スーパーマンになろうとするな 自分の持ち味を生かせ!




私は幼少期から、スーパーマンに憧れて生きてきた。そして自分も、スーパーマンになることが夢だった。

子供時代は一生懸命勉強をして、良い大学に入る。良い大学・大学院で実績を挙げた後、一流企業に入社する。その場でしかできない重要な業務を担当し、同世代の平均を遥かに上回る収入を得ながら、普通の人ではできない方法で、人様の役に立つ。そうした人生の充実から生まれるエネルギーは、時にプライベートへと注がれる。ますます輝きを帯びるその姿は、人々の羨むところとなる。

そんな“スーパーマン”に、なりたかった。

スーパーマンになって、皆から認められたかった。

そもそも、人間たるもの皆、生まれてよりスーパーマンを目指して、努力と素質と根性でどれだけその理想に近付けるかが、人生の幸・不幸の大半を決めるものと思っていた。どれだけ他者から賞賛されるかが、その人の人生の質を大きく左右するものだと思っていた。だから、自分がスーパーマンになれないことが分かったある日、私は自身を人生の敗北者であるように感じ、言い知れぬ絶望感に苛まれたものだった。私を認めてくれる人など、もうどこにもいないように感じられた。

しかし今なら分かる。そうした考え方は、とても視野が狭い。
“スーパーマン”になれるか否か、ということは、必ずしも人生の幸・不幸の大半を決めるわけではない。人生の幸・不幸の大半を決定するのは、その人がどれだけ、“自身の宿命”と向き合っていけるか、にるのである。

人生というものを、“勝ち負け”の軸で捉えるから不幸になる。他人に優越することを、人生の軸においてはいけない。

上には上がいる。スーパーマンへの道には終わりがない。
努力を重ねて、高次の環境に身を置く。そこにいる人達は、多くがその分野における素質を備えている。素質を備えた上で、各々が自己研鑽し、更なる高みを目指している。そうした中で“他者より優越する”ことは並大抵のことではない。仮に優越できても、その先の更なる高次の環境には、もっと凄い素質を備え、もっと多くの努力をする人達で溢れている。中には、努力量が圧倒的に少ないにも関わらず、その環境にまで上り詰めたという人もいる。そういった人は元から優れた素質を備えているような人であるが、そうした人に本気を出されてしまったら、こちらとしてはどうしたって太刀打ちできない。

勝ち負けの軸で生きていたら、いずれは人生に敗北する時が来る。仮に敗北するまでいかなかったとしても、自らの地位が脅かされるような出来事があった際には大きく取り乱し、時に人生を破滅の方向に向かわせてしまう。
“勝ちか、負けか”の思考に縛られていては、いつ自分が“負け組”になってしまうか不安である。その不安は例えば、他者の優れたところを素直に認められない性質となって表れる。
ピアノを上手く弾く人を見て、「凄いなぁ」と素直に感心できない。嫉妬や劣等感が先走り、「なんだ、あの程度のことで得意になりやがって」といった悔しさや自己無力感で一杯になってしまうのは、寂しい。
ピアノを上手く弾く人を見て、「凄いなぁ」と、その人の優れたところを認められることが良い人生だと思う。「自分もあんな風に弾けるようになりたい」と思って、自分は自分で黙々とピアノを練習し始められるのが、良い人生だと思う。
勝ち負けの軸で生きている人は、あらゆる分野で人より優越していないと、何だか落ち着かない。スーパーマンになれたとしても、小さな、取るに足らない敗北がどうにも気になって仕様がない。

人は人、自分は自分
という感覚を持っていたいものである。
他者には他者の価値があり、自分には自分の価値がある
このような感覚を持って生きていきたいものである。こうした思考を持つことは決して、負け犬の遠吠えを意味していない。寧ろ、人間的成長の結果であるとさえ思っている。

己を磨こうとすることの動機に注意を払いたい。
他者から「凄い」と言われるため
他者から「立派だ」と評価されるため
そして他者から自身の存在を認めてもらうためにピアノを弾こうとするから、勝ち負けの軸に囚われてしまうのである。
自分がそれを弾きたいから
という動機でピアノを弾き始めたならば、必ずしも勝ち負けに拘る必要はない。上手く行かなければ努力した自分を認めた後に、別の道を模索すれば良い。上手く行ったらそれは結果的にそのことが自身の魅力の一つになっている。ただそれだけの話である。

自分の持ち味を生かすためには、一旦冷静になって、自分を見つめ直す必要があると思う。
自分がどういった動機で自己成長を図っているのかを、自分自身が認識していながら自己研鑽に励むことが望ましい。そうすることで、その分野における適性が自分にないと分かった際には、その分野から身を引き、軌道修正を図ることができる。自己研鑽の努力が実らなくても、大きく燃え尽きたりしない。というのも、過程を全部無視した極端な結果主義的思考には陥らず、自分のしてきた努力というものを肯定することができるからである。そこには「自分にこの分野における適性はなかった。そのことが分かって良かった」という一種の清々しささえある。
自分を見失っている状態で自分を磨こうとすると、それが失敗に終わったときが怖い。自分はその分野で失敗をしている、適性がないと分かっているのに、その事実を認められずに、ますますその物事に執着する。それも、「結果が出ないのは努力が足りないからだ」という誤った根拠を元に執着してしまう。そうして、懸命なる努力の割に結果が出なかった際には、途方もない敗北感を味わい、「これまで費やした労力、時間は全て無駄であった」という極端な結果主義的思考から抜け出せなくなる。そして大きく燃え尽きてしまう。

