特定の人にのめり込み過ぎないことのすゝめ




「この人の力になりたい」
「この人を助けてあげたい」
「この人の人生を変えてあげたい」
といった感情から、人は時に、特定の誰かの救世主になろうとすることがある。
その行動自体はとても素晴らしいことであると、私は思う。しかし、時にその献身的な行動が、両者の関係に決定的な打撃をもたらしてしまうことがある。その典型的な例の一つとして、精神的に不安定(注:ここでは、「愛情に対する欲求が著しく強い」程度を指す)な彼女を支えようとする彼氏、という構図を挙げてみたい。

彼氏側は自分が、彼女の何らかの力になりたいと思っている。彼女が精神的に不安定になってしまった経緯についても、ある程度は理解し、同情しているつもりである。
一方の彼女側は、彼氏に甘えたい。彼氏には自分のことだけを考えていて欲しいし、自分のことだけを見ていて欲しい。自分が「辛い」と言ったら「どうしたの」とすぐレスポンスして欲しいし、自分が特に不安定になっているときは四六時中、傍に居て欲しい。自分が好ましくない行いをしてしまったとしても、決して見捨てないで欲しい。こうしたあらゆる欲求を、彼氏にぶつける。
彼氏は逐一、それに応えようとする。彼女の力になりたい一心であるが、彼の注げる彼女への愛情は残念ながら無尽蔵でない。いつかは限界が来る。
彼女側は、そのことが不満である。自分の彼氏たるもの、いつも自分の欲求を満足させ続けていて貰いたい。ただ、その願望はどうにも叶いそうにない。そこで例えば、一つ、二つの浮気なんかしてみる。一つは、寂しさを紛らわすため。二つに、彼氏の愛情を確かめるため。
さて、浮気をされた彼氏側は大激怒である。自分がここまで自己犠牲して彼女に献身してやったのに、その態度は一体何なんだ、と。まぁ、当然と言えば当然のことである。そして彼女にこう言い放つわけである――「君は最低な人間だ」と。彼女はその言葉により大きく傷付き、二人は喧嘩別れすることとなった。

以上のように、「この人の力になりたい」という感情から始まった関係は時に、破綻する。

私も職業柄(?)、上の例と似たようなことを経験している。昨年度の話である。
施設利用者のAさんは、取り分け関わり方が難しいとされる利用者の一人だった。彼女は施設に到着するや否や、帰宅するまで、ネガティヴな発言のとても目立つ人だった。自分の生活において起こったあらゆる出来事を、何らかの不満と絡めて、職員にぶつける。そのネガティヴな発言の持つパワーは凄まじく、彼女の話を聞き終わった後は、多くの職員が精神的にグッタリしたものだった。
私はどちらかと言うと、彼女の話を熱心に聞いていた方だと思っている。彼女の話に「うん、うん」と相槌を打ちながらも、隙を見計らってはさりげなく話頭を転じ、別の前向きな話題に話を持って行くよう努めるのが基本スタンスだったが、要所では、施設内において彼女の不満の原因となっているものをできる範囲で改善したり、または彼女にこちらが何の用事もないときでも、こちらから積極的に彼女に話し掛け(ちょっかいを出し?)、彼女の内面に溜め込んだ負のエネルギーを発散して貰おうと努めていた。
しかし彼女の精神的不安定は一向に改善の兆しを見せなかった。不満の原因が取り除かれても、それはそれで別の角度からの不満が噴出した。彼女の口から発せられる止処とめどないネガティヴ発言を耳にしていくうちに、こちらも次第に元気がなくなっていった。
時折為される、「私はこんなに人生で辛い思いをしている。私なんて死んじゃえば良いんだよね」という発言に対する、彼女の求めるbest answerは「そんなことないよ」である。しかし、既に何度も繰り返されるそのやり取りに辟易としていた私は、ある日、それが言えなかった。代わりに、wrong answerであることを分かっていながら、「そんなに何でもかんでもネガティヴに捉えないの」と言ってしまった。それが引き金となって、彼女は私に対して敵意を向けてきた。「私は怒った!もう知らない」と言うのである。私は、自身のこれまでの彼女への献身が、一つの失策(まぁ、大きな失策だったんだけど)によって一転、水泡に帰してしまう事実に嫌気が差し、さすがに彼女に捨て台詞を吐くようなことはしなかったが、しばらくは彼女と口を利けないほど、腹が立ってしまった。

