【心理学科 公認心理師】通信制大学生の手記(3年次春編)

今年3月に三年間勤務した福祉職を辞め、4月から大学生になった。専攻は心理学で“公認心理師”という国家資格を目指すつもりだが、大学は通いではなく通信制を選択している。

まあ厳密に言うと、大学に入学したのは今年ではなく二年前の春だった。入学当時は「仕事と並行して単位を取っていこう」と考えていたが、残念なことに、それを実行に移すには私の人間としてのスペックがあまりよろしくなかった。その後二年間はほぼ勉強という勉強をすることがなく、このペースでは単純計算して卒業は「16年後」になることが分かった。これでは私の卒業よりも地球滅亡の方が早く来てしまうということで、思い切って会社を辞めることにした。レールに乗っかった人生の歩み方しか教わってこなかった私からすると大変な決断であったが、その実この決断は、向こう二年程度は勉強に充てるだけの蓄えのあったことにより後押しされた。私に読書とカラオケくらいの小さな趣味しかなかったためだろう。守るべき者を持たぬ人間に与えられた唯一かつ僅かな慈悲(要は金と時間である)を、ここぞとばかりに“今この瞬間”に投資することに決めたのだ。ただし、これを幸と取るか不幸と取るかは人によって意見が割れるところであろうことは、私も承知しているつもりだ。

さて今回は『通信制大学生の手記』と銘打って、公認心理師を目指す通信制大学生(と言ってもサンプルは私のみだが)が普段どのようなことを考え、感じ、どのようなペースで学習を進めているのか、といったことを簡単に書いていければと考えている。一応、現状では夏編、秋編、冬編の更新を予定している。3年次春編から4年次冬編までの合計8記事のオムニバスが、結果的に公認心理師を目指す通信制大学生の学生生活という一つの作品パッケージとして提示されるという寸法だ。ちなみに今回の記事は3年春編である。

公認心理師を目指す」とは書いたものの、それを実現するためにはまず大学院に行かなければならない(※厳密には別ルートもありますが、私は大学院ルートで目指します)ので、どちらかと言うと「通信制大学生が大学院受験をする過程を書く」と言った方が適切かも知れない。将来、この記事が私と同じように公認心理師を目指すため通信制大学に通う(※通信だから“通い”はしないか。)という方々の参考になれば良いなと思いながら書く。

大学生活について

大学とは言っても、通いではないためただただ一室に引きこもって延々と教科書とノート、パソコンを広げて勉強するだけだ。おまけに数少ない対面授業だって、今年は(も)新型コロナウィルスの感染拡大の影響でオンライン授業になった。人との接点がまるでない。通いの大学のように、人の話し声など一切聞こえない。学生がノートを捲る音も聞こえない。講義をする教授の声も、マイクに入るノイズの音も、誰かが床にペンを落とす雑音だって、何一つ聞こえない。狭い空間で一人、原子の動きさえも完全に停止されたような静寂の中、ただ自身の腕を通じてボールペンの先端が紙面を撫でる音と、パソコンのキーボードが指先で叩かれる音だけを聞きながら、せっせと知識を頭にインプットし、頭にあるはずの知識をアウトプットするだけの毎日だ。

外の世界から時たま入ってくる人々の生活音が、世の中がいつもと変わらず回っているのを知らせてくれる。その事実に安心する一方、まるで自分がそのサイクルから外されてしまっているような疎外感を覚えることも少なくない。取り分け、一丁前に社会人として会社に勤め、年間何百万もの稼ぎを叩き出している友人と話をするような折には、何となく、己の身分が彼らより幾分いくぶん下であるような気持ちにさせられてしまう。厚生年金を支払っている人間が偉く輝いて見えてきてしまうというわけであるが、これは私がずっと室内に引きこもっていることに対する気後れのせいかも知れない。大学に通ってさえいれば、また気分も随分違っていた可能性がある。

将来の懸念について

仕事を辞めたときは、正直嬉しさもあった。タフな労働環境と不規則勤務が祟り、退職3ヶ月前からやや精神を壊しかけていたためだ。そんなわけで、毎日、決まった時間に寝起きして、朝から勉強に集中できるこの生活はまさに安穏と言えるものに違いない。

