対人恐怖と向き合いその治し方を模索する

対人恐怖
対人緊張
対人不安

このような「」という存在に抱く恐れについて、私はそれなりに強い方だろうと思っている。

『撃対人恐怖』という記事にもまとめたが、私は昔から、自分という存在が人様の有害にならないようにと気を付けることを人生の第一義として生きてきた。

撃対人恐怖


自分の意思など二の次三の次にして、「今の自分は人様からどう見られているか」「どう思われているか」「後ろ指をさされてはいないだろうか」と、そんなことしか考えずに人生を歩んできた。

このような生き方の根っこには、「人から否定されたくない」「攻撃されたくない」「嫌われたくない」「自身の存在を邪魔なものだと思われたくない」といった切な願望があった。

私は兎にも角にも、人様から何かネガティブな反応を自身にぶつけられてしまうことを猛烈に恐れていた。おまけに人というものは、私の一挙手一投足、そのどこかに一片ばかりの粗さえ見つけ出したなら、「失望した」「思ってたのと違った」と言い残し、私の元から離れていってしまうような存在であるとさえ、錯覚されていた。

これに関連する厄介な癖の一つとして、対人関係において、私は常に“正解”を探す癖がついていた。

・今目の前にいる人から嫌われないために、自身はどのように振る舞うのがベストなのだろう
・あの人の場合はどうだろうか
・あの人から「お前見込みあるな~」と言って貰うためには、自分は一体、何をすればいいのだろう

――こうしたことを考えるのが癖になっていた。

でも分からなかった。確実な“正解”を見つけ出すことなどできっこなかった。
だから“正解それ”がないまま、始終、対人関係の場では「正解」と思われる言動を注意深く選択していく他なかった。そこに自分の意思が介在する余地などない。地雷を踏み抜かぬよう、自らの存在が相手にとって無害であり続けるよう、個性を殺し徹底した迎合の姿勢を貫くというやり方によって、その場の関係をやり過ごすより他なかった。

いつしか私にとって、人付き合いというものは過度な疲弊を伴うものになっていった。いつ、私が人様の気分を害することをしてしまうか分からない。その刹那、これまで積み上げてきた信用の一切合切が塵埃と化してしまう恐怖から、無闇に人様へ近付けなくなってしまった。

私は、こうした自身の対人恐怖をどうしても克服したかった。対人恐怖を克服しないことには、自らの未来の可能性が大きく閉ざされてしまう気がした。人を怖がりすぎるあまり、まともに人とコミュニケーションを取れない。自分の方から積極的に人と関わり、人脈を築いていけるようにならなくては、就職、恋愛、交友、その他人生におけるありとあらゆる選択肢が狭まってしまうことに違いなかった。

対人関係における不安、恐怖、過度の緊張について書かれた加藤諦三氏の『自分に気づく心理学』は、私の人生に最も大きな影響を与えた本だ。本書は、普通とは言い難いレベル(神経症レベル)で対人不安が生じる原因について、精神分析的な視点から解説を試みている。

精神分析とは、人間の心的事象の無意識的な意味を解明するための理論のことである。

日常生活場面における私達の言動は、その動機の多くを無意識に負っている。

例えば、自らの恋人に重たい程の愛情を求めてしまう者の無意識には、その幼少期、両親から十分な愛情を与えられなかったことによる過去の傷が残っている。無意識にある未だ癒えぬ傷がその治癒を求めて、当人に対して、内面を渦巻く愛情飢餓感を恋人との関係で充たすよう促す。

無意識からの指令によって理性の力は弱まり、当人の中で社会的に不適応を来す言動が増えてくる。そこで、心の奥底にある傷を十分に癒すだけの愛情を恋人に求め出してしまう。暫くすると、その要求の重たさに耐えきれなくなった恋人は一目散に逃げていってしまう――これこそ、「重たい人」の心底に根付いている無意識的意味の解説だ。(あくまで可能性の話だが)