今年度に入ってからも、類似の経験を沢山したものである。
毎日が不機嫌で、その不機嫌から来る苛々を職員や他利用者に当たり散らすことの多いBさん。私は彼の身に起きている原因不明の不機嫌を愛着障害(※幼少期に母子間で信頼関係を構築できなかったことに起因する、社会的不適応を起こし得る極端な認知の歪みや問題行動)によるものと当たりをつけ、彼の抱える「愛情飢餓感」を癒やそうと必死に努めた。
理不尽に、毎日のように彼から怒鳴られながらも、彼に歩み寄っては言葉を掛けた。彼の主張には共感の言葉を返すことに重きを置いて、なるべく彼の言動に“NO”を言わないことを徹底した。こちらとて何度、彼にガツンと言ってやりたくなる衝動を抑え込んだか分からない。我慢に我慢を重ねながら、根気強く彼と向き合っていった。その結果、彼もやや心を開いてくれたのか、今となっては、一年前の私達の険悪な関係からは考えられないほど、彼と良好な関係を築くことができている。
しかし、彼の調子の悪い日はその限りではなく、やはりそうした日には理不尽に、職員や他利用者に当たり散らそうとする。そのときの私の心境は、大抵、怒りと落胆に満ちている。どれだけの時間、労力、精神を、彼のために削ったか分からない。それなのに、たったこれだけの“些事”で大暴れしてくれるな(まぁ、彼にとっては決して「些事」ではないのだろうが…)、というのが正直なところ。Aさんの時と同様、腹が立つことが多くなるわけである。

私は、仕事において彼ら彼女らとの関係を持っているという立場上、一応は最低限の構造化が為されており、私が、彼ら彼女らとの関係が崩壊するほどの決定打を放ってしまうような事態には至っていない。だが、先に挙げた例の「彼氏」には、仕事にもプライベートにも休まる時間というものがない。その分、彼女に与えられる愛情の枯渇は早く、湧き出てくる憎しみの情も尋常なものではなくなる。遂に我慢ならなくなった瞬間、酷い言葉を放ってしまった挙句、彼女との関係崩壊へと繋がってしまっても何らおかしいことではない。他人の、過去も含めた人生を一人で丸々背負い込むという行為は、いずれ限界が来てしまうものなのである。

それでは、「力になりたい」、「助けになりたい」と思えるような特定の誰かと出会った際、私達はどのような心持ちで、その対象となる人と関わっていけば良いのだろうか。本記事では、その心の持ちようについて考察してみた。私は自身の経験上、具体的なプロセスは少なくとも3 stepsあるのではないかと考えている。

1. 何故、「その人の力になりたい」と思うのか自己分析する

そもそも、自分はどうして、その対象となる人の「力になりたい」と思うのか。その動機によって、心掛けなければならないことが違ってくることに注意したい。

① 対象となる人への思い遣りや愛情から生じる「力になりたい」気持ち
② 自身の欠乏動機から生じる「力になりたい」気持ち
③ お金を頂いている以上、その対価として生じる「力にならなくては」という気持ち

①の、対象となる人への思い遣りや愛情から生じる「力になりたい」という感情や、③の、仕事上における「力にならないといけない」気持ちに関しては、特筆すべきことはないと思う。これらは非常に立派な動機であるから、その心掛けを忘れず、対象の人と誠実に関わっていきたいものである。