が、やはり不安というものはどんな時にも付きものだ。退職を決めたその日より小さく生まれた不安の種は徐々にその核を大きくしていき、今となってはそれなりの大きさに成長して私の背後に影を作っている。もし何かの理由によって今やっている心理学の勉強が頓挫してしまうようなことがあれば、その瞬間に職無し、スキル無し、職歴も僅かなアラサー男(おまけに私には能も無い)が出来上がってしまうという不安。焦燥を覚えるな、と言う方が無理である。

まあ、仮にそうなってしまっても幸いなことに、日本にいる限りは食いっぱぐれてしまうような心配はない。たとえ勉強に頓挫し、泣く泣く“職無し、スキル無し(&私に限れば能も無し)”の身で社会を生き抜かなければならないことが決まってしまっても、「健康で文化的な最低限度の生活(以下☆とする)」を保ちつつ生きていく道は、実は幾つも存在することを私は知っている。

「けれども、」である。

けれども、今後「☆+α」の生活を送っていきたいと考えている私にとって(※但し、α>0とする。)、もしそうした現実を受け入れなければならない瞬間がきたときは、その厳しい現実と向き合い、かつ折り合いを付け、心理的に立ち直るに至るまでにはやはりそれなりのエネルギーと時間が必要になるだろうと予想している。

そうした意味で、
この試みが上手くいかなかったらどうしよう
といった不安は常に我が背後をついて回っている。それが現実だ。

学習ペースについて

仕事を辞めた直後の4月頭は「休養」と称して趣味の本ばかり読んでしまっていたのだが、中旬辺りからボチボチ勉強に取り掛かって、現時点で教科書5冊を頭に叩き込み、4科目についてレポートも出し終えた。まあ「教科書を頭に叩き込み」とは言ってもその実は「頭に叩き込んだつもりだが実際は記憶し切れてはいない」状態のはずなので、復習は必至となる。一度読んだものをノートにまとめた程度で全てを覚えきれるわけがない。

学習計画として、大学より配本された教科書を大体10~11月頃には全て読み終え、ノートもまとめ上げ、レポートも書き切ってしまうくらいのスケジュールを一応立ててはいるけれど、本当のところはその計画を前倒ししたくて仕様がない。大学院入試を来年の8月以降に控えるとすると、大学院入試の対策期間はざっと1年程だと言われているから、出来ることならば8月には単位を取り終えて試験対策に専念してしまいたいというのが本音。

けれどもそれはどう考えても不可能なので、やむを得ず10~11月までに終わらせることを目標にやっていく他ない。対策はそれからになるのだろう。

将来像について

「公認心理師になる」とは言ったものの、現時点では公認心理師になった後の自身の具体的な将来像まで描けているわけではない。今の段階では、どんな人を対象に、どのようなアプローチで以て支援していきたいのか等といったことが、自分でもよく分かっていない。

ただ、どうもこうしたビジョンが定まらないことには大学院選びや大学院入試で求められる研究計画書や面接試験に失敗すると言われているから、どこかで明確にさせておかなくてはならないと思っている。だが、ここでは飾らず正直なことを書くけれども、今は、そうした殊勝たる自身の明確な未来像を描けているわけではない。ただ「興味があるから」という理由で心理師を目指し、毎日のように教科書を開いているというのが現状だ。

果たしてこの勉強は報われると思うか?

さて最後にちょっと興醒めなことを言ってしまうけれど、私は、「この努力は必ず報われる」とは限らないことを知っている。心理学の勉強を途中で頓挫したり、大学院に合格できなかったりしてこの手記を終える可能性のあることを十分に承知している。

だから、今回の心理学の勉強も、大学院入試も、公認心理師試験に対しても、若き日のような「絶対合格」、「絶対成功」といった誓いを声高に立てることはできない。なにせ私は7(~8)年前の大学受験で散々な目に遭っている。若き日の私は、大学受験を以て努力が必ずしも報われるわけではないことを身に染みて分からされた。

