「人の役に立ちたい」というその気持ちは、本物か?

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私のように、対人援助職に就く人というのは、「困っている人達の役に立ちたい」という殊勝な動機を持って、その職に就いた人が多いと思う。私もその例に漏れないと思っていた。

しかし、自己分析を深めていくにつれて、「どうやらそれは違うようだ」ということに気付かされた。そしてその現実は、なにも私だけに限った話でもないと考えている。きっとこの日本のどこかに、「人の役に立ちたい」と思って対人援助を始めてみたけれど、心のどこかで、何か判然としない違和感を覚えているという人が、少なからずいることと思う。そこで今回は、

「人の役に立ちたいと思って、色々な人に尽くしてきたつもりだけど、どういうわけか心が満たされない」

「人の役に立とうとする中で、自分の施す“優しさ”はどこかズレているような気がする」

「周囲の人々に比べて、自分は相手の気持ちを適確に汲み取る能力に欠けている気がする」

といった、「漠然とした違和感」を抱える人達を対象に、その違和感の正体について、一つの可能性を提示していきたい。

結論を先に述べてしまうと、それは、

「自分自身の心にある、未解決のまま残っている傷に囚われているため」

である。

以下で、その詳細を解説していく。

 

1.未解決のまま残っている心の傷とは

 

その正体は、心底に潜んでいる「自己否定感」である。
「自分はダメな人間だ」
「自分は要らない人間だ」
「自分は愛される価値のない人間だ」
といった感覚が、心の傷となっている。そしてその傷が、日常のあらゆる場面で牙を剥き、「漠然とした、正体不明の生きづらさ」「人の役に立とうとしているけれど、何か上手く行かない原因」を、次々と生み出している。

それでは何故、こうした「自己否定感」が生じるのだろうか。それは幼少期より、自身の存在が、あまり肯定されることがなく、そのことによって悲しい思いをしたことが、心の傷として残っているからである。

人はそれぞれ、その人独自の「個性」を持って生まれてくる。そしてこの「個性」が、養育者から、一人の人間の持つそれとして、愛され、認められることによって、人は自己肯定感を育んでいく。「自分は生きていて良い」「自分は自分で良い」といったポジティヴな感覚が養われる。

しかし一方で、その「個性」を、養育者から認めて貰えずに育つ人もいる。自分の気持ちに寄り添って貰えず、親の価値観ばかりを押しつけられたり、自分の興味関心あるものを頭ごなしに否定されたり、もっと酷い場合には、人格や存在そのものを否定されてしまう人もいる。そうした環境で育ってしまった人は、「自分はダメな存在だ」「自分は自分であってはならない」「ありのままの自分には価値がない」といったネガティヴな感覚を身に付けてしまいやすい。

共感性に乏しい家庭環境の中で、自分であることを許されなかった人は、「自分は認められなかった」という傷を抱えたまま大人になる。ただ、“大人”になったからと言って、「自分の存在を認めて欲しかったのに、認められなかった」という、心の傷が癒えることはない。そしてその傷は、「幼少期に満たされなかった承認欲求を、どうにかして満たしたい」といった願望となって、心底(主に無意識)に抱え込まれることになる。こうして無意識に抱え込まれた心の傷こそが、「自己否定感」として、あらゆる物事の元凶となって、人生を困難なものにしていくのである。

ある人は非行や、自傷に走り、ある人はドラッグやギャンブル依存症になる。またある人は過度の「良い子」を演じて、過去に満たされなかった承認欲求を他者から満たして貰おうと試みる。

さて、今回のテーマは「人の役に立ちたい」という気持ちについてである。この気持ちについても同様で、意識では「自分は人の役に立つことがしたい」と思っているつもりでも、無意識では、実はその思いの裏の面である、

人の役に立ち、感謝されることによって、

「幼い頃に満たされなかった承認欲求を満たしたい」
「自分の存在価値を確認したい」
「自己否定感を払拭したい」

といった動機が隠されているかも知れないのである。このように、自分の本当の思いに気付かず、自身の抱える心の傷に囚われてしまっていると、なかなか、「人の役に立つ」ことに正当な喜びを感じることができないどころか、本当に相手の求めているものを正しく提供することも、難しくなってしまう。

 

2.心が本当に求めているものはなかなか手に入らない

 

心の傷付いている人は、その傷をどうにかして、癒そうとするものである。ただ、「人の役に立つ」ことで心の傷を癒そうとする人は、なかなかその行為によって、自身の心が満たされないことに気付くのではないのだろうか。

自身の傷に囚われるということは、言い換えれば、「自分がこれ以上、傷付くことから守ること」ばかりを優先してしまうことである。「自分には価値がない」という自己否定を払拭するためには、他者から、「そんなことはない。あなたには十分、価値がある」というサインが必要となる。こうした、「あなたは必要だ」とするサインを貰わなければ、自己否定感に苛まれ、今にも崩れそうになっている自分を保つことができない。そのため、「あなたには価値がある」というサインが貰えないことや、「あなたのしてくれたことは役に立っていない」と言われてしまうことは、死活問題とさえなり得てしまう。

