27年間の積み重ねが今の自分の姿となってハネかえって来ている

私は、コンプレックスの塊のような人間です。
様々な「コンプレックス」の集合した大きな一塊に手足の生えた化け物が、服を着て歩いている。それが私です。これは謙遜や自虐ではありません。事実です。私は、どんなに厳しい事実からも、目を背けてはならないのです。事実から目を背けようとするから、いつまで経っても、事態を改善に向かわせることが叶わなかったのです。

私は、自身の抱えるコンプレックスから目を背けている期間を設けすぎてしまいました。自分をくだらない人間であると心底では思っていながら、それでも表向きでも自分をくだらない人間だと認めてしまうだけの精神的な強さ(自我の強さ)がありませんでした。結果として、自分はくだらない人間だとする心底からのノイズを掻き消すため、自分には何らかの魅力があって、今はそれが開花するのをじっと待つ時なのだと自身に言い聞かせることによって、脆弱な自我を保ってきたのです。

しかしながら、私にこれと言った魅力などありませんでした。いや客観的に「全くない」というわけでは決してないのですが、“私自身が納得できるような魅力”というものは、ついぞ見つけられなかったように思います。私は自身の「頭の回転が早くないこと」に対して非常に大きなコンプレックスを抱えていますが、そうしたコンプレックスを補ってくれるのが、自身の「人間性」というものだと信じていました。しかしこの「人間性」なるものも、実際のところはあてになるものではありませんでした。私にはあると思っていた人間性というものが、実はないことを知ったのです。それに気が付いたときは尋常でない苦しみを覚えました。これは、コンプレックスまみれの自身を支えてくれていた(実際は、「支えてくれていた」と思い込んでいただけなのだが)支柱を全て失ってしまったため起こった、自我の損傷です。

私にこれといった「人間性」さえ備わらなかったのには理由があると思っています。それは恐らく、私が自身27年間(※私は今年で27歳です)、自己喪失したまま人生を送ってきたためです。

私には、「自分」というものがないように思われます。自分が何を感じ、何を思って、何を望んでいるのかということを、私自身、殆ど意識できていないのだろうと推測しています。私は常に自分を押し殺し、眼前の人が、自身に何を期待しているかということばかりを基準に、自身の言動を規定してきました。いえ、そうした表現にもやや語弊があるように思われます。何故なら、眼前の人のニーズに応えられるような人生を27年も歩み続けていたのであれば、それはある意味で、私が「人のニーズに適確に応えることができる」という貴重な財産を持っていることになっていなければ辻褄が合わないからです。仮に私が他者の私自身に向けられたニーズを適確に汲み取り、それを実際の言動に反映させることができていたのならば、対人援助に勤しむ私は天職を得たものと考えるようになっていないといけませんし、このブログだって、読者の期待するような記事を投稿し続け、少なくとも現状、読者の数を開設当初の何分の一にまで減少させることがあっていてはおかしいからです。私は厳密には、他者が私に期待するような役割を全うしようと生きてきたわけでは決してなかったのです。現実は、「自身の他者からの“見られ方”だけを気にして生きてきた」と言った方が正しいのです。自分のことを嫌わないで欲しい。自分に対して好感を持っていて欲しい。自分がその人にとって特別な存在でありたい。失望されたくない。興味を失われたくない。離れられたくない。軽視されたくない。そうした「自分」「私」を“主語”とする身勝手で責任逃れ的な価値観にばかり囚われているものだから、本当に他者が自身に欲しているニーズを正確にキャッチすることができず、よって対人関係も深まらず、仕事でも思い遣りに欠け、ブログでも良い文章を書くことができないでいるのです。厳しいですが、これが現実です。目を背けてはならない、厳酷たる事実なのです。

「自身が他者からマイナスの感情を抱かれることを恐れ、あらゆる責任を回避するような言動の選択をすること」を信条にして27年もの歳月を経てしまった私の「人間性」なるものが「空虚なもの」に感じられるのは尤もなことです。私は実際に空っぽな人間なのです。