大学といえば、その入学後もなかなか悲惨なものだった。周囲の同級生の学力にさっぱり付いていけないことに苦しみ、随分長いこと暗黒面に落ちていた過去がある。このとき、「勉強」というものに対する苦手意識を嫌というほど植え付けさせられた。大学時代、決して努力をしなかったわけではないのだけれど、どうしても「勉強」というものに対して結果の出せない日々が続き、ついぞ克服できないまま私は卒業を迎えている。

世の中には、どんなに頑張っても手の届かないものが確かに存在する。カメはどんなにトレーニングを積もうが、かけっこではウサギに決して敵わない。それは勉強も同じことだ。どんなに勉強したって、敵わない相手、届かないゴールといったものは山ほど存在する。少なくとも私の場合は。私は過去、そのことを嫌と言うほど学んだ。「勉強」というものに対してかなりの苦手意識を抱えた私は、一時期、「勉強」とは全く無縁の生活を送ろうとさえ考えるほど、「勉強」を忌避していた。

大学卒業後はその考えの通り、専攻とは全く関連のない仕事をした。休日はカラオケに行ったり本を読んだり野球観戦をしたりして過ごした。そうして教育機関とは金輪際関わることなく、入社した会社で平穏に定年退職するまで働くつもりだった。

勉強から遠く離れた生活を送るつもりだった。しかし私には読書の趣味があった。趣味の一環として、心理系統の本を読むことが少なくなかった。私はいつしか人の心理に強い関心を持ち、好んで色々な本を読むようになっていた。

勉強とはずっとサヨナラしているつもりだった。けれども、そうした心理系統の本を読みその内容を理解しようとする作業そのものは、いくら「趣味」とはいえども、あれほど忌避していた「勉強」にかなり近似した行為だった。

しかし真実は残酷だ。このときも改めて、私が勉強に向いていない頭をしている現実をまざまざと思い知らされた。本をろくすっぽ読むことができなかったのだ。かなりの時間を掛けて精読したつもりでも、内容がほぼ頭に入っていない。どんなに読んでも、その本に一体なにが書かれていたのかを説明することができない。思い出すことすらもできない。結局、一生懸命になって何冊もの本を読んできた割には、ほぼその労力が実ることはなかった。殆どの内容を頭に残せていないのだから。

数年前に受検した知能検査の結果が、その凄惨な現実に関する詳細な説明を与える。私の脳は、視覚刺激をそれが意味するものへとアクセスすることが困難な上、複数の情報を関連付けて整理する作業というものが大の苦手だったのだ。

確かに本を読んでいても、文字そのものは追えるもののそれの意味するところが果たして何であるかを理解するのにかなりの時間が掛かっていた。「ウサギは道端で昼寝をしました」と読んで、「ウサギが道端で昼寝をし」ている場面を想像できるようになるまでに人一倍の時間が掛かった。ただの「文字」が、頭の中で「そのものの持つ意味」に変換されるまでに相当の時間を要した。

そのため、事実「文字を追えていてもその意味は追えていない状態」が読書中の大半を占めていた。結果、何時間も掛けて一所懸命に読んだはずの本の内容を全く思い出せない事態が常態化することとなっていた。これでは読んでいないのも同然であった。

折角時間を掛けて『ウサギとカメ』を読んでも、読後その内容を想起することの出来ない日々が続いた。本を閉じ、脳内にあるはずの記憶を検索しようにも中身は真っ白のままで、どうにも想起の手掛かりを掴めなかった。なぜウサギがカメに負けたのか――そうした肝心な箇所さえ全く思い出すことができず、「読んでいる最中は楽しかったはずなのに、なぜ内容を全く想起できないのか」という虚しい感想だけが残る、という読後感を何度も味わった。

読みたいものや知りたいことは沢山あるのに、それを処理し理解し脳内に留めておくことの出来ない現実がとても悔しかった。

どうしても、まともに本を読めるようになりたかった。換言するなら、どうしても勉強ができるようになりたかった。活字を読んで、その意味を理解し、人並みにはその内容を頭に留めておけるようになりたかった。