一方で、自身の欠乏動機から、ある対象への「力になってやりたい」という願望が生じている場合がある。この場合に限って注意が必要だと、私は考えている。

欠乏動機とは、それを抱える人の中に何らかの満たされないものがあって、その空虚を埋めるために何らかの行動を起こそうとしている状態のことである。“異性からの愛情に飢えている男”を具体例に、それについて考えてみる。
異性からの愛情に飢えている男は、異性からの愛が欲しくてたまらない。(欠乏)
その飢えの空虚を埋めようとして、自分を相手してくれそうな対象を探す。(欠乏動機による行動)
自分に目を向けてくれそうな、か弱き女性を見つける。
そこで、か弱き女性の「力になりたい」という気持ちが湧き上がる。(欠乏動機から生じる「力になりたい」という感情)
しかしその「力になりたい」という感情の実体は、
“自分が彼女の力になることで、自分が彼女から愛されることを望んでいる”
というものである。そのため、彼女への愛情や思い遣りから生じる「力になりたい」という気持ちは、実際のところは二の次である。こういった場合、「自分が愛されたい」という気持ちが兎に角、第一に来ているので、自身の施す献身を、彼女が自身の思うように受け取ってくれないと、燃え尽きてしまいやすい。また、「自分が愛されたい」という気持ちが第一に来ているので(=彼女に対する思い遣りが第一に来ていないので)、彼女が本当に求めているものを、彼女の立場になって、適切に察することがどうしても難しくなる。時に頓珍漢な献身で相手を混乱させることさえある。

このような理屈から分かる通り、自身の欠乏動機から「この人の力になりたい」という感情が湧き上がっている場合は、例えば「彼女が自分の優しさを自分の思うように受け取ってくれない」だとか、「彼女が自分をちっとも愛してくれそうにない」だとか、「自分の思っているように彼女が変わってくれない」といった理由で、早くに挫折してしまいやすい。

徹底した自己分析により、もし、「どうも自分は欠乏動機によって人の力になろうとしているところがあるようだ」ということが分かったら、まずはその事実をしっかりと自覚することが大切である。そして、常にそれを意識した上で対象の力になろうと努めるよう心掛けることが、献身に対する早期の挫折を回避する上で重要になると思う。上に挙げたような理由で挫折しそうになったときは、一旦、冷静になって、自分の本当の動機に立ち返ることである。その動機を見つめながら、自分を立て直そうとする努力が必要になることもあると思う。
「自分が誰かの力になろうとした際、こんなリスクが考えられる」ということを頭に入れながら誰かの力になろうと努めるだけでも、そうでない場合と比較して、忍耐力が大分違ってくることであろう。

果たして「欠乏している者」が、同じく「欠乏している者」を適切に癒すことが可能なのか、といった疑問が湧くかも知れないが、愛着障害に詳しい精神科医の岡田尊司氏、心理カウンセラーの中野日出美氏が各々の著書で「可能」としている1)2)ので、ここではそれを信じることにしたい。
ただ、そのための前提となる心掛けは、上に挙げたようなものであると私は考えている。

2. 相手の抱えている問題を理解する

幾ら相手への思い遣りや愛情があっても、その人の抱えている問題に関する理解がなければ、折角の献身も的外れなものになってしまいかねない。対象となる人の抱える問題はその相手次第のところがあるため、この場で一概に説明することは難しい。そこでここでは、一番初めに挙げた例の「精神的に不安定な彼女」の内面では一体、何が起こっているのか、ということについて簡潔に例示してみたい。

彼女の抱える「不安定な精神」の原因となっているのは、彼女の内面にある、愛情への底なしの渇望である。彼女は、恋人に対してつい過剰な愛情を求めてしまう人格を持つあまり、どの関係も長続きしない。彼女がこれほどまでに恋人からの愛情を渇望してしまう理由は、彼女の幼少期の親子関係にまで遡ることで見えてくる。

