休日の過ごし方




昨年7月の終わりに、自身の歪んだパーソナリティの根底に潜む問題を突き止めてからというものの、以降半年近く、連休の過ごし方というものが固定化されてしまっていた。

初日:パーソナリティに関連する本を読む
二日目:ブログ記事を作成する

こんな連休ばかりを送ってきた。と言うか、これ以外の連休を過ごした記憶があまりない。たまに、読書をする気力もブログを書く気力も湧かない日というものはあるのだが、そんな日はYouTubeを立ち上げて、「テレフォン人生相談」の動画を視聴しながら、「自分が回答者だったら、相談者をどのようにアセスメントするだろうか」とあれこれと思考を巡らせているのがせいぜいである。お蔭で、自身のパーソナリティに潜んでいる諸問題に関する知識は増えたと思う。ブログ記事も、一記事あたり何千字、時には一万字超というボリュームのものを作成するのに苦労することは多いけれども、何とか更新頻度を増やすことはできるようになった。そういう点では、以前よりも充実していた休日を送れるようになったと言っても、差し支えないのかなと思う。

しかし、ここ最近は、どうにも心の晴れぬ日が多くなった。先日、プライベートにおいて大変、心の傷付く出来事が起こり輾転とさせられた(これは、かなり堪えた)のを皮切りに、それに追い討ちをかけるように、小・中規模の「あまり好ましくない出来事」が立て続けに起こっている。今月も、心身の休養を目的に取った有休が、急遽決定した会社の「社員日帰り旅行」で消化される事態に見舞われてしまった(追記:しかも新型コロナウイルスが蔓延している中、強引に実行されるそう)。まぁ近年の私は、この程度の不運で大きく喚き散らかすような人間ではなくなった。嘆いても仕方ないものは、嘆く勿れ。メンタルマネジメントに関しては私もそこそこ、成長したものである。

またそれとは別に、最近は、自身のパーソナリティに関する分析を進めていく内に、自身の持っていた嫌な部分や、目を背けたくなるような醜い内面と向き合い続けることに対する“疲れ”が出てき始めたのも、元気が出ない原因の一つだと考えている。私はこの疲れを「分析疲れ」と勝手に命名しているのだが、この分析疲れ、何も私に限って起こっているものでもないそうなのである。

精神分析、というものは、ざっくり説明するなら、
「意識の底に閉じ込めていなければ、自分を保っていられないような心理的葛藤のあることを、本人に自覚させること」
を目的とする理論体系である。

A君がCちゃんに振られた。A君はCちゃんのことが好きでたまらなかった。けれどもCちゃんは、A君のことを嫌いだった。A君は、「自分はCちゃんから嫌われているから振られた」という事実を、内心では知っている。
ただ、A君にとって、「好きでたまらなかったCちゃんが自分を嫌っている」という事実は到底、直視するに耐えない。事実を直視しようものなら、そのあまりの精神的苦痛に、自分の心(自我)が壊れてしまう。だから様々な形で自己防衛を試みる。例えば、「自分はCちゃんに嫌われているから振られた」という事実を無意識の領域に閉じ込める。その代わりに、「あんな女、よくよく考えてみればくだらない女だった。振られて正解だった」などと、自分の都合の良いように合理化してみたりする。そうして、真の問題と向き合うことを避けることで、自分の心(自我)が壊れないよう自身を守ろうとする。
A君は今や、「Cちゃんは自分を嫌っていた」という事実や、「自分はCちゃんから愛されたかった」という事実を無意識の領域に押し込めているから、そのような実感は意識には上らない。ただ本人には、「あんなくだらない女に振られた俺は幸運だった」という意識があるばかりである。本人も、それが自分の本心であると信じて疑わない。
しかし、このような心理的葛藤の処理方法は、時に無理が生じる。つまり、自己防衛の仕方が不適切だったというわけである。そうしてその「無理」は、様々な心身の不調となって表面化する。例えば、何だかよく分からないが、体が怠い。最近、原因不明の不眠が続く。急に女性恐怖症になった。またはその反対に、急に“女たらし”になってしまった、等。そこでA君は悩むわけである。どうして自分は、こんなに体調が悪くなってしまったのだろう、と。
ここで精神分析は、A君に、自分の本当の気持ちを自覚させるよう促すわけである。「本当は、あなたは、自分がCちゃんから嫌われていることを分かっているのでしょう」「本当は、今でもCちゃんのことが好きでたまらないのでしょう」「本当は、Cちゃん以上の女性はこの世にいないと感じているのでしょう」「本当はCちゃんに嫌われ、振られたことがたまらないくらい苦しいのでしょう」と、こんな感じで、A君が自分の無意識の領域に閉じ込めてしまった、本当の気持ちに気付かせるのである。自分の本当の気持ちに気が付くことで、A君は「ああ、自分はこんな事実から目を背けていたことで、心身に不調をきたしてしまっていたのか」と自覚する。その自覚が、A君を苦しめていた原因不明の心身の不調を快方に向かわせる。仮にA君が、「好きだったCちゃんに嫌われていた」という事実としっかり向き合い、その欲求不満のエネルギーを自分磨きやスポーツ、芸術やその他社会的活動等へ向け、無事「昇華」することができたなら、A君の心理的葛藤は解決する。