精神分析的心理療法

精神分析的心理療法では、
面接者-クライエント間
における人間関係の中で展開される力動的現象を手掛かりに、クライエントの無意識世界で起こっている事象を明らかにする。自身の無意識世界の実体が明らかになるにつれ、クライエントの自己洞察が進む。その過程で、

ああ、そうだったのか

という体験が積み重なることで、クライエントは自らの誤った信念を矯正し、眼前に展開する現実を捉え直し、より社会適応的に自己変容を遂げることができる、としている。

先に挙げた『自分に気づく心理学』という一冊も、こうした変容を意図して書かれているとみて大過ないはずだ。

すなわち、自己の起こしている不適応行動・事象(対人恐怖、過度の見捨てられ不安etc.)の無意識的な意味を徹底して解明し、自己洞察による

ああ、そういうことだったのか

という体験が深まるにつれ、クライエントの中である種のカタルシスが生じる。こうした体験によって、自己変容のきっかけを得られることになる、というわけだ。

…ここまでは良いとして。

それでは、私の人生を脅かす“過度の対人恐怖”の持つ無意識的意味とは、一体何なのだろうか――。

対人恐怖に潜む無意識的意味

これについて考え出すと、思考が止まらなくなる。夜分、寝入る前の床上にてやり出そうものなら、その晩は就寝時刻が通常の3時間でも4時間でも遅れる羽目になる。

どうして私は、過剰なまでに人様からの攻撃や否定、批判を恐れなければならないのか。この恐れの源泉には、どのような体験が潜んでいるのか。

「人」という存在に対する恐怖心。

批判される恐怖。

まるで人間というものが、私という人間の一挙手一投足を仔細に観察し、そのどこか一点でも不足があったなら「不合格」の烙印を押してくる存在のように感じられてしまう認識の歪み。

誰彼からも嫌われたくない気持ち。

自分の意見を表明することに対する恐怖心。

一方で、「人様から認められたい」とする承認欲求の大きさ。

「お前は見込みがある」と言われたい気持ち。その裏側で「お前やっぱり思っていたのと違うわ」と言われてしまうことへの恐怖。それに伴う対人関係の場における激しい緊張。

――これと似た体験を、私は過去にしなかっただろうか

幼少期のある体験

私の家では、他者に対する批評の言葉がしょっちゅう飛び交っていた。

頻繁に批評の対象となっていたのが、TVに映し出された芸能人だった。画面向こうの、十人十色の数多くの芸能人は、

「こいつは見応えがある」
「こいつはダメだ」
「これは馬鹿だな」
「こっちはまともだ」

といった批評に晒されていた。私は家の者のそうした姿をずっと見ながら育った。

批評の対象は私の同級生や私自身にも及んだ。私という人間は、

“家族の価値観に沿った言動を取れるかどうか”や、
“家族のメンバーの機嫌を損ねないかどうか”、
“男らしく振る舞えるかどうか”、
“試験の点数”

等によって、「見込みある者」にも「罪人」にもなった。私は四六時中「見込みある者」でいられるよう、自身の立ち回りには大変な気を使った。一言一句、失言がないよう気を付けた。

失敗”というものは決して許されなかった。それがたとえ非意図的なものであったとしても、mistakeをすれば私のこれまでの「優しくて良い子」評価は一転、「無能な出来損ない」評価に転落した。挽回の余地は意図的に与えられないことも多かった。一度mistakeした者は、家の者の言葉を借りるなら「もうダメ」なのであった。「ダメ」のレッテルを貼られたまま暫くの時間、相手の機嫌の直るのを待つしかなかった。その間、相当の無力感を味わったものだった。

25歳にして家を出るまで、こうした環境に違和感を覚えることはなかった。私の育った家庭は健全そのものであると信じていた。

けれども26歳にして読んだ先の書『自分に気づく心理学』によって、そうしたコミュニティは温かみに欠け、人の心的発達に著しい悪影響を及ぼし得ることを学ぶこととなった。その刹那、自身の胸中で強烈な衝撃が走ったのを、今となっても忘れることはない。