人は生まれながらに、「幼児的願望」というものを持って生まれてくる。この「幼児的願望」は、赤ん坊が自身の養育者に対して欲する「自分を愛して欲しい」、「自分の存在を認めて欲しい」、「自分のことだけを見て欲しい」、「自分が泣いたら自分の元へすっ飛んできて欲しい」等の、甘えの欲求のことである。この幼児的願望が養育者によって満たされることで、赤ん坊はこの世に対する安心感、他者信頼、そして最も大切な「自分は愛されるに値する人間だ」とする自己肯定感を獲得することができる。
しかし、養育者の中には、赤ん坊の「幼児的願望」を満たせない養育者もいる。彼女はそのような養育者によって育てられた。赤ん坊の彼女が「愛されたい」と泣けば、養育者は「うるさいな」と冷たい目で彼女を睨み付けた。幼少期の彼女が「自分を認めて欲しい」と欲すれば、養育者は「私の言われた通りの“良い子”にしていなかったのだから愛さないよ」と突き放した。彼女が「自分を見捨てないで欲しい」と願っても、養育者は彼女が自分の思い通りの言動を取らなかった日には「あなたなんて要らない」と突っぱねた。
こうして、彼女は人として健全に成長するのに必要不可欠である養育者からの愛情を得られないまま、そして、生きる上で非常に大切となる自己肯定感が育まれないまま大人になってしまった。彼女にはある意味で、子供時代がなかった。子供でありながら、養育者から見捨てられないために、大人の振る舞いをしていなければならなかった。彼女が子供時代から妙に大人びた子であったのは、そのせいである。
子供時代に得られなかった愛情は、彼女の内面でドロドロとした愛情欲求となって、彼女の心を支配する。彼女は人生のあらゆる局面を、こうした愛情欲求を必死に隠しながら乗り越えていかなければならなかったので、人生というものに絶望感や空虚感を抱いている。その空虚感の原因は言わずもがな、満たされなかった愛情欲求である。彼女はその愛情欲求を満たすために、自身の恋人にべったりと依存しようとする。ただ、恋人となる男性の提供できる愛情は無尽蔵ではない。結局、恋人からは「あなたは重たい」と言われてフラれてしまう。そうして、ますます人を信じられなくなってしまう。ただでさえ低い自己肯定感が更に低下し、再度、傷付くだけの恋愛に走ってしまう。

ざっとこのように、対象の人の抱える問題に関する、以上のようなプロセスを理解する。そこで自身のできる、彼女に施すのに好ましいアプローチは、「彼女の言動に対し徹底して共感を示す」ことや「彼女の言動を蔑ろにするような自身の言動を徹底して慎むこと」、「彼女の自己肯定感を上げてあげられるような声掛けをすること(参考:『自分の愛し方』)」等であることを頭に入れ、行動に移す。これが適切なアプローチである。
間違っても、私が職場でAさんにしてしまったような、「そんなに何でもかんでもネガティヴに捉えないの」といった助言めいたものはしないようにしたい。その助言が全く効力を発揮しないどころか、寧ろ関係のマイナスになり得ることを理解していないと、「彼女の“言葉”から問題を抽出し、それを徹底して取り除くだけ」というような、的外れなアプローチに終始してしまいかねない。

3. 相手の人生の主人公はあくまで“その人自身”であることを認識する3)

本記事にて一番主張していきたいのはこの項である。本記事のタイトルである『特定の人にのめり込み過ぎないことのすゝめ』の意味するところでもある。
「誰かの力になりたい」という気持ちから行動を起こすに当たって、どうしても救済者側である私達の方が、その人の人生の“主人公”になろうとしてしまうことがある。すなわち、
これまで人生に苦しんでいた○○さんが、私と出会い、私の献身的な働きかけを受け取ることによって、これまで苦しんでいた人生が劇的に改善に向かっていく
――といったサクセスストーリーをつい抱いてしまうのだが、このようなストーリーに嵌まりすぎると、あまり良い結果は生まれない。あくまで相手の人生の主人公は、“相手”であって、“私”ではないことを認識していたい。ここを誤ると、自我の境界が曖昧になって、サポートする側が相手のネガティヴな言動に過度に振り回されてしまって、共倒れになってしまう可能性が高くなる。「自分は自分、相手は相手」と、自我の境界をはっきりさせておくことが、長期に渡るサポートをしていく上で重要であると私は考える。

