人の顔色ばかり伺ってしまうのは「人間不信」があるから

人の顔色ばかりを伺ってしまうことで、自己喪失したり、自己嫌悪に陥ったり、生きづらさを抱えたりしている人は少なくないだろう。

すきこのんで、人の顔色を伺っているのであればそれはそれで良い。仕事において、人の顔色を伺わねばならない場面があるのは仕方のないことだ。

ただ、生活の全シチュエーションにおいて、不本意に・嫌々ながら・必要以上に・過剰なまでに人の顔色を伺ってしまうことで、自己嫌悪に陥り、生きづらさまでをも抱えてしまうということであれば、それは問題になってくる。“改善したい”と思うのが人の筋だろう。

ここでは、人の顔色を“過度に”伺うことで生きづらさを感じている人々の抱える問題について記述し、その改善に向けた一つのアプローチを紹介していく。

人の顔色が過度に気になるのは「人間不信」のせいだ

「人の顔色ばかり気にしていないで、自分の意見・考えを発信していこうよ」などと言われてすぐに、「そうだ。自分の意見を発信していこう」と思える人は少ない。なぜなら、人の顔色を過度に気にする行為というのは、一種の防衛反応だからである。

人の顔色を伺う人は、その行為によって、自身の心を防衛している。一体なにから防衛しているのかは、その人やそのシチュエーションによって異なるだろう。例えば目の前の人から、
・嫌われること
・失望されること
・見捨てられること
・馬鹿にされること
・仲間外れにされること
・存在を蔑ろにされること
から、自身を守っている。

こうした過剰な防衛意識が働いている人は、基本的に他人というのは、「ともすれば自身を攻撃してくる対象」や「心から信用することのできない対象」と認識している。そのため、過度に人の機嫌を取ってその場を丸く収めることで、心が傷付けられることから自身を守っている。
このように、“過度の他者迎合”という防衛の裏には、「他人をそう簡単に信用してはいけない」とする“人間不信”が根付いている。

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なぜ人を信じられないのか

人を信じる姿勢というものは、小さい頃の親子関係をもとに育まれる。逆を言うと、小さい頃の親子関係でつまずいてしまうと、人を信用するための心的基盤が脆弱になって、人間不信に陥りやすくなる。

人の赤ん坊は、その他の動物のそれに比べて、あまりに無力だ。一定の年齢に達するまでは周囲の大人に全面的に依存して生きていかなくてはならない。そのため、人は自身の幼少期にいた環境の影響を、もろに受けやすい。幼少期、自分が「周囲からどのように扱われたか」によって、その後の自身の扱い方を決定してしまう

幼少期、親をはじめとする周囲の大人から愛され、肯定され、安全性を担保されて育った人は幸いである。そうした人は成長してからも、「自分は愛され得る存在で、安心してこの世界を生きていていい」という信念をもとに日常生活を営むことができる。その信念がベースにあれば、(その後トラウマ体験がない限り)「人は基本的に信用していいものだ」という思考を持って生きていくことができる。

「人は基本的に信用していいものだ」という思考を持つ人々にとって、過度の他者迎合など必要ない。仮に意見が食い違おうと、一度や二度「がっかりされる」経験をしようとも、「それだけのことで人々は自分の元から離れていかない」と信じて関わることができるためだ。

一方で、幼少期に親をはじめとする周囲の大人からあまり愛されず、肯定よりも否定を多くされ、自分の生きている価値を十分に感じさせて貰えなかった人は不幸である。先に述べたように、人は「幼少期、自分がどう扱われたかによって、その後の自身の扱い方を決定する。」
人から愛されず、否定ばかりされて生きてきた人は、大人になってからも、「自分は愛され得ない存在で、他人はともすれば自分を否定してくるような存在だ」という信念を抱えやすい。

このような「人間不信」的信念を抱えていれば、自身と関わっている周囲の人間が「自分を心的に攻撃してくる対象」として映ってしまうのも無理はない。こうした、人の攻撃から身を守るための防衛反応として、人の顔色を不本意に・嫌々ながら・必要以上に・過剰なまでに伺ってしまう姿勢が形成される。時にそれは「自分は人から愛され得ぬ存在だ」とする信念と絡み合って、より深刻な様相を帯びることもある。

