自分の考えを持っている人が好き

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私は、「自分の考え」というものを持たずに生きてきた。もう少し具体的に言うならば、「自分の考え」における解像度がかなり低いまま、この歳まで生きてきた。

自分の考えていることや、感じていること。
それらの詳細を掴まないまま、ただ何となく、漠然と、思考停止的に、生きてきてしまった。

「自分の考えというものがよく分からない」という感覚は、以前から持っていた。けれども私は、“その感覚”について深く考察することが無かった。恥ずかしながら一時は、自身の思考が深遠なるために、自分の考えていることの概観、ないしその詳細を掴めないでいるものとさえ考えていた。

今だからこそ分かるのだけれど、私が「自分の考えがよく分からない感覚」に陥っていたのは、自分の頭を使って、自身の直感した思考や感情の中身を、詳らかに分析してこなかったからに他ならない。私は、「自分の感じたこと」、「自分の考えようとしている内容」について意識を向け、自分の頭を使ってその論理や詳細を詰めていくという作業を殆どしてこなかった。

例えば、勤務中に「この仕事はだるい」と直感したとして。私はその場で感じ取った「怠い」という感覚を、それ以上、掘り下げることをしない。
何がどう「怠い」のか、それは何故なのか、どうすればその怠さを軽減できるのか、そこで考えついた対策は有効なものなのか等、一つの「怠さ」の中身を分析し、その詳細を言語化し、「怠さ」がどういった意味を持つものなのかを、明確にすることをしてこなかった。

その結果、「怠い」という感覚を“何となく”、“漠然と”、“明確な根拠も無いまま”、“思考停止的に”感じ取ることしか出来なかった。
このように、自身の思考や感覚における解像度が低いままであると、どうしても、それに伴う「自分の考え」というものが浅薄にならざるを得なくなる。以下のやり取りをご覧いただければ、私の言わんとすることが何となくお分かりになることと思う。

「仕事が怠いです」
「それは何故ですか」
「よく分かりません。ただただ怠いのです」
「どういったところが?」
「それもよく分かりません。ただ…何となく怠くて仕様がありません」

これでは、思考が「浅い」と思われても仕方ない。

無論、上記のことは「楽しい」という感覚にも言える。

私は以前、「太宰治」という作家の書籍をニコニコと読み漁っていた時期があった。けれども、何故、自身がその作家の書いた文章を「楽しい」と思うのかまでは、頭を使って考えてこなかった。結果、人から「太宰治の何が面白いの」と問われた時、私は何も回答することが出来なかった。

自身の直感における解像度が低いと、それに伴う「自分の考え」もcheapチープなものにならざるを得ない。

私が以前から「自身の中身が空虚であること」を嘆いているのも、その原因を完結に言語化するなら、

自身の直感における解像度の低さと、それに伴う私意の薄さ

と、まとめることが出来そうだ。

長い期間自己喪失していたから、人として中身が空っぽだ


 

2
それじゃあ貴方は一体、何故、それ程までに“自分の直感や考え”を軽視してきたのですか。

と言いたくなる。これには明確な回答が存在する。私がその幼少期より、他人の顔色ばかりを窺いながら自身の言動を決定するという生き方を、この歳になるまで継続してきたためだ。

私にとって大事だったのは、

私という人間が、他人からどのように見えているか

という、ただその一事であった。

私の人生における最大かつ唯一と言って良い関心事は、私という存在が、他人にとって害にならないこと、迷惑にならないこと、そしてあわよくば、好かれることだけだった。

私は関わる人によって、自らの立場や主張を変えてきた。それはひとえに、「眼前にいる人物から自身の存在を否定されたくない」とする下心あってのものだった。

私にとって、「周囲に“こいつとは気が合わない”と思われること」より、「本当の自分を抑圧していること」の方が、ずっと精神的に楽だった。

関わる人間によって自身の立場・主張を変化させていく「過剰な他者迎合」ないし「過度な八方美人」的な行動様式の中に、自分の本当の感覚や主張の入り込める余地は無かった。従って私は、次第に自分の直感というものに対して鈍感にならざるを得なかった。

「人からの見られ方」にばかり固執して、その場その人に依った「美辞麗句」を並べるばかりの人生。

自分のことを質問されても、そもそも「自分の考え」が存在しないわけだから何も答えようがない。いい加減に、質問者が気持ちよくなるような、または感心するような文言を頭の中で必死に捻出して、それを「自分の考え」として表出させることしか出来ない。いくらそんなことで相手を感心させようとも、自身の心にある空虚は埋まらない。

私の主張に一貫性が生まれないのは、そのためだ。
「自分の考え」が無い。だからその場に合った「それっぽい主張」を頭の中で捏造するしかない。思考も浅くならざるを得ない。言動の一つひとつに、人生経験が感じ取られない。そのような人間に対し、結果的に周囲の人々は魅力を感じない。

 
3
「人の顔色ばかりを窺」ってしまうという話をしたけれど、そうした行動様式の元となっているのが「自分に対する自信のなさ」だと考えている。私は、自分に対して自信を持てていない。自分が何の理由もなく、この世に存在していても良いとする感覚が、私の中にはまるでなかった。