思えば小学生の時分より、私には自分を押し殺す性向がありました。小学校一年生の頃から、何かと私を敵対視しては攻撃してくる同級生があったのですが、私はその不愉快な同級生に対してさえ「自分はこの人が嫌いだ」という感情を抑圧し、その同級生のご機嫌取りばかりをしていたのでした。何度心ない嫌みを言われたことか。別に彼はお山の大将的な存在でも決してなかった。それなのにどうして「もうあなたとは付き合わない」と、言葉ないし態度で示さなかったのか。それは当時から私が「どんな人からであっても、自身に不快感を向けられるのが怖い」といった恐怖心に支配されていたためです。私は自己防衛をした気になっていました。しかし結果的にこうした言動を取ることで、自分自身が傷付き、その人生も空虚なものになっていたのでした。
私は自分を守るためなら、色々なことをしました。ラジオから「バラより美しい~云々」という歌詞が流れれば母に向けて「バラより美しいのはお母さんだけだよ」などと心にもない苦しい発言をして、「まあ」などという歓悦の声を引き出しては満足してみたり、父の口から「お前は偉くならなければならない。何故なら…」と始まれば椅子にキチンと座り、何時間でも興味深そうにして話に耳を傾け、父の自己満足の充足に付き合いました。
学校の教師の言うことにも従順でした。教師が「右」と言えば私は右を、「左」と言えば透かさず左を向きました。文部科学大臣検定済みの教科書を受動的かつ思考停止的に丸暗記するばかりの教育に自ら甘んじ、上から与えられるものを、何の懐疑も持たず「絶対的な正答」として受け取るその姿勢には、多くの教師が助けられたことでしょう。
つまるところ私は、自己喪失した上に、自分では何も考えないまま、何も思うこともないまま、ただ上の者から与えられる「正答」だけを盲信して、そればかりを選択してきてしまったのでした。自分を持たず、人生の責任も自覚せず、闇雲に他者に従うばかりで、そのくせ、他者からの“見られ方”にばかり拘り続けた27年間。「コンプレックスの化け物」になったのは、水の低きに就くが如き自然な流れであるように思われます。そんな私も私なりに、過去、色々な(主に苦い)経験をしたつもりでいましたが、その経験を今になって活かし切れないでいたのも、こうした私の「生き方の空虚さ」が枷になっているためだと考えています。

私は、自分に自信を持てるようになりたいのです。私の抱えているコンプレックスというものは、大きくまとめてしまえば「27年間、何も積み重ねて来なかった実績が今の自分となってハネかえって来ている」ことに起因しているわけですから、その解消には、自分にも他人にも誇れるような一日を送ったという実績を、コツコツと積み重ねていくしかないわけです。これは一ヶ月前に『再起』という記事で主張したことですが、私のここ最近の人生のテーマは、専ら「自分を誇れるような日々を送ること」です。頭が良くないため読書しても内容が頭に残らないならば、如何にすれば記憶に定着させることができるのかを徹底的に考え実践し、試行錯誤を繰り返す中で最適解を模索する。「口下手を治したい」「三日坊主に終わっていた脳トレを継続させたい」「心理学の勉強から逃げたくない」といった課題にも同様にして取り組む。自分の感情を取り戻すため、日々、「これについてはどう思う?」「自分は何を求めているの?」といったことを自身に問い掛ける機会を多く設ける。そして周囲の人々は、私の思っているほど、私の言動を気にしていなければ、私という存在に否定的ではないという正しい事実をコミュニケーションを通じ頭と心に叩き込み、自身の「私は他者のご機嫌を取っていないと認めて貰えない」という歪んだ認知を矯正すること。これらの努力を、自分の意思で、自分の責任で以て日々積み重ねることによって、次第に「自己否定感」の呪縛から脱し、ゆくゆくは求めていた「人間性」というものも獲得することができると信じて、確実に、歩みを進めていく。きっと今の私にできるのはそれだけです。

さて、こうした生活を実際に始めてみますと、色々な思考が頭を飛び交うものです。その最たるものに「時間が足りない」というものがあります。一日の大半の時間を睡眠と労働に取られている現状、なかなか思うように事が前に進まないもどかしさ。ああ、どうしてもっと若い内に気がつけなかったのだろう。私が人生に空虚を積み上げている内に、普通の人間は、日々、地道にコツコツ自身をアップデートさせるということを繰り返していたわけですから、「時間が足りない」と思われる程に差が開いてしまっているのは当然のことです。世の中のカメたち、いいえウサギたちでさえ、年齢を重ねる毎に先の道、先の道へと歩みを進めているのに対して、自身はカメのくせして、いやカメはおろかナメクジのくせして、毎日、その場で考えている振りばかりして、実際のところその場に27年間、留まっているだけだった。いいえただ留まっているばかりだったわけではなく、歩み出すための道路交通整備に労力が掛かりすぎてしまったのだという言い訳がありますが、それも客観的には「何も進んでいなかった」のと同じです。冷酷な物理現象ですが、大きな差が広がってしまったことに変わりはありません。この差を埋めるのは大変なことです。しかし、その険しい道のりに立ちすくんで、歩み出すことをしないならば、いつまで経っても自分に自信を持つことなどできません。遅すぎると感じようが、果てしない道のりだと感じようが、焦燥や不安を振り払って前に進むしかないのです。私の進むべき道は舗装がされていませんので、歩みを進めれば怪我をすることもあるでしょう。しかしその怪我さえ成長の糧にするくらいの気概でやっていかなければなりません。失敗を恐れてはいけません。過去の失敗は、未来を輝かせるダイヤの原石です。過去の失敗は未来で活かすことができます。それによって未来はより良いものになるのです。過去の失敗をただの「黒歴史」に終わらせてしまうのは勿体ないことです。磨いて、輝かせましょう。私は過去、自身がどれ程、頭が悪いのかということを散々、思い知らされてきましたが、この過去さえ、活用次第で財産になります。あの経験があるからこそ今こうして私は新たに勉強を始めるに当たって、自身の苦手を補うような勉強法を自身で提案、採用させることができているのです。兎に角、腐らないことです。腐るということは、自分を否定することに繋がってしまいます。自分を肯定していきたいなら、自分に自信を持てるようになりたいなら、自分を否定するような行動を取ってはなりません。多少の悲壮感は拭いきれませんが、その悲壮さえ、動力源にしてしまいましょう。車はガソリンを食べないと動かれないものだけれど、人間の私は、悲壮感さえ養分にして動いてやります。

