撃対人恐怖

いつも負い目を感じていた。生きていることに、後ろめたさがあった。

常に、何かを責められているような感覚があった。決して悪さのようなものをしたわけではなかった。けれども、自分はどういうわけかこの世界に居てはいけないような気がした。自分はこの世界には要らない存在に思えた。とは言え、今すぐこの場から消滅してしまおうという勇気までは持ち合わせていなかった。

せめて人様の邪魔にだけはならないよう、無害であることに徹した。自らを押し殺し、調子を人に合わせた。笑いたくないところで笑った。言いたくないことを言った。思っていないことをまるで本気に思っているように振る舞った。感じていないことをさも本当に感じているように演じ切った。追従笑いと外交辞令ばかりが上手くなっていった。内面が空虚化する代わりに、外面だけはいくぶん装飾された。その証拠に、人から直接批判される機会は滅多に訪れなかった。

人様に不快感を与えていないことを大義名分に、自らの存在を許して貰うつもりだった。けれどもそのさまは、今にして考えてみるとまこと見苦しいことこの上なかった。常に緊張し、オドオドして、挙動不審で、自分の意見を持たず、目の前の人とコミュニケーションすることよりも、その人から期待されている反応を予想し、それに応えることばかりを考えていた。事あるごとに卑屈な笑みを浮かべ、その後ではきっと人様の顔色をいやらしく窺い、その内面を覗き見ようとする瞳の浅ましさといったら、醜悪極りないものだった。でも、人様の邪魔になってしまうことに比べればそちらの方がずっとマシだった。

いつ人様の気分を害してしまうか、気が気でなかった。作成者の意図が全く読み取れない試験問題を解かされているような気分だった。第一印象を最高点として、選択肢を誤る度に一つ減点され、二つ減点され・・・持ち点がある一定値を割ったところで、相手から金輪際の関係を絶たれてしまうかのような不安と恐怖の中、必死に減点を避けようと足掻き続けていた。

減点されるのが怖かった。言い換えると、とにもかくにも人が怖かった。

自分から人に話し掛けに行くことなど到底できなかった。当然、自分の主張を伝えたり、自分の方から人と積極的に関わりを持ったりしようとすることなど出来るはずもなかった。それどころか、ともすれば人から否定されたり、失望されたり、笑われたりする恐怖に苛まれていた。人前での少しばかりの失態が命取りになるような気がして、いつも心が落ち着かなかった。人目を気にして失敗を恐れるあまり、却って言動が不自然になった。不自然な言動は小さな失態を誘発した。取るに足らない失態がトラウマとなって、ますます人を避けるようになっていった。

人はそこまで怖いものではない。分かっていた。人は自分が思っているよりも、ずっと優しく寛容であることを経験的に知っていた。けれども人に対する恐怖心は、いくら払っても払いきれなかった。幼少期にして初めて心に刻まれてしまった信念は、その後どんな修正を試みようとも、どんな経験による上書きを講じようとも、それらいずれにも勝って、自らの正しさを殊更に主張し続けていた。

散々安全確認をしたはずの、大勢の人で賑わう石橋をことごとく渡ることが出来なかった。それによってどんなに自身の未来が、可能性が、人生そのものが、無残にも閉ざされてしまったか分からない。人を恐れるあまり積極性を失い、人に何も与えることが出来ず、まともなコミュニケーションを取ることも出来