がしかし、こうして親から主体性を奪われ続ける一方で、回避型の人のように、親からまるで「放っておかれている」ということがない。常に親の価値観に沿った言動が取れているかを逐一監視され、もし、親のお眼鏡にかなう結果を残せたならば、

「凄い!」
「さすが私の○○だ」
「やっぱりあなたは出来る子ね」

等と、部分的に「承認」されることになる。その結果は、「条件付きの愛情」を与えられることと変わらない。子供にとって、親から承認されることはやはり嬉しいことだから、この先もずっと承認して貰おうと、必死で頑張り続けることになるかも知れない。

けれども、こうした「条件付きの愛情」だけでは、不安型の人と同じように、愛情飢餓感に苛まれることになる。その結果、

人というものは私の主体性を脅かしてくる存在だけれど、
どういうわけか、そんな人という存在からの愛情や承認を求めてしまう

すなわち、

「人は怖い。けれども、愛されたい」
「愛されたい。けれども、人には怖くて近付けない」

といった、両立不可能な感情を抱くに至ってしまうのだ。

恐れ・回避型愛着障害の人は、不安型の人と同様、自分に自信がない。そのため、人に拒否されたり、嫌われたりすることを過剰に恐れてしまう。こうして自分に対する自信のなさゆえ、“他者の反応”というものがあまりに気になるあまり、対人関係の場では過度の緊張を強いられてしまう。

けれども、人間嫌いの一方で、回避型の人のように

対人関係なんて煩わしいものだから、人と関わることを極力放棄してしまおう

等と言って、超然としてばかりもいられない。なぜなら心の奥底で渦巻く“愛情飢餓感”をどうにかして満たしたいという欲求があり、その内面では、人を求め続けてしまうからだ。

しかしながら、自分という存在が人から拒否・否定されてしまうのが怖いため、とてもではないが、迂闊に人に近付くことは出来ない。

さて、恐れ・回避型愛着障害の人の抱える、

決して満たされることのない愛情欲求と、
決して改善されることのない人間不信

――そのダブルバインドに身動きの取れなくなってしまった窮地から、私達は、どのようにして自らを救い出すことが出来るのだろうか。

「人が怖いけれど、愛されたい」――その改善策とは

私はずっと、上述した

・自分に対する自信のなさ
・他者不信感

に対する処方箋を、探し続けてきた。その過程は、本ブログ中に数十記事単位で、公開している。

私自身、これまで色々な考察記事を出してきたものの、未だに、万人に共通するであろう「これ」といった、明確な解を見出せたわけではない。私がこれまで読んできた本の中で、その改善に向けて有効であると、最も頻繁に述べられていた対策は、

「偏ったパーソナリティを形成してしまう上で重要であった人物(つまり親)との情緒的絆を、結び直すこと

であった。ただ現実問題、
それが非常に難しいのだ
という人は、沢山いるのではないかと思っていて。

私はこれまで、そういった人達を想定して記事を書いてきたので、本ブログでは、敢えて「親と仲直りする」という処方箋には触れずにきた。
本当は、「親との仲直り」や「(無理ならその代理として)カウンセラーの力を借りる」といった対応の方が、これまでの私のしてきたあらゆる考察より、ずっと有効な策なのかも知れない。
それを承知した上で、けれども今回の記事でも、今までの方向性は変えず、何とか「自助努力」による改善策を考えてみたいと思う。

親の価値観で生きてきた人はもっと自分にアンテナ張っていこう

さて
そうした制約の中で
という話になるのだが、私が今まで考察してきた中で、現時点で最も

効果的ではないか

と思われるものを、この項では簡潔にまとめてみようと思っている。

(Ⅰ)他者不信への対応
ⅰ)歪んだ認知の矯正
「他者不信」への対処として、「歪んだ認知の矯正」というものは、ある程度の効果を発揮すると考えている。

他者不信を抱えている人は、
「他者は自分を攻撃してくるものだ」
とか、
「他者は自分を拒絶してくるものだ」
といった、極端にネガティブに偏った信念、フィルターを通じて、他者というものを見てしまう傾向にあると思う。