――この体験、なのだろうか

常に批評に晒され、結局のところ心の底から分かり合うことのなかった我が家庭における25年間の体験。これが今、私を苦しめる“対人恐怖”の源泉となった体験なのだろうか。

家族から自身の存在を認められたい。けれども、そのためには与えられたミッションを堅実にこなす必要があった。中には達成が困難なもの、非意図的にmistakeしてしまうものもあった。その度、失望の溜息が漏れた。挽回の芽は意図的に摘まれることもしばしばだった。

決して失敗は許されない

そんな思いが強くなっていった。

そのような環境に適応することで、
相手が私に求めるものは一体、何か
を慎重に見極めることが、自身の人生の第一義となってしまうのは必然であった。

さてここで考えてみたい。もし家庭内におけるこうした対人関係の様式が、家の外でも継続されているとしたら――?

だから私は、恐れる必要のない他者に対しても、過度に恐怖や不安を抱きながら、
「自分に求められている言動は何か」
を探り、
「果たしてこの相手から失望されてしまうことはないだろうか」
を恐れ、始終要らぬはずの緊張をしていなければならないのだろうか?

治癒に至るまでには

精神分析的心理療法では、上に挙げたような

そうだったのか体験

によりクライエントの中にカタルシスが起こり、それを機に自己変容のきっかけを得ていくとしている。『自分に気づく心理学』でも、そのような記述が随所に見られている。

私も自身の日常生活場面における人間関係と、その場において湧出してくる自身の感情とを今も尚、分析し続けている。

正直に言う。私は自身の対人恐怖を治したくて焦っている。これから自身の未来を切り拓いていこうとする中で、どうしてもこの対人恐怖がネックとなって、自身の将来の色々な可能性の扉が開かれず、選択肢の幅が狭まってしまっているのを感じているためだ。

「人」の何を怖がる必要があるのだろう。周りは優しい人たちばかりだというのに…。

治したい。どうしても、治してしまいたい。何か良い方法はないのか。
 

ここまで、「人様から批判されてしまうことへの恐怖心」を克服するための方法について、精神分析的心理療法の視点から簡単に書いてみた。

けれどももう一点、その克服法に関する私なりの見解を書いて終わりにしたい。

唐突になってしまうけれど、私という人間には“根っこ”がない。私は二十数年間という長い期間を、人様から否定されないこと、人様から見込みある者として認められることにしか興味を持たずに生きてきてしまったためだ。

お蔭で、自身の口から放たれる言葉から、自身の身体から表現される動作、そうした言動のもととなる動機から何から何まで、殆どが自分のためのものとはなっていなかった。私の全身から表現される私という人間は、私でありながら、“私”という人間の中身を表しているわけではなかった。

だから、私には自分の価値観とか、譲れない信念といったものが今ひとつはっきりしなかった。一つの確たる芯を持つ“自分”という存在を今の今まで感じられることはなかった。

つまり、「私という人間には“根っこ”がない」ことになる。

根っこがないものだから、人様の言動に簡単に流されてしまう。右に左に、簡単に揺られてしまう。

自分というものがしっかりしていないから、人様の言動というものが必要以上に重要なものに感じられてきてしまう。人様と意見が一致しなかったとき、頼るべき指針だって自分の中には何一つないことになる。

根っこが生えていれば、人様と意見がぶつかってしまうことを過度に恐れる必要などないはずなのだ。「あなたはそう思うのね。でも私はこう思うから」と言えばよいだけの話だから。自分の中に頼れる指針がないことも、人様からの批判を過剰に恐れる原因の一つになっていると私は考えている。

ここまでをまとめてみる。
対人恐怖克服のための第二の術とは何か。
自分の価値観をしっかりさせること、ではないか。

自分はどういった人間で、何が好きで、どういった物事に感動し、興味を持ち、何を夢見ていて、その実現のためにどういった努力を人生の中でしているのか。

――これらの価値観をしっかり、自らの言葉で定めることができたなら、「人」という存在に過度の恐怖心を抱く必要もなくなってくるのではないかと考えている。何せこれがあれば、人様と対等に関わり合える気がする。尊重すべき個性というものが生まれるわけだから。