だからこそ、必死になって、自分を「守ろう」とする。

例えば、「失敗」というものを、必要以上に恐れるようになる。何故なら、こちらが「役に立つ」と思って施した行為が、相手にとっては、「ありがた迷惑だった」「むしろ嫌がられるものだった」というようなことがあっては、それは、「あなたは、役に立っているから価値がある」というサインに繋がらないどころか、「あなたのせいで嫌な思いをした」というサインを受け取ることになってしまう。それは、受け取り側の人間の認知の歪みも相俟って、「あなたは価値のない人間だ」というサインにさえ感じ取られ、存在価値の傷付いてしまうものである。相手に何かのアクションをして、「あなたは役に立っている」というサインを受け取れないどころか、「今のはちょっと嫌だった」なんてことを言われてしまうのは、自己否定感を根底に抱えている人にとっては、非常に辛い。元々、認知の歪みもあるから、「あなたは生きている価値がない」とさえ、言われたような気持ちになってしまう。だから、必要以上に失敗を怖がり、新たなことにチャレンジすることができないし、人との関わりを持つことそのものだって、「もしかしたら失敗してしまうのではないか」といった恐怖に苛まれるあまり、苦痛に感じられてしまう。だから、日々の対人援助が、辛いものになる。

また、対人援助の目的が、「自分の存在価値を確認すること」になっているので、相手に過剰の感謝を求めがちになってしまう。相手から感謝を示されることで、「自分には価値があるんだ」という安心感を得ようとしていると、どうしても、相手から感謝の言葉を必要以上に、引き出そうとしてしまう。
また、「感謝を示されることで、承認欲求を満たしたい」とする、自分の心の傷の解消に囚われるあまり、相手のことよりも自分の傷にばかり意識が向いてしまい、それによって、相手の本当に求めているものが、見えにくくなってしまうこともある。

そこで起こる問題を例えるなら、以下のようなすれ違いだろうか。

「今日のご飯はカレーにするけれど、レトルトと、手作りと、どっちが良い?」
「今日はレトルトの気分だから、レトルトが良い」
「手作りの方が、手が込んでいて良いと思うけれど、レトルトで良いの?」
「うん。今日はレトルトの気分なんだ」
しばらくして、夕食の時間が訪れた。
「できたよ。」
「あれ。レトルトが良いって言ったけれど」
「何その言い方は。こっちの方が手が込んでいて良いと思って、せっかく時間を掛けて作ったのに。そんな生意気なことを言う人は食べなくてよろしい」

作り手は、「わあ、わざわざ手の込んだものを作ってくれてありがとう」と感謝、感動されることを求めている。もっと言うと、そのように大きく感謝されることによって、自身の「存在価値」を確認できることを望んでいる。対して、食べる方は、その日は、レトルトの方を食べたかった。だから感謝が少なくなった。そこで作り手は、まるで自分の存在価値が否定されたかのような感覚に陥った。そこで欲求不満が爆発し、「何その言い方は。生意気なことを言う人は食べなくてよろしい」という発言に至ってしまった。
作り手は、自分のことしか見えていないので、「手間と時間を掛ければ、相手は感動し、喜んでくれるに違いない」と勝手に思い込んでいる。しかし、本当に相手の求めていたものは、自分のために手間や時間を掛けてくれたという事実ではなく、レトルトの味の方にあった。そしてそれを言葉でちゃんと伝えられていた。にも関わらず、自分のことしか見えていない作り手は、自身の承認欲求の充足ばかりが優先されるあまり、相手の意図を正しく汲み取ることが出来なかった。

自分の心の傷の解消にばかり囚われてしまうことは、このようにして、相手から示されている要求を、客観的に把握し、適確に応答する機能を弱らせてしまう。こうした理由で、「すれ違い」が発生しやすくなり、相手からの「真の感謝」も、なかなか引き出せなくなる。その結果、ますます欲求不満も溜まり、心の傷に囚われることになってしまう。

心の傷を抱える者にとって、本当に求めているのは、「人の役に立ち、人の人生をより良くすること」ではなく、「幼少期に満たされなかった、自身の承認欲求が満たされること」であり、「自分の存在価値がないとする信念を、否定すること」である。しかしこうした承認欲求は本来、幼児の頃に、養育者から献身的に世話をされることによって満たされるものである。そのため、自身が「世話をする側」に立っていながら、「世話をされることにより満たされる承認欲求」を充足しようとする行為そのものに、ねじれが生じている。こうした「ねじれ」が不適合の元となり、「相手の要求を適確に汲み取る能力」を低下させている。そればかりでなく、相手が自分の思い通りに感謝を伝えてくれなかったり、または、こちらの献身を意図通りに受け取ってくれなかったりすることにイライラしたり、自分の思い通りに相手が動くよう相手を心理的にコントロールしようとして、そのことによって自己嫌悪に陥ったり、過度に疲弊してしまうことになる。