ただ、こうした「偏ったフィルター」を通して物事を見てしまっていたら、

他者の、ほんの些細な、実際は何の悪意も語っていないはずの言動

からでさえ、無理矢理な「悪意」が見出されてしまうかも知れない。

そして、そうした「自らの脳内で作り上げられた実体なき悪意」に勝手に打ちのめされて、ますます自分の中で、他者不信が増強されてしまう、といったことになりかねない。

もちろん、
“完全に悪意や敵意を持って自らに対峙してくる他者”
というものは存在するかも知れないけれど、それはどちらかと言うと、少数派であるはずなのだ。こうした“少数派”の人達に引っ張られて、その他大勢の、何の悪意も持っていない人達の言動までネガティブに解釈してしまっていては、現実を全く見誤ることになってしまう。

「他者不信」が強く、他者の見せる様々な言動が自らに対する拒絶に見えてしまうという人には、まず、現実に起こっていることと、自身の脳内で解釈されていることを分けて考えることをお勧めしたい。

例えば、
会社で同僚に挨拶したけれど、挨拶が返ってこなかった。
というシチュエーションを想定したとき、
どういうわけか挨拶が返ってこなかった
というのが「現実」で、
もしかすると私、同僚に嫌われることをしちゃったのかな
等といった、自身の中で勝手に作られたイメージが、「脳内の解釈」だ。ここで「脳内の解釈」とは、あくまで勝手な「解釈」に過ぎないことを熟知しておくべきだ。その実際というものは、その解釈とは全く異なっているかも知れない。

このとき、「脳内の解釈」だけを盲信して突き進んでしまうのではなく、

他の解釈も出来ないだろうか

と考えてみるのも、認知の矯正には有効だ。例えば、

「たまたま挨拶が聞こえていなかったのだろう」
「何か考えごとでもしていて、簡単な会釈で済ませていたのを私が見落としていただけかも知れない」

といったものが、それに当たる。

解釈の数が増えるだけで、相対的に、脳内の解釈に引きずられるあまり現実が見えなくなってしまう現象に、ブレーキをかけることが出来る。

こうした「歪んだ認知の矯正方法」を知っているだけで、多少は、対人関係における疲弊の度合いが少なくなるはずなのだ。

もう一つ付け加えるなら、「現実」を見る目を以て、他者が、自分以外の人と関わっている様子を、こっそり観察してみるのも良い。

特に「この人は安定型の愛着を持っていそうだな」と思われた人の言動を観察していると、自分自身がされたら、きっとブルーになってしまうであろう他者からの反応に対しても、あっけらかんと対応してしまうような姿を、何度か確認することが出来ると思う。

こうした人の言動、反応を観察し、その観察結果を自身の中で、ある程度洞察していく過程を通じて、自身の内部に潜む偏ったフィルターは、適宜矯正される機会を得ることになるはずだ。

ⅱ)他者が自分のどんな要素に価値を見出すかは分からない、という事実を知る
続いてお勧めしたいのが、
他者が、自分(私)のどんな要素に価値を感じるかは分からない
という、一つの発想を頭の片隅に置いておくことだ。

「他者不信」を抱えている人というのは、基本的に、同時に「自分に対する自信」がないのだと思う。

自分に対する自信がないから、

「自分なんて人から好かれるわけがない」
「いつ自分が拒否されてしまうか分からない」

といった信念のもと、他者と関わることになってしまう。そうして、他者の反応というものが逐一気になって、過度に緊張することに繋がってしまう。

他者の一挙手一投足、そのどこかに、
自身に対する拒絶の反応
があるはずだと、これまた“歪んだフィルター”を通して、他者というものと対峙してしまうのだ。

しかし、実はこうした
自分なんて人から好かれるわけがない
という信念は、どうも当てにならないことが分かってきた。というのも、

他者が自分のどんな要素に価値を見出し、好意を抱くのかといったことは、自分自身のものの見方だけではまるで判断つかないものだ

ということが、実感として了解せられてきたからだ。

例えば私は、「口下手」という弱点を持っている。私のする話は非常につまらないし、何より会話の口火となる「話題の提供」というものがさっぱり出来ず、話を盛り上げることが出来ないのが、私のコンプレックスの一つだ。
けれども、そうした私のことを「つまらない」と思う人がいる一方で、「却って話をしやすい」という理由で、よくコンタクトを取ってくれる人も存在する。私として、これは不思議なことに感じられる。