しかし、実際のところ本人は、「事実と向き合うと自分の心が壊れてしまうから、あれこれと自分の中で理屈づけることによって、敢えて向き合わないようにしている」のである。従って、精神分析の目指す「その人の無意識にある心理的葛藤を本人に自覚させる」という手法は、時に、その対象の心(自我)が到底抱えきれない問題を意識に上らせてしまうことになる。こうなると却って、無意識に押し込めていた心理的葛藤を自覚することで、心身の調子が悪くなってしまうことがある。これは、元臨床家である祖父江典人氏が、著書『公認心理師のための精神分析入門』で述べている。今の私の「分析疲れ」の原因は、まさに“これ”が起こっているせいなのではないか、と考えている
確かに私は、己の無意識に抑圧した自身の本心、欲求に対峙することで、自分の内面にある醜い部分や、向き合うのが苦しい心理的葛藤を意識しなければならず、特に最近になって、「今日は仕事どころじゃないんだよなぁ」と思われるような、鬱々とした日が増えていた。また、知らず知らずのうちに、自身の言動の一つ一つを分析していく中で、自身の言動における、理想と現実にある大きな間隙を痛感する機会が増えた。それが結果として「自己否定」に繋がってしまう、という現象も起こってきて(※これも前掲書にて指摘されていたことである)、このことが尚更、「分析疲れ」に拍車を掛けてしまっているのかな、とも考えている。今、私は、自身のこれまでの分析の仕方を見直す必要があるのではないか、とさえ思っている。

さて、それを「どう見直すのか」、というところであるが、それは「自我強化」と言って、自身の無意識に抱えている心理的葛藤を意識化しても、心(自我)が崩壊してしまわないよう、心(自我)を強化していく工程を取り入れていく、ということをやっていくつもりでいる。多面的視点を持って、自分という人間には、ちゃんと“良いところ”が存在しているのだということに自分で気が付いていくことで、心(自我)を強化する。それによって、精神分析に基づく「無意識の意識化」に伴う心的苦痛に耐え得る心(自我)の土台作りをしていく、ということを主眼に置いて、今後も自身の内面と向き合っていこうということである。前回の記事である『自分の愛し方』の4項では、この点を意識した上で、自分という人間の“良いところ”を探し、それを肯定していく方法について記述している。

精神分析の話が長くなってしまったが、兎に角、今はどうにも「分析疲れ」の影響を仕事にまで持ち込んでしまう始末で、あまりよろしいコンディションではない。たまには社宅から出て、思い切り自分のためにお金を使って気晴らしでもしてみてはどうだろうか、と考えている次第である。

そこで、急ではあるが、3/9-3/10または3/10-3/11に、苗場スキー場でスノーボードでもしに行こうと思っている(追記:新型コロナウイルスの状況次第でキャンセルになりそうだ)。私はスノーボードがとても好きなのだが、大学受験以降、全く行かなくなってしまっており、滑走するのも実に9年振りなのである。まずはこのスノーボードを思い切り楽しむことで、「分析疲れ」のモヤモヤを発散していきたいと考えている。
また私は、当日に“苗場プリンスホテル”というホテルに宿泊するつもりだが、これもまた今回の遠征における楽しみの一つなのである。というのも、私は“ホテル”という空間がとても好きなのである。一体、ホテルの何が好きであるのかは自分でもよく分かっていないのだが、例えば過去にも、就職活動中にビジネスホテルに泊まるような機会があった際には、何となく気分が高揚したものである。このような「ホテル好き」の人は私の他にも存在しているようで、「ホテル 好き」と検索をかけると、「何をするわけでもないが、ホテルに泊まることが好きで、休日に近場のビジネスホテルに泊まるのが趣味の一つだ」という人のブログやら何やらが出てくる。実に面白いものである。

今回の新潟遠征に限らず、時々はこのようにして分析から離れて、お金を使った楽しい時間を過ごしてみようと思っている。今回はそれをスノーボードにしたが、スノーボードシーズンが終わったら、次は何をしてみようか、今から考えておくのも一興かも知れない。代わり映えのない休日にスパイスを。

ま、来年度の配属先によっては、連休を使って外泊することさえ難しくなってしまうのだけれどもね。




次回記事
『スーパーマンになろうとするな 自分の持ち味を生かせ!』(2/25投稿予定)

2件のコメント

  1. 自分の過去を振り返ったり、自己分析していくと、わたしの場合必ず人への憎しみの感情が湧いてきて、いらいらしてしまい、やらない方が幸せだろうと最近思っています。

    1. かなり分析されたんですね。
      人への憎しみ、怒り等の感情が出てくるのは全く悪いことではないです。当然のことだと思います。
      そうした感情をどのように昇華(自身の中で消化)していくか、というところも同様にして提示していきたかったのですが、そこに関しては私の力不足でした。勉強不足を実感しています。すみません。

      私自身も、内面における自身の「不足」ばかりを見つめていく手法だけでは、ある地点から前に進めなくなるなと感じているところです。私の場合ですと、自身の「不足」にばかり照準を合わせるのではなく、いかにしてこの「不足感」を昇華、発散していくか――そこに焦点を当てて、これからも頑張っていく必要があるのかなと思っています。
      ただ、休日は分析ばかりやっていないで、たまには外に出て遊ぶこともしなきゃいけませんね。

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