無論、自分の求めているように相手を動かそうと、心理的にコントロールすることは、対人援助に求められていることではない。仮に相手をコントロールすることができたとしても、それは本当の感謝に繋がっているわけではないし、何より、傷を抱える本人がその傷に無自覚であるため、自己否定感の解消にもならない。

対人援助を通じて、自身の心の傷を癒そうとすることは、困難なことなのである。

 

3.真の意味で「人の役に立つ」には

 

それでは、心の傷に囚われている人は、どのようにして、「人の役に立ちたい」とする欲求と向き合い、同時に、心の傷のケアもしていけば良いのだろうか。

私が大切だと考えるのは、まず、自分に向けられている意識の矢印を、「役に立ちたい」相手に対して、向けようと心掛けることである。すなわち、「自分が傷付くことから、いかにして守るか」ということに向けられていた意識を、「目の前の相手の役に立つため、自分は何をすれば良いのか」といった方向へ、180°回転させることである。これを心掛けるだけで、随分、眼前の出来事を客観的、かつ正確に把握することができるようになる。

そして、自分が傷付くことばかりに囚われることなく、「相手にとってこれが喜ばれるのではないか」と思ったことは、積極的に行っていくことである。失敗したって構わない。その際は、「ああ、この人はこういうことは望んでいないんだな」といったように、その人のことを正確に把握するためのアセスメントが一歩、前進したと前向きに考えることである。失敗は付きものである。失敗一つで、「自分はダメな人間だ」「価値のない人間だ」などと思い悩む必要はない。ただ、「それでは、何であれば喜ばれるだろうか」といったことを前向きに考えていくことが大切となる。失敗を前向きに捉え、真の意味で相手のためを思った行動を取れるようになれば、本当の意味で「人の役に立つこと」ができるようになるし、そうした主体的な行動が、自己肯定感を高めるのに、一役買ってくれる。

続いて、決して、これまでの自身を否定しないこと。「本当の自分を知る」という行為は、時に、物凄い心理的なショックを与える。例えば今回のテーマならば、
「ああ、自分は今まで、自分の心の傷を癒すために人の役に立とうとしていたのだな」
ということを知ることは、心理的にかなりのダメージになり得る。私も、自身の内面に潜んでいた、こうした問題を意識の表層へと引っ張り上げた際は、かなりのショックを受けたものだった。ああ、自分はこんな動機で、対人援助をしていたのか、と。

しかし、たとえ自身の心の傷を癒すために「人の役に立ちたい」と思っている自分に気付いたとしても、その全てを丸々、否定することはしなくて良い。何故ならこの世には、一生掛けても、自身の抱えていた問題に気付けない人が多くいる。そうした中で、私達は、自身の問題に気が付くことができた。そしてそれをどうにかして、軌道修正しようと試みる意思がある。そんな自分を、何も否定ばかりすることはない。自分を何かと、否定することばかりは、しないで欲しい(たまには良いよ。)自分を否定ばかりしていても、何も始まらないし、何も改善されることはない。自己肯定感だって、育まれない。だったら、そのエネルギーを、軌道修正に持っていきたいところだ。先程の、「じゃあ相手は何を望んでいるか?」を客観的に分析するエネルギーに転換できれば、その日から、より魅力的な人間になることができる。それを素直に喜ぶくらいの心を、是非とも持っていていただきたい。

そして最後に、変化のためのエネルギーを蓄えること。自分の抱える内面の課題に気付き、それを修正するということは、これまでの生き方、考え方を、時に180°変えることになるが、これに関しては、とてつもないエネルギーが必要になると感じている。その「変化のため」のエネルギーを枯渇させないため、日常的に、無理をせず、自分を大事にすることに専念していただきたい。
私の場合は、プライドを捨てて、日常的に困難の多かった環境を、ガラリと変えた。すると次第に、心理的に幾何かの余裕が生まれてきて、それが結果的に後々の、変化を促すエネルギーとなった。だから今こうして、「自己改革」とも言うべき、非常にエネルギーを必要とする試みに着手することができている。自分を大きく変えるには、エネルギーが必要になる。そのエネルギーをどうにかして、蓄えていくことが、変化への大きな一歩となるのである。

以上が、「人の役に立ちたい」という思いと、「自己否定感」という心の傷との間に隠されていた課題と、その改善策である。この記事が、何かの気付きになってくれれば幸いである。

ちなみに、本記事で触れた「自己否定感」や「幼少期の養育者との関わり」の、その人の人生に及ぼす影響について詳細に知りたい方には、早稲田大学名誉教授である加藤諦三氏の『自分に気づく心理学』、精神科医である岡田尊志氏の『愛着障害の克服』や『死に至る病 あなたを蝕む愛着障害の脅威』といった本を読むのがお勧めである。これまで漠然と抱えてきていた「生きづらさ」の正体に気付かされることによって、脳天をガツンと殴られるような衝撃を覚えることになると思う。

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