また私の会社員時代、自身が“これ”といった、目に見える成果を出せていないことに卑屈になっていた折、その裏で上司は実際のところ、「亀井(※筆者のこと)君の存在が、周囲の人間に良い影響を与えている」という理由で、寧ろ評価をしていた、ということもあった。これに関しても、目が飛び出すほど驚いたものだ。

そしてこれは別の人の例だが、他にも、「仕事が出来ない人」というレッテルを貼られ社内では全く冴えていなかった人が、その陰で、一回り以上も年の離れた異性から「結婚するならあの人がいいなー」と、却って好意を寄せられていた、ということもあった。
どうやらその彼女、その人の持つ「思い遣りや優しさ」の面に強く惹かれていたため、仕事の出来る出来ないは、あまり重要になものには感じられなかったそう。その事実を彼が知ったら、心底驚くのではないかと思う。

さて、上に挙げた例のように極端なことでないにしても、

他者というものは、自分(私達)のどんな要素に価値を見出し、好意を抱くか

といった点は、どうも自身の予想に反していることが少なくない、という事実を押さえておくことも、「自分に対する自信のなさ」の改善、いては、「他者不信」の改善に一役買うのではないかと、私は考えている。

ⅲ)自分に自信を持つこと
上記、ⅰ),ⅱ)の項で挙げたものは、あくまで「対症療法的」なものかも知れない。対症療法によって、ある程度症状は改善されるかも知れないが、それだけでは、完全に「他者不信」を克服できる気がしてこない、というのが私の考えである。

というのも、「他者不信」の根っこにあるのは恐らく、

自分に対する自信のなさ

であると、私は考えているからだ。

自分に自信がないから、他者の反応が過度に気になるし、他者の言動一つひとつが、どうにもネガティブな意味を持つものに見えてきてしまう。

そのため、「他者不信」の根っこにある「自分に対する自信のなさ」を取り除くことが出来ない限りは、何度、対症療法のようなもので認知矯正を試みても、完全に矯正しきれないのではないか、と私は予想している。

従って、

「他者不信」の根元にある「自分に対する自信のなさ」を取り除き、自分に自信を付けること

こそが、「他者不信」を克服するための究極的な回答になるのではないかと考えている。

だが、その「自分に自信を持つこと」というのが、また酷く困難極まりない難事業のように、私には感じられる。

(Ⅱ)自分に対する自信のなさへの対応
ⅰ)「自分に自信がある状態」とは?
私は、“自分に対して自信のある状態”というものを、

自身の良い部分も悪い部分も全部ひっくるめて、受け入れて、認めて、
その上で、『私はそんな自分が好きだ』と言える状態のこと

だと考えている。決して、

完璧超人になって、誰からも好かれる人間になること

だとは考えていない。完璧超人なんて、目指さなくて良い。そのどこかに、弱点があったっていい。コンプレックスがあったっていい。自分の中に、何か気に入らない部分が多少、あったって構わない。

けれども、そんな「欠点ある自分」を受け入れ、認めた上で、最終的には、

まあ、それでも総合的に、自分のことは好きかな

と言えるようなマインドを持っていることが、「自分に自信を持っている状態」だと、考えている。

「自分に自信を持つ方法」について考える(対象関係論の観点から)

本来、幼少期から自らの親にその存在を全面的に肯定され、十分な愛情を与えられて育つことが出来たなら、その意識の根底に

「自分は生きている価値のある人間だ」

という信念が根付くため、わざわざ自分の嫌いな部分を過大評価しては、

「自分なんて生きている価値が無い」
「自分なんて嫌いだ」

などと、常に“自己否定”の脅威に苛まれてしまう、ということはない。

しかし、不運にも、幼少期にそうした「全面的な肯定」や「十分な愛情」をかけてもらえず、

「自分は生きていても良いのかどうか、分からない」
「自分のことなど好きになれるはずがない」

といった信念を持つに至ってしまった人は、常に自己否定の脅威に苛まれ、自分に対する自信が失われている。

その上で、

「自分のことを無条件に承認し、愛してくれる存在」

を持つことが出来ない、というのであれば、

それはもう、自分で自分のことを無条件に認め、受け入れ、何もかも、肯定する他はないのではないかと、私は思っている。自力で、自己肯定感を高め、自分に対する自信を強くしていき、最後には、「まあ、色々と言いたいことはあるけれど、総合的に自分のことは好きかな」と言えるようになることこそ、自分に対する自信を持つ、ということではないだろうか。