折角この数年間で色々なことを経験し、色々なことに気が付けたのだ。それらの経験や気付きも全部ひっくるめて、オーダーメイドの価値基準を設定していこうではないか。
 

そうして、いずれは自分の方から、積極的に人と関わっていけるような人間になるのだ。過度な恐怖心は、もういらない。

撃対人恐怖

人が怖いけれど、愛されたい――恐れ・回避型愛着障害の抱える闇

5件のコメント

  1. ピンバック: 書けない
  2. こんにちは。
    別の投稿にもコメントしましたが、こちらも拝見し少し思うことがありましたので、失礼します。

    私も加藤先生の本を最近読んで、自分と向き合っております。
    自分の心の底には自己無価値感がこびりついておりますが、そこから多くの心理的問題が生まれている気がします。否定される恐怖、劣等感、自己否定感、対人恐怖、不安、悪く解釈する、生きづらさ、孤独感、などなど。とりわけ「恐怖」の感情は自分の人生に甚大な影響を与えました。恐怖を回避しながら生きようとするので、自分の思考、行動、感情などが限定、制限、規定される、つまり心が恐怖に支配され、コントロールされていたと思います。自分であって自分ではない、自分による意思決定、自己表現がない、ただ生きているだけ、という空虚さがありました、自分の実在を感じられない、現実を生きていない感じです。
    自分のヒストリーを振り返るとそんな感じもで、今は「自分が自分であること」をメインテーマに生きていますが、具体的には、「自分が思っていないことは言わない」「やりたくないことはしない」などを意識しながら生きております。
    長々と書いてしまいましたが、感情が私に何かを教えてくれる、気づかせてくれるサインであり意味があると捉えて、しんどい感情からも逃げずに向き合って、原因を探究し、対処していきたいと思っています、そうしないと先が無いですし、今までいろいろと怠ってきたから今そうした感情が湧いてくる。
    ブログ主さんなら、必ず乗り越えていけます。頑張ってください。

    1. 大変適確な分析と考えます。私も同様の考え(自らのネガティブな心的メカニズムに対する考察)を持っています。
      自らの感情に気が付き、現実適応を図りながらその感情に従った言動を取っていく、というプロセスは自分を取り戻すことにおいて重要だと考えます。
      私の内面の奥深くには「ネガティブな自己」と「ネガティブな他者」イメージが根付いており、そのフィルターを通じて物事を認知・解釈するから世界のあらゆる事柄がネガティブになっている(それに伴い行動も恐怖心により規定されたものとなる)のだと解釈しています。そのため、今はこの「ネガティブなイメージ」の書き換えに尽力しています。が、それがなかなか難しい。ただTsukaさんの仰るように、私もそれに負けず、自らの感情やその歴史等々に逃げることなく目を向け、原因探求/対処方略の構築に精進していきたいと考えています。
      お互い、完全に乗り越えられたと思える日が来ることを信じて、頑張っていきたいですね。

      1. 返信ありがとうございます。

        とにかく、一日一日を精一杯「生きる」ことです。完全に自己の執着から解放されるかどうかは分かりませんが、私も希望を持って、信じて、生きます。
        ネイティヴアメリカンの言葉に「私は、自分自身や自分の生き方の主人としてふるまうことができる。自分の自分は完全に自分のものだし、自分のしたいことをする」という一節があります。私がいま気に入っている言葉です。
        人は「自分が自分である」時に「自分」のもつ力、能力を最大限に発揮できると感じます、また、自分である自分の時は心が落ちつきます。
        お互いに頑張りましょう、無理せず頑張ってください。

        また、気になる投稿にはコメント失礼するかも知れません。
        では、健闘を祈ります。

        1. 文章を一箇所訂正します。

          自分の「自由」は完全に〜

          ですね。
          失礼しました。

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