“私”が相手の人生の主人公になろうとしてしまうと、自分を見失い、サポート側は兎に角、目に見える結果が欲しくなって仕様がなくなる。
“私”の献身によって、相手のネガティヴな認知、言動が改善されて欲しいと願うあまり、自身の過剰なまでの自己犠牲的なサポートの割に、相手がなかなか変化してくれない事実に対し、必要以上に苛立ったり、焦ったりしてしまう。こうなると、相手の一挙手一投足が常に気になり、相手の些細な言動に一喜一憂することになる。これでは、サポート役が完全に相手の言動に振り回されてしまうことになる。サポートする側の人間が、相手から発せられるネガティヴな言動と完全に同化してしまい、自身もどんどんネガティヴ思考に陥っていってしまう。こうなるともう、人のサポートどころではなくなってしまう。

私は自身の経験上、献身の対象となっている人の人生の主人公は、あくまで“その人自身”であることの認識を持つことが大切であると主張したい。自身の抱えている精神的な諸問題を本当に解決できるのは、他の誰でもない、その人自身なのである。サポート役の奇跡の献身だけでは、問題解決に不十分である。
岡田尊志氏の著書『生きるための哲学』には、人生に悩んだ人達がどのようにしてその困難と向き合い、克服したか、ということが“愛着障害”の観点から記述されているが、結局、その本にあるどの例にしたって、「その人自身が、自身の抱える問題としっかりと向き合ったこと」が、困難の克服の“カギ”となっている。これは先に挙げた中野日出美氏の著書2)しかり、加藤諦三氏の著書4)然り、祖父江典人の著書3)然りである。その人の抱える精神的な諸問題は、その人自身が、自分でその問題と向き合い、改善しようと意識することが、その克服のための最も重要な一歩なのである。“このこと”なくして、外部からの働きかけのみによって真の問題解決に至るのは、大変厳しいことに思われる。
例えば私が「死んじゃった方が良い」と発言するAさんに対し、どんなに素晴らしい言葉を掛けたり、どんなに素晴らしい環境を整えたって、彼女自身に、自身の抱えている問題と真正面から向き合おうとする意思がなければ、彼女は何も変わらないと思われる。桃源郷は、彼女に自身の問題と向き合うだけの十分な気力までは与えられるかも知れないが、真の問題解決まではしてやれない。真の問題解決は、彼女が自身の問題と向き合おうとする意思を持つことからしか、始まらない。
サポート側である私達にできるのは、本人にその気付きを与えられるようなサポートをしていくことと、本人が自身の問題に気付いた際に、その解決を円滑に進められるような適切な環境を提供することくらいである。私達はあくまで、対象となる人の人生の“サポート役”に徹しなければならない。決して、自分の力だけで他者の生き方までも変えられると思ってはいけない。その事実に対する認識は、対象のサポート役のみならず、サポートされる対象側の精神をも守ってくれることになるだろう。

確かに、精神的な諸問題を抱えている当人は、好きでそれを抱えたわけでは決してないわけだから、生まれながらに負ってしまったそうした“業”というのは、非常に気の毒なものだと思う。しかし、その問題を背負い、向き合っていかなければならないのは他でもないその人自身なのである。サポート役は、そうしたその人自身の抱えている宿命まで抱え込む必要はないし、抱え込むことだってできない。
もし、対象となる相手が自分の宿命をどうしても受け入れることができないまま、サポート役と決別するような時が訪れてしまったなら、それはもう、残念ながらその時の“縁”や“タイミング”が悪かったものとして、諦める他ないと思う。
そういった厳しい現実をもしっかりと頭に入れ、その人が自身の問題に向き合い、解決するまでのプロセスを長い目で見、必要なときに必要なサポートを施すことに徹すること。これが、「この人の力になりたい」気持ちを有するサポーター側に求められる立場、役割なのではないかと、私は考えるようになっている。

参考文献
1)岡田尊司『愛着障害の克服』(2016) 光文社新書 pp.297-300
2)中野日出美『それは、“愛着障害”のせいかもしれません。』(2019) 大和出版 pp.193-216
3)祖父江典人『公認心理師のための精神分析入門』(2019) 誠信書房
4)加藤諦三『自分に気づく心理学』(2000) PHP文庫




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『陰キャラが親睦会を乗り切るために必要な心掛け』(3/12投稿予定)

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