従って前項で私は、「他者不信の克服」について話をしたわけだが、誤解を恐れず、先の考えに従った主張をしてしまうと、他者不信は、完全に克服できなくたって構わない、そう私は思っている。
これはなにも「他者不信」だけに限らない。色々な劣等感やコンプレックス、自身の欠点や弱点等々だって、完全に克服仕切れなくたって構いやしない。

たとえ他者に対して恐怖心や警戒感が少々残っていても、
たとえ「口下手」という自身の弱点が大幅な改善を見せなくても、
たとえ「仕事が出来ない奴」とのレッテルを貼られていようとも、

それでも自分は、総合的に自分のことが好きだ

と言えるようにさえなっているならば、そんなことは大した問題にはならないのだ。

ⅱ)「それでも自分が好き」と言えるようになるためには?
自身の中にある劣等感やコンプレックスを受け入れてさえ、

それでも、自分は自分のことが好きだ

と心底から思えるようになるためには、どうすれば良いのか。

その回答は、

「自分というものをもっとよく知り、」
「自分というものを大切にしながら、」
「自分の力と、意思と、責任で以て、自らの人生をつくりあげていく」

といった言葉に、集約できるのではないかと思う。

ここまで、
「自分に対する自信を持つ」
とか、
「自分という人間を好きになる」
といった事柄についてこれまで言及してきたけれど、そもそも、そうした「自分」というものを、果たして自分自身が、どれだけよく知っているだろうか。

そして、「自分」という存在のために、どのような人生を歩もうと、自ら決心することが出来ているだろうか。

自分は一体、どんな人間で、
何が好きで、
何をしていると楽しさを感じ、
どんなものに価値を覚え、
特別大切にしたいと思えるようなことはどんなことで、
どういった人生を、果たして歩んでいきたいのか

――このような問い掛けに、きちんと答えられるだろうか。

自身の愛情飢餓感や、他者の反応といったものにばかり囚われて生きてきた人は、もしかすると、

「自分というものを理解し、」
「自分のために、自らの人生を自らの手で組み立てていくこと」

が、かなりの部分でおろそかになってしまっているのではないだろうか。

自分のことを好きになろうとしているのに、当の本人は、自分のことよりも他者を優先し、そもそも自分という人間が果たしてどういった人間で、どのような価値観を持ち、どんな人生を歩みたいと思っているのか、といったことを知らなければ、なかなかその目的を達成することは、難しくないだろうか。

まずは、自分のことをよく知ろうとすることが大切だと思う。自分の過去や日常の言動から、自分の好きなもの・こと、価値観といったものを随時見つけ出していっては、

そうして見つけ出した価値観を、いかに自分の人生の中に落とし込み、

自分のために歩む人生

を自らの意思と責任で、つくりあげていけるか、といったことが大切になってくるのではないだろうか。これは、人生の主体を自分自身に取り戻す、ということと同義のように思われる。

無論、その過程で努力が要されることも少なくないだろうが、様々な障壁を自らの力で乗り越えたという経験が、成功体験に繋がり、その成功体験が、自分に対する自信の向上に、一役買ってくれるはずだ。

自分自身の日常の言動について、自らインタビューを試みるのも良いと思う。

「自分自身を知ること」
「今の生き方が、自身の価値観や、自らの目指したいと思う人生の実現に適ったものか判断する」

ことを目的に、自らが日常に取っている言動の意図について、あれこれと自身に問い掛けてみる。

さて、「人生をオーダーメイドしていく」というその過程で、「自分のことを大切にする」という意識も忘れずに持っていたい。

自身の中で、

「自分はこんな価値観を持っていて、」
「こんな人生を目指したいと思っている」

といった思いが暫定的に決まったとしても、
例えばその実現が困難なものであることが後に分かったり、
自らの分析そのものに誤りがあったり、
自身の思考の浅薄さに気が付かされたり等々、
理想の人生の実現を目指す」中で、失敗や挫折を経験することがあると思う。

けれども、ここで
自分はやっぱりダメな奴なんだ
等のような、ネガティブな言葉を自身にかけることはしなくて良い。自分を大切にするという意識は、忘れてはならない。そのような「失敗」や「挫折」といったものは、あってしかるべきものだと考えたい。決して、自分自身を過度に責め、非難する必要などないのだ。