そのため私は、「自分に対する自信のなさ」を、主に認知矯正に基づき改善していこうと試みた。

具体的に、「自分は人として何の価値も無い」とする誤った信念を、日常生活や社会生活を通じて現れる事実の客観的な観察と分析により、消去していく。「自分は人として何の価値も無い」という信念の根拠を、徹底的に潰していく。

案外、冷静になって事実をそのまま観察・分析していくと、自身に対し抱いていた否定的なイメージは、単なる自身の思い込みであったということが分かってくる。

同時に、「自分は何の理由もなしにこの世に存在していても良い」とする感覚を、同様の手法により育ててゆく。

こうした前向きな「気付き」の積み重ねによって、自ずと「自分に対する自信のなさ」は改善されていくはずだった。

私はこうした認知矯正を2019年の8月から継続して行っていて、それは一定の効果のあったことを今でも十分に認めている。

認めているのだけれども、同時に常々、「決定的な何かが足りないな」と思ってきた。そうして最近になって、その「不足しているもの」の正体が分かってきた。

恐らく私に足りていないのは、「自分」という存在における解像度だ。その内容は、先に述べた「自身の直感における解像度」とほぼ同義だ。

自分の思っていること、感じていることが、自身の中でイマイチ明確化されていないために、自分という存在を“漠然と”しか感じることが出来ない。先の「仕事が怠い」「でも何故なぜ怠いのかは分からない」の例と全く同じだ。

自分の感覚に鈍感で、「自分の考え」も持てていない人間に、「それでも良いから自信を持てよ」と言っても少し難しいのではないか。

実際のところ、「自分に対する自信のなさ」を克服する上で、必要条件となるものが存在するのではないか。

その「必要条件」というのが、「自分における解像度が一定水準以上であること」なのではないか。今私はそう考えている。

私は「認知矯正」に基づく改善策で、自身の誤ったネガティブな自己イメージを修正しようと試みたけれど、仮に「愛着支援」や「対処療法的」な手法で修正を試みたとしても、上述した「自分という存在における解像度が一定水準以上であること」は結果を出す上で重要になるのではないかと予想している。

自分に自信を得るため、

①自分で自分を愛するよう努めることも
②自分で自分の親代わりになり自身を癒そうとすることも
③ありのままの自分を受け入れ愛そうとすることも
④信頼できる第三者から存在を全面的に肯定して貰うことも
⑤人として立派になることで自信を得るにも
⑥コンプレックス解消を通じて自信を得るにしても

各々において、「自分」というものをある程度自分で理解していることこそが、良い結果を出す上で重要だと思うのだ。

自分で自分を愛するにしても、そもそも「自分」というものが分からなければ、自分の何を愛すれば良いのか分からないし、

コンプレックスを解消しようにも、自分が何故、それをコンプレックスに感じるのかが明確に分かっていなければ、見当違いな結果を追い求めてしまうリスクが伴ってくる。

 
4
「自分という存在における解像度」を上げるための具体的な取り組みを一言で表すなら、

自身の言動の一つ一つに明確な根拠を持たすこと

だ。

自分が何故、その行動を取ったのか
何故、ある事柄に対しそのように感じたのか

――そうした自身の行動や感覚の根拠を、逐一言語化していくことによって、自分の正体が見えてくる。漠然としていた「自分」という存在の輪郭が、鮮明になってくる。「仕事が怠い」感覚を「ただ何となく怠いから」で終わらせない。

分かりやすく言うなら、

自分の身の回りのことをインタビューされた際、どんな質問にもスラスラ回答できるような状態に己を持って行く

といったところだろうか。

自分の感覚を説明するための語彙を増やし、細部に至るまでその根拠を語ることが出来るようになれば、自ずと自分という存在における解像度が上がってくる。

「自分はこんな人間なのか」というところが見えてきさえすれば、後は認知矯正なり愛着支援なりといった方法によって、自分に対する自信を獲得することが出来るようになるのではないだろうか、と思う。
 

私は、どこにいても、誰と話をしていても、主張の一貫している人が好きだ。

恐らく、そういった人達は「自分という存在における解像度」が高く、「自分はこうした考えを持つ人間だ」とする信念・姿勢がしっかりしているのだと思う。

そうしてその「自分の考え」というものは、その人の豊富な人生経験に裏付けされた深い洞察が伴っている。だからどこにいても、誰と話をするにしても、堂々と自らの立場を表明することが出来る。

自分に対する自信というものは、こんなところにも大きく依存しているのだろう。

 
私は、自らの主張が何処へ行っても一貫している、野村克也のような人のことがとても好きだ。その野村克也氏は、主張が一貫しているばかりでなく、本考察に至るためのヒントや、それ以上に為になる人生訓を書籍や映像を通じ、沢山与えてくれた。

暫くの間、ノムさんから人生を学んでみることにしようかしら。

「自分に自信を持つ」ためには何をすべきなのか

私は自分の主張が欲しい。

自分の人生を取り戻せ

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