長い期間自己喪失していたから、人として中身が空っぽだ

私は長年、自己喪失しながら生きてきました。私は、
「自分を守ること」
ばかりをただ一つの信念として、これまで人生を送ってきました。
「自分を守る」ということはすなわち、
「私自身が下らぬ、愛する価値のない人間であると、他者から認識されること」
から自身を守ることを意味しています。私の人生と言えば、恐らく、全てがこれでした。

私は幼少期より、自身を「価値のない、下らぬ人間である」と思って生きてきました。しかし当時それは意識的なものではありませんでした。少なくともここ最近までは、私は、自身が心の底に「自身は価値のない、下らぬ人間である」という信念が強く根付いていることに気が付いていませんでした。すなわち私は長い期間、無意識の領域に、「自身は価値のない人間である」という信念を抱えたまま生きていたのでした。無意識にある信念であったため、自分自身でさえ、そうした負の信念が自身の内面を支配し、以て「漠然とした生きづらさ」の原因となっていることを自覚できないまま、二十年以上の時を過ごしてきました。

自身の無意識に、「自分は価値のない人間だ」とする信念が根付いている
――それを明確に自覚させてくれたのが、加藤諦三氏の『自分に気づく心理学』という本でした。この一冊との出会いによって私は、自身の無意識の領域に留まっていた負の信念を、意識の領域に引っ張り上げることができたのでした。

無意識の領域に留まっており自覚できないでいた信念を、意識の領域へと引きずり出すことができたのは自身にとって非常に大きな一歩となりました。私の内面には、「私は価値のない人間だ」とする負の信念が根付いていて、その信念が、自身の自己実現を大きく障害していたという事実を知ったことは、私の27年間の人生における最大の発見だったのです。

私は幼少期より、「自分は価値のない人間だ」とする信念を持っていました。それ故、他者からも「お前は価値のない人間だ」と評価されてしまうことは、「自他共に、私という存在に価値を感じていない」ことを認めることであり、それはすなわち社会的、延いては肉体的な死を意味しました。従って幼い頃から私は、周囲にいる人々に過剰な迎合をして、兎に角、自分の存在故に、他者を不愉快な気持ちにさせないことばかりを第一として生きてきました。他者から嫌われてはいけない。他者を不快な気持ちにさせてはいけない。そればかりを考え、自身のキャラクターや立ち振る舞いを調節してきました。また、他者へ客観的に自身の存在価値を認めてもらうため、知らず知らずのうちに、自身のブランディングも試みていました。私にとって「試験で良い点数を取る」ことは、両親、クラスメイト、教師といった自身の周囲の重要な他者から、自らの存在を認めてもらうのに最適な手段でした。

こうして、「他者より嫌われない」ことと「試験で良い点数を取る」という二点において自身の存在価値を他者へ示してきたわけですが、こんなことをしながら自分の存在価値を守り続けようとしたって、人生は虚しいばかりなのです。心底に「自分は価値のない人間だ」とする信念を抱えつつ、それを他者にまで浸透させぬよう、己を殺して、ただ過度の他者迎合に生きる人生。時には自分を実際以上に大きく見せ人々の尊敬を得ようと目論んだり、はたまたその反対に、自身を過小評価しすぎることで人々からの同情を得ようと計算したり。他者から嫌われないのであれば、または私自身に少しでも価値を感じてもらえるのであれば、思ってもいないことだってペラペラと言ってのける。そんなことを続けてきたばかりに、私はいつの間にか、自分がどういった人間で、何を思い、何を感じ、何が好きで、どういったものに価値を覚えるのかといったことが、分からなくなっていました。
これが長年、「自己喪失」して生きてきてしまった私の実情です。

自分の存在価値を全面的に他者へ委ねる人生は、つまらなく、苦痛であるばかりです。私は、無意識の領域にあった「自分は価値のない人間だ」とする信念を意識の領域に引っ張り上げたうえで、自身のこうした、他者の評価に依存しすぎた人生を変えようとしています。

さて、こうした一連の流れを自覚できたはいいものの、私個人の「人間としての中身」というものは空っぽのままです。長い時間、「自分を守ること」しか考えてこなかったわけですから、「私」という自我を有する一個体としての実績、積み重ねといったものが殆どないのは当然です。

自分はこう思った。しかし現実はこうだ。ならばどのようにしてそのギャップを埋めようか。
――そうした「私」を主体とする実績の積み重ねがまるでありません。なにも大層なことでなくてもいいのです。小さな事でも良い。何か自身が主体となって、やり遂げたこと、ないしやり遂げようと努めたものはあるか。そしてその過去、実績は今に活かされているか。その過去は私という一個体の人間性を形成する一つの要素になっているか。その要素は未来に活きるものに変化し得るか。そうした積み上げが、何もないのです。

確かに、私も私なりに一見すると貴重な過去を持っています。しかしその過去が今の自分の形成にイマイチ活きていない。何故なら、「過去辛い経験をしました。頑張って耐えました。おしまい」という状態になっているからです。私は過去を今の自分に活かすことよりも、その過去を利用して、いかに他者から認めて貰えるか、ということしか考えていなかったということでしょう。自分がその過去から何を得てどういった要素を自身に取り込んでいくのか、そしてそれをどう未来へ活かしていくのか、ないし活かしていきたいのか、といったことが全く抜け落ちていたのです。これでは自分に自信なんてつきませんよ。自分という人間の中身が、空っぽなのだもの。