自分のことを大切にしようとする意識を持ちながら、

自分にとってより良いと思われる人生を、自らの意思と力と責任で、つくりあげていく、ということが大切なのだ。

かなりの期間を要することになるかも知れないが、そうしていくと次第に、自分の中でしっかりとした軸のようなものが形成されてくるはずである。

「自分はこんな価値観を持っていて、」
「こういったことを大切にしていて、」
「だからこんな人生を歩みたくて、」
「こうした行動を取っている」

――このような「軸」が自分の中で明確に定まってくるにつれ、他者と意見が衝突した折にも自ずと、

でも、自分にとってはこっちの方が大事だから

と、決して自分を見失わず、簡単に他者の言動に左右もされず、堂々としていられるようになるはずなのだ。

他者に過度に流されることなく、自分の中にしっかりとした軸を持っており、

そうして、その「軸」のベースとなっているものが

「“自分”という存在に対する深い理解」

となったとき、きっとその人は、自分のことを

まあ、総合的に好きだとは思うかな

と、涼しい顔して、言えるようになっているはずだ。

生きることに「漠然とした罪悪感」がある理由

参考図書
1)岡田尊司『生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害』(2020) 朝日新書
2)高野陽太郎,岡隆『心理学研究法 心を見つめる科学のまなざし』(2018) 有斐閣アルマ
3)岡田尊司『死に至る病 あなたを蝕む愛着障害の脅威』(2019) 光文社新書
4)岡田尊司『愛着障害の克服』(2018) 光文社新書

自分と他人を比較し過ぎて卑屈になる病

人の顔色ばかり伺ってしまうのは「人間不信」があるから

5件のコメント

  1. はじめまして。Makiと申します。
    亀井さんがこのブログを書いて下さったことが、本当にありがたいと思っています。ここへたどり着けて良かった。
    自分と向き合ってもう7年になります。
    自分が一体どうなってしまったのか。
    この空虚感は何なのか。
    『自分』って誰?
    そして長い旅が始まりました。対症療法のようなスキルを知る事から始まり、でもそれでは何かが違うと思い、自己無価値感や愛情不足、そこから生じる様々な事と幾度も幾度も向き合い、螺旋階段を昇ってきました。
    根っこの部分はいつもモヤがかかったように隠されていて、何度も『無価値感』に突き当たっているのに、なかなか解消されない。
    それでも、なんだかよく分からないけど、なんか辛い、という状態よりは、『自分は今こうなっている』と、知っているだけでもだいぶ違うなと、思っています。
    だから、こちらのブログに出会った時、自分の中で『答え合わせ』のような感覚になりました。
    自分の他にも、同じような思いを抱き、ここまで分析してきた方がいたのだと知ることができたのは、とても嬉しく、勇気が出ました。
    今は、『自分の価値観』を少しずつ探り、そこに少しでも沿った人生になるよう、取り組んでおります。
    私はもう中年でありますが、ここから先、どれだけ自分のために生きられるか、時にこれまでの自分の生き様にいっぱい涙を流しながら、(涙が出るようになっただけでも進歩しています)自分にインタビューしながら、進んで行きます。
    このブログを書いて下さってありがとう。

    1. はじめまして。頂いたコメントを見て、ブログやってて良かったと思えました。ありがとうございます。

      漠然とした空虚感の原因――その大枠を捉えることは出来たものの、肝心の“核”を掴むことが出来ない。出来ないながらも、色々なところから情報収集して「仮説生成→検証」を繰り返す。自分の中にあるはずの唯一の回答を求めて…という感じです。ただ仰る通り、「何が何だか分からない状態」を脱しているだけでも、随分心は救われていると感じます。

      7年間も向き合われているとは大変苦労されているでしょうね。過去、何十年にも渡り失われてしまった自己を取り戻す作業が如何に難しいか――それを感じさせられます。ご自分に沢山インタビューしてあげてください。そうしてこれまで抑圧し続けてきた気持ちを再発見して、その気持ちに素直になることによって、きっとこれまでとは違う、人生の綺麗な景色を見ることが出来るようになるはずです。私も頑張って自分を見つけます。

  2. ピンバック: 会話下手の克服

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