自分の持ち味を生かそうとする前に、冷静になって、自分の進もうとしている道について考えを巡らせることである。仮に失敗に終わりそうになったとき、果たして自分は引き返すことができるだろうか、と。それが難しく感じるならば、それは自己研鑽しようとするに至るまでの動機に問題がある。「人様に自分の存在価値を認めさせたいから」という動機で自己研鑽をしない。もし「人様から認められたい」という承認欲求を動機に自己研鑽をするならば、研鑽中もそのことをずっと意識し続けていることが大切である。「人様から認められたい」という欲求を無意識に押し込めることはお勧めできない。「自分は人様から認められたいからこれを頑張っている」と、自身の真の動機を客観的に評価できていれば、仮に失敗した際にも「それでは違った分野で認められるよう頑張ろう」と、比較的早くに気持ちを切り替えられる。この姿勢が、後の成長に繋がっていく。

自分の持ち味を生かそうとするなら、以上に示したように、まずは自分の存在を自分で肯定し、その上で、自分を知る、ということが大切である。自分で自分の存在を肯定し、自分について知ることができていれば、下手に、物事の全てを勝ち負けの軸で捉えてしまうような偏った思考回路は生まれない。物事を勝ち負けの軸だけで捉えるようなことがなくなれば、何も、自分は必ずしもスーパーマンになる必要はないのだ、ということが分かってくる。何でもかんでも完璧にこなしたい、何でもかんでも他者に優越していたい、という欲求が第一に来ることはない。そうすると、自ずと、自身を“スーパーマン”という典型的な型に無理矢理、めようとするのではなく、自分の持ち味、強み、長所をどのように伸ばし、どのように生かしていけば良いか、という方向に思考が傾く。カメがスーパーマンになろうとして、走りも勉強もピアノも極めようとする必要はない。カメならば泳ぎを磨く。ウサギならば走りを磨けばそれで良い。
そうして自身の持ち味を磨く中で、どうしても障壁となってしまう自身の欠点については、最低限、努力で補っていく。“泳ぎ”で実績のある大学の推薦を取りたいのなら、そのために必要とされる最低ラインの成績は保てるよう、泳ぎとは別に、少し勉強を頑張る必要がある。野球において、自身の得意である打撃を売りにレギュラーを掴みたいのなら、最低限の守備力は身に付けられるよう努力しなければならない。自身の内面の豊かさをアピールしたいが、その前段階のコミュニケーションで躓いてしまい一向に深い人間関係を築くに至らないならば、最低限の雑談くらいはできるよう努める。こうした努力は、スポーツも勉強もコミュニケーションも見事にこなすスーパーマンになろうとする努力とは違う。自分の持ち味を最大限に生かすための、適切な最低限の努力である。「自身の苦手分野を完璧に克服しようとする」といった険し過ぎる道のりの努力ではないから、燃え尽きるリスクだって低い。

自分の持ち味を生かすためには、
自分の存在を肯定すること
その上で、自分について知ること
そうして自分の得意を伸ばすことに専念すること
そして得意を伸ばす上で障壁となる自身の欠点については、努力で最低限補うこと
――こうした要素が大切であると思っている。

自身の得意を伸ばしていく中で、どうしても自分より実力、実績共に上を行く人物を見つけてしまうとやる気が削がれてしまうかも知れない。しかしそのような際も、人は人、自分は自分と、めげずに自分の持ち味を生かすことを考え続けていきたいものである。

私の知り合いのカメラマンは、カメラの腕前に関しては素人の域を出ていない。しかし彼女は、カメラの腕前では他のカメラマンに負けていながら、被写体となるモデルの募集に困っている様子はない。
どうも彼女の人柄に惹かれたモデル達は、他の実力派カメラマンを差し置いて彼女に撮影の依頼をするそうなのである。彼女は自身のその長所をよく理解している。

これはある一点において他者を優越することが、全てにおいて正しいと言えるわけでもないという、良い例であると思う。
確かに、実力、実績共に相手の方が上かも知れない。けれども、自分は自分なりの持ち味を生かせるよう、構わず己を磨いていく。そうした中で、自分の予想しなかった角度から、思わぬ魅力がついてくるということだってあり得る。

人生を勝ち負けの軸で捉えて、他人に優越して得意になったり、逆に劣等を感じて嫉妬を覚えたりするような一喜一憂の生き方をするのではなく、自分の持ち味を最大限生かしていけるよう、虎視眈々と適切な努力を重ね、適切な場で輝こうとする。
何でもかんでも他人に優越しようとして、自分の欠点を完全に克服しようとするような辛い努力で人生を埋め尽くすのではなく、自分の持ち味を生かすことを軸とした、自身の得意を最大限に発揮するための実りある努力で、人生を埋め尽くす。
自分にない素質を持つ人々に劣等感を覚え嫉妬するのではなく、素直に「凄いなぁ」と賞賛できるような人生を送る。
そちらの方が、スーパーマンになることなどよりも、ずっと楽しい人生になるように思っている。




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『特定の人にのめり込み過ぎないことのすゝめ』(3/4投稿予定)

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