自分の人生を取り戻せ

「自分の人生を取り戻す」というのは、すなわち、「自分の人生・生き様を、自分の言葉で語れる状態に達する」ことを、言うのではないだろうか。

自分が何を思い、何に価値を置いているのか。
自分が何を目標とし、それに向けどのような努力をしているのか。
何を信念に定め、どのような生き方を以てそれを達成しようとしているのか
――そうした事柄を、逐一、言葉で語れる状態に達したなら、「生きている実感」、それと共に「生きることへの充実感」を覚え、「自分を取り戻す」ことができるだろう。

まずは不完全でいい。自分の人生の中身を、語れるようになりたい。

能動的に生きよ

生きることは本来、能動的なものであるべきだと思う。一般論や世間常識、既存の社会的価値観などをベースにおのが人生を組み立てて、やれ○○には勝っただの、やれ統計的な平均値は上回っただの、やれ自分は世間の求める期待値とどれほど乖離することはなかっただの、といった尺度の達成に人生の醍醐味を見出そうとするやり方は、能動的な生き方とは言えない。

能動的な生き方をしたいならば、一般論や世間常識などに過剰依存するのではなく、自分の力と意志を以て、人生を組み立てていく必要があるだろう。自分の信念や価値観をベースに、自身の生き方を定めていくその姿勢にこそ、能動性が表れている。

そして、そうした人生設計のベースとなる「自分の信念や価値観」の基礎となるのが、自身の人生経験である。人生経験は、自分がどういう人間になるか、どのような生き方を選択するか、といった事柄を決める上で、非常に重要なファクターである。

だからこそ、人生経験は貴重なものとして扱わなければならない。経験は、よりよい信念、価値観を持つための土壌である。人生における一つひとつの経験から、「果たしてここから自分は何を学ぶか」、「この経験を今後の人生にどう昇華させるか」を考えることが、とても大事になってくる。辛く苦しい体験をただ「しんどい」で終わらせてしまっては、また、心の大きく動いたような体験をただ「感動した」だけで終わらせてしまうのでは、深い信念、価値観は生まれず、能動的な生き方からも遠ざかってしまう。

受け身な生き方を卒業せよ

能動の対義語は受動・受け身だが、受け身な生き方というのは、不平・不満の元である。

人生に対して受け身である限り、自分の人生を自力でコントロールするという選択肢を取れない。そのため、常に受け身な人の人生は、周囲の人々や環境というものに完全に依存する。周囲の人々・環境がよければ、その人の人生にはまだ救いがある。けれども周囲の人々・環境に恵まれなければ、その人の人生は大変くるしいものになる。

会社から与えられた仕事や、学校より与えられる講義や教材、テレビやSNSから提供されるコンテンツがつまらないものであれば、人生は至ってつまらないものになるし、自分がこの先を生きるための明確な指針を与えてくれるようなカリスマ的存在と出会えなければ、生きる方向性を見失い、人生はとても味気ないものになる。社会全体を取り巻く価値観・価値尺度が“底の浅いもの”であったならば、その人の人生も同様にして、底の浅いものになってしまう。自分という存在の脆さを忘れさせてくれるようなスーパースターと巡り会えなければ、その人の人生はひどく空虚なものになってしまう。受け身な人の人生はこのように、他力本願で、かつ制御不能なものである。

自力で開拓する精神のないところには、気まぐれで、一時的な“充実”しかやって来ない。受け身でいては「生きている実感」にも、乏しくなりがちだ。

受け身な人生というのは、食卓でただ、他者から食事の提供されるのを待っているだけのようなものだ。これでは出てきた食事で、空腹を満たすしかない。自分の好きな料理を作ったり、自分の好きな時間に食べたり、自分の健康に合わせた食事を摂るといったことができない。そのため、不平・不満の種が生まれやすい。けれどもそれら不平・不満に対して、自力ではどうすることもできない。ただ、出された食事を“ぶつくさ”言いながら食べるより他はない。それでは人生が充実するはずもない。

受け身な人生において更に困難を極めるのは、小さい頃より、「出された食事は例外なく美味しいものだ」と教えられ、「美味しくない」と文句を言わせて貰えなかった人達である。こうした人達は、提供された食事を意識では「美味しい」と思わされているが、無意識では「まずい」と思っている。しかし、無意識にある感覚は意識化されないので、彼らは「美味しい」「美味しい」と言いながら、心のどこかで違和感を覚えるに留まってしまう。その違和感の正体を掴めない限り(すなわち、自身の無意識にある感覚に気付かない限り)、自分では「美味しい」と信じている食事を摂り続けながらも、人生に対する不平・不満が意味も分からず募っていく、という事態に陥ってしまう。私が本ブログを以て「漠然とした生きづらさの正体」と表現しているものの背景には、こうした「意識-無意識間の乖離」がある。

経験を「経験値」にせよ

生きることに対する、こうした受け身な姿勢を改善させ、人生に能動性を与えるには、はやり冒頭に述べた「自分の人生を取り戻す」という考え方が非常に重要だと考えている。その結論は、以下のように繋がる。

「自分の人生を取り戻す」というのは、「自分の人生・生き様を、自分の言葉で語れる状態に達すること」であって、自分の人生を自分の言葉で語れるようになるためには、生き方を能動的なものにする必要がある。そのためには、自身の生き方を一般論や世間の常識といったものではなく、自分の信念・価値観をベースに組み立てることが大切であり、それら信念・価値観をより洗練させ深めていくのは、自身の人生経験であることを話した。

人生経験は、ただ「昔こういうことを経験しました」という初期段階で終わらせるのではなく、「この経験からこのようなことを学び、それが今の生き方にこのような形で結びついています」というところまで繋がってくるよう、日々、研ぎ澄ませていくことが大切である。つまり経験をただの「経験」で終わらせず、「経験値」として自身の内部に蓄積させる思考・行動様式の構築が、「自分の人生を取り戻す」過程において、非常に重要だと考える。

人生経験は一朝一夕に得られるものではないため、結果を焦ることはナンセンスである。しかし、これまで「受け身」に生きてきたことの代償として、自らの人生や中身に計り知れぬ空虚感を覚えるのであれば、この先、自身の人生を通して得る如何いかなる経験も「経験値」として蓄積してみせる、くらいの習慣を身に付けていないと、なかなか年相応のレベルにまで「自分を取り戻す」ことは難しいであろう。

 
そんなことを考えていた、月曜日の夕方。

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