そこで、学ぶことにした。どうすればまともに本を読んだり、勉強したりすることができるようになるのか――その妙法を学ぶため、頭の使い方に関する事柄の書かれた本を棚に並べた。“これは良い”と思われた箇所を何度も読み返しては、そこに書かれていたノウハウを書き起こし、時間を掛けて、日々の読書の中で活かしていった。そこでも「読んではすぐ忘れる」ことを繰り返した。繰り返す度に、「負けるものか」と再チャレンジした。どうしても、本で読んだ内容を頭に留めておけるように、理解できるようになりたかった。

半年近く試行錯誤して、ようやくコツを掴んできた。本を読めるようになってきた。読み方にある工夫をすることで、その内容を全く忘却しなくて済むことが分かってきた。こうして、どうにか、本に書かれている内容を少しは理解し頭に留めておくことが出来るようになってきた。このとき、「これで心理学を学ぶための土俵に立てたかも知れない」と思った。このやり方ならきっと心理学の教科書を読む際にも応用できるだろうと思った。このとき初めて、心理学の教科書にチャレンジする権利を得られたような気持ちになった。心に希望の光が差し込んだのを自身、感じた。

心理学の専門家を目指す試み。以前と同じやり方で勉強していたならば、失敗することは目に見えている。だからやり方を変える必要があった。工夫をしていかなければならない。自分の視覚刺激に対する弱さをいかに補うか。二度過去の悲劇を繰り返さないためにはどうすれば良いのか。日々、試行錯誤して既存のテクニックを改良していく。その試みが上手くいった暁には、もしかすると、専門家への道が拓けてくるかも知れないと思っている。これは全く無謀な賭けというわけではないはずだ。

ただ、幾ら工夫を凝らそうにもカメはカメだ。どんなに頑張ったってウサギにはなれない。やはり実際に勉強をしていると、自身の視覚刺激に対する処理の弱さを痛感する。その都度「この野郎、負けるものか」と再度教科書に食らいつくけれど、物事には限界があることも忘れてはならない。カメはカメなりに頑張って、ウサギの尻尾を視界に捉えながら走れそうであるならば大いに勝負すれば良いが、もしダメだと分かったら、その時はしょうがないと割り切る覚悟は必要だ。どんなに頑張ったって、決して手の届かないものというのはこの世に沢山ある。私はそれを幸か不幸か知っている。

どちらに転ぶか分からないけれど、一生懸命やってみる。

 

最後に

ああ、最後の最後でいつもの真面目な感じになってしまった。僕の悪い癖。

【心理学科 公認心理師】通信制大学生の手記(3年次秋編)

【心理学科 公認心理師】通信制大学生の手記(3年次夏編)

【心理学科 公認心理師】通信制大学生の手記(3年次冬編)

2件のコメント

  1. こんにちは。以前コメントした者です。
    あれからもブログを拝読させてもらっております。
    公認心理師を目指すのですね!素晴らしいと思います。今後、需要も増えていくと思いますし、一度身に付けば、食いっぱぐれのないお仕事だと思います。
    私も、目標がありまして今勉強をしているところです。他の人と違うところを目指しており、今まで経験もないことなので、正直かなり不安ではあるのですが、後悔なく生きたいと思っているので、とにかく諦めずに継続していこうと思っております。
    お互い、希望の地へたどり着けるよう、全力を尽くして行きましょう!

    1. お久し振りです。確か人間としての中身とか、積み上げといった話をしましたよね。あれ以降も引き続き読んでくださりありがとうございます。
      そうですね、公認心理師を目指して勉強しています。まさにアイデンティティ探しの真っ最中、といったところですね。将来は専門職として働ける水準に達せると良いなあ…。

      ゆみなさんも目標に向けて勉強中なのですね!仲間がいることにとても心強さを感じます。
      確かに不安なことも沢山おありだと思いますが、都度、自分の心に問い掛けて、後悔のない道を歩んでいただけたらと思っています。その経験が自身の「積み重ね」となって、自分という人間の芯のようなものが形成されると信じています。芯のある生き方って、自信がついて、楽しいだろうなと思います。
      お互い、目標の達成目指し全力を尽くしましょう!

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