自己喪失したままでは、自己肯定感は高まりません。「自分は価値のない人間だ」とする自己否定感は、払拭されません。だからといって自己喪失や自己否定感からの脱却といったものは、これは決して一朝一夕に解決するものではないと考えています。一発逆転なんてものは滅多にありません。日々の積み重ねを、堅実に行っていくしかないのでしょう。

自分の心が何を感じ、頭では何を考えているのかということを、根気強く自身に問い掛けていく他ありません。私は最近、本を読む際、ネットサーフィンをする際、必ず「問題提起」が先に来ているページでは、続きの文章を読む前に「自分だったら何を思うか」「自分だったら何を感じるか」等を自らに問い掛けるようにしています。そうして、自分の意見がまとまってから続きの文章を読んでいく。そうした「自身への問い掛け」の積み重ねが、ゆくゆくは自己喪失からの脱却、延いては自己否定感払拭への足掛かりとなると考えています。この記事も、自らの頭で「自分は何を考えているか」をウンウン唸って作成してみました。筆の進む勢いや流れ、余計な計算、下心に飲み込まれないよう、しっかり頭で考えて書きました。

誰だって、できることならば自己否定感なんてものは持っていたくないと思います。この世に生を受けた瞬間より、「どうせ俺なんか生きている価値がないですよ」と捻くれているような赤ん坊はいないはずです。きっとその後に、様々なトラウマ的体験を繰り返すことで徐々に自己否定感や人間不信といった負の信念を獲得していくのでしょうが、それは本人が悪いことではないと思います。何でもかんでも本人の性格の問題に帰着させるのはよくありません。よく「そんなに捻くれているからお前はダメなんだ」といった主張を目にしますが、その人も好きで捻くれたわけではないでしょう。捻くれることで己を守っていかなければならないほど、過去のトラウマで心が傷付いてしまっているのです。本人の性格のせいにばかりしていては、問題は解決しません。

しかし残酷なことに、トラウマ的体験によって心が傷付いていて、その結果として本人が捻くれたというやむを得ぬ実情があったとしても、本人自らが、この現状を変えようと立ち上がらない限り問題解決には近づかない気がしています。職業柄(?)、恐らく過去のトラウマに支配された故、屈折してしまっていると考えられる人を何人も見てきましたが、やはり「自分を認めて!」と叫ぶだけでは、なかなか人々から認めて貰えないものです。本当にしんどい事実なのですが、自己否定感の解消のためには、どうしても自分自身で、改善に努める気概が必要だというのが私の現状における考えです。

私も一歩一歩、自分の力で前へ進んでいこうと思っています。

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8件のコメント

  1. 失礼します。はじめまして。
    たまたま貴殿ブログにたどり着き、読んでみたら、まるで自分のことが書かれているようでした笑
    私はつい2ヶ月程前に加藤諦三先生を知り著書を読んでみましたら、書いてあることが実感として分かり、何冊もむさぼり読みました。そして、自分はこれまでの人生を、「自分ではない自分」で生きてきたのだと分かりました。私にとってはパラダイムシフトであり、加藤先生に救われました。これからはやっと「自分である自分」で生きていける。もう、自分を偽装するのはやめました、やっと分かった。私は43年間、あがいてきましたが、もっと若い頃に気づけてたらと少し欲がありますが、一生気づけない可能性もあったし、これまでの人生や今の自分がなぜこうなっているのか?ということが、腑に落ちた。自分を知った。
    私は児童養護施設で働いており、自分を否定され、無関心にさらされ、愛されず、過ごしてきた子供達をたくさん見ております。とんでもない環境でよく生きた。子供達には「自分である自分」で人生を生きていってほしい。私のやりたいことは、子供達にそのことに気づいてもらうこと。
    いろいろ書き連ねてしまいましたが、貴殿の文章は知性が感じられて素晴らしいです。
    また覗きますね。頑張ってください。

    1. コメントありがとうございます。
      長年抱えられてきた生きづらさの原因を知ることが出来たようで良かったです。加藤諦三さんの文章はご自身の体験に基づいているということもあって、迫真性を持って訴えかけてくるものがありますよね。特に『自分に気づく心理学』と『人生の悲劇はよい子にはじまる』は名著だと思っています。私もそれらの本によって、自らの抑圧に気が付けました。それに気付けるのとそうでないのとでは、心持ちがまるで違ってきます。

      児童養護施設での取り組みは素晴らしいものだと考えます。幼少期に負った傷はそのままにしておくと成人になっても癒えることなく、その人の認知や思考、行動をネガティブに縛り付けてしまいますから、出来るだけ小さい内に「自分らしくあってよい」という事実に気付かせてあげることは非常に重要です。是非今後も、その努力を継続なさってほしいと思います。

      1. ありがとうございます。

        「無条件」の母なる愛を知らないのです。条件付きの愛(愛と言えるかどうか)しか知らない。つまり「ありのままの自分」では駄目だった。家庭が、自分の存在をありのまま、無条件に認めてくれる、肯定してくれる、安心できる場所ではなかった。不安の中で小心で臆病者の心が養われた。
        児童に「キミはキミのままでいいんだよ、そのままのキミに価値があるんだよ」と言うことはできますが、自己無価値感の強い児童にそう言っても信じません。あまり簡単に言うべきではないとさえ私は思います。
        心理的援助をするにも、具体的な方法や順序が大切なのだと思います。
        また、健全に育った大人が、心理的問題を持つ児童の心理を理解することも、なかなか難しい。
        その辺をどうするか考えてますが、私は私の存在をかけて、私にしかできないことがあると信じて、頑張っていこうと思います。

        どうぞ亀井さんも、無理せず、頑張ってください。

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