私は、本ブログにおける自身の主張にイマイチ一貫性が見られないことに、少しだけ嫌になっていました。主張が山のお天気の如くコロコロと変わるということは、確かな信念を持って生きていないということのような気がしていたためです。また筆の進みの頗る遅い記事を書いている時の心情も同様の理由で、穏やかなものではありませんでした。これらの原因は恐らく「自分がない」というところに起因しておりまして、「自分の感想がない」「自分の気持ちがない」から、自分が本当に思っていることを書くことができず、その時々の、その場凌ぎの言葉ばかりを紡いできたため、主張にブレが生じ、筆の進みの遅い記事の作成に苦しむことになったのだと考えられます。自己喪失していながら、ブレずにやっていくということはできないのです。そんな私のハッキリしない姿勢、主張に失望し、私のブログから離れていってしまった読者がいたのは当然のことだと思っています。

しかしそんな中にあっても、今まで私のブログに訪問し続けてくださる方がいらっしゃいました。私はその方がどのような方か存じ上げないのですが、そうした方々に感謝を申し上げたいです。ありがとうございました。本当に、ありがとう。私はそうした方々のお蔭で、こうしてブログを継続することができています。誰かが私のブログに訪問してくださっているということが、どんなにブログ継続の支えになっているかわかりません。ありがとうございます。私もどうにかして皆様に何かを還元できるよう努めて参りますので、今後もよろしくお願いします。その還元する“何か”というのは、きっと、空虚な人生を送ってきた不器用でしょうもない人間でも、努力次第で、人生を良い方向へと持って行くことができるのだとする、「希望」であれば尚良いなと思っています。

関連記事
『再起』

5件のコメント

  1. あまりに共感できる部分が多いので、いろいろな記事を読ませていただいてます。

    私は、亀井様よりもやや年上ですが、同じく「積み上げられない人生を送ってきてしまった」と感じており、深く後悔してます。他人から低く評価されたり、傷つくのが怖すぎて、無難にやり過ごすことばかりしてたら、人生が実に味気ないものとなりました。
    いろいろな方の話を聞いても、自己肯定感の欠如は、人生に深刻な影響をもたらすと強く実感していますね。
    他人との差は気になり、焦りもしますが、今からでも、この人生を変えようと試みています。

    あと、亀井様は、ご自身の頭の回転の遅さをコンプレックスに思っているようですが、ブログを読む限り、文章には実に知性が感じられ、内容も分かりやすくかつ面白味も感じられます。また、ご自身と真剣に向き合う姿勢が伝わってきます。
    話すことは苦手でも、書くことは苦手ではないのではないでしょうか。

    これからも新しい記事楽しみにしていますので、よろしくお願いいたします。

    1. 記事をご覧いただきありがとうございます。

      「自己肯定感の欠如」が物事の受け止め方をネガティブなものにし、対人不安・緊張を強めます。その不安から逃れようと自己の防衛に徹していると、いつの間にか人生の目的が「自己防衛」になってしまい、その結果、人生に(自分らしさのような)積み上げが為されて来なくなるという悲しきメカニズムですね。
      ただ、自己肯定感さえ持てるようになってしまえば、こうして苦悩してきた過去も「一つのプロセス」として認められるようになってくるはずですから、お互いそれを目指していきたいものです。
      とにかく何におきましても「早急に自信を付けましょう」という結論になります。非常に難しい課題であることは承知ですが、今後とも得られた知見・経験を本ブログにて発信していきますので、気になる見出しの記事がありましたら、再度お越しいただければと思います。

      あと、文章をお褒めいただきありがとうございます。仰る通り、話すことよりも書くことの方が苦手意識は少ないです。
      「言語を出力するまでにどれだけ時間を掛けられるか」によって、大きくパフォーマンスが異なっているのだと思われます。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。