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「人間不信」の怖さ

人の顔色を過度に伺ってしまう行為の根幹には、「人間不信」が隠されていることを上に述べた。

さてこの「人間不信」であるが、これが一つあるだけで、人生の質は著しく低下するものと私は考えている。

人間不信はなにも、「人の顔色を過度に伺ってしまう行為」だけを引き起こすものではない。場合によっては、「失敗する恐怖」を誘発させる。「人間不信」と「失敗する恐怖」が掛け合わさると問題はより深刻になる。
・「失敗したら人から馬鹿にされるのではないか」という恐怖から、あらゆる物事への挑戦意欲が削がれる。
・「人は誰も自分を助けてくれない」という信念から、「失敗」に対して過度の恐怖心が生起される。
等がそれに当たる。

また、その“人間不信”と“失敗する恐怖”に「自分の能力に対する不信感」が加わってくると、更に苦しいことになる。
・「失敗したら人から馬鹿にされる。だから絶対に失敗はできないのだけれど、自分の能力には自信がない。自分の能力ではきっと失敗する。けれども人は誰も自分を助けてなんてくれないから、どうにか自力でこの窮地を脱しなければならない」
――このような思考に支配されながら日常を送っていては、人生は辛いことばかりになってくるだろう。

極めつけは、上記の思考にプラスして「今のままの自分は誰からも認められず、愛されない」という信念が加わることである。
・「自分は愛され得ぬ存在だから、何かの分野で輝かしい功績を残すことによってでしか人々から認められない。けれども自分にその能力があるかは甚だ怪しい上に、人から馬鹿にされるのが怖いから失敗は決してできない。だからといって、他力を借りることはできない。どうにか自力で何かの功績を残さねばならないが、その術がない。自分は一生、誰からも認められず、愛されないまま死んでいくしかないのか」
――というところまで来ると、その人の人生は苦痛以外の何ものでもなくなってしまう。

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「人間不信」の治し方

最後に、人間不信の治し方について記述する。
人間不信の根幹は、幼少期に周囲の人々によって植え付けられてしまった、誤った自己解釈によって生じている。
人は幼少期、自分がどのように扱われたかによって、その後の自分を扱う
という原則を思い出したい。「人の顔色ばかり伺ってしまうこと」の裏には、「人間不信」が隠れていた。その人間不信の根幹には、幼少期、自分というありのままの存在が誰からも認められなかった体験がある。

しかし、考えてみたい。

確かにその幼少期、誰も「欠点ありきの自分」をありのままに認めてくれなかったかも知れない。自身の「欠点」や「不得意」にばかり目を向けられ、散々に否定されてきたかも知れない。「欠点をも含めた自分の存在」を「それでいい」として全肯定してくれる大人はいなかったかも知れない。まるで一つでも欠点があったり、大人の思い通りにできないところがあったりすると、必要以上の否定を受けてきたのかも知れない。

けれども大人になった今、その状況は変わっているはずだ。自分を取り巻く周囲の大人の多数は、ただ相手に少しだけ、「欠点があること」や「食い違う意見があること」、「しょうもない失敗があったこと」等によって、その存在の全てを否定してくるような人達ではない。幼少期と同じように、自分の存在そのものを否定してきたり、十分に認めてくれなかったりする人ばかりではないのだ。

大人の世界たるもの、人にはそれぞれ、欠点があること、考え方や価値観の違いがあることを承知の上で多くの人々は、関わりを持っている。たった一つの過ちによって、その相手に対するリスペクトが雲散霧消してしまうような関係を築いているわけではない。大人の関わりとは、多少欠点があっても、失敗しても、意見が食い違っても、構わず、関係性が持続されるものなのである。まずはそのことを、知ること。それが大事である。

そして「幼少期の自身の扱われ方」を、今現在の対人関係にまで当て嵌めないこと。現在、自身の周囲にいる大人は決して、幼少期に自身の周囲にいたような大人と同じではないという事実をきちんと認識すること。過去に生きるのではなく、今を生きることをしっかりと心掛けたい。

また人によって、その価値観は実に様々であることを知ることも大切である。これには周囲の大人を観察することによって、徐々に気が付いていくのが良いだろう。自分では「欠点」や「弱み」だと思っていた部分が、人によっては「好意を向ける動機」にすらなり得るという事実を、現実世界の観察を通して知っていくことである。

最高なのは、自身の「欠点」がある人にとって「価値あるものとして映っていた」という経験を、身を以て積めることだろう。そのためには、「自分の思っている欠点は必ずしも人にとって欠点たり得ない」という事実を知っている必要がある。人は必ずしも自分と同じ感じ方をしているとは限らないことを、知ることである。

人の価値観というものは人それぞれである
――この事実が心底より納得せられたその瞬間、「人の顔色を過度に伺ってしまう性格気質」、ひいては「人間不信」は、克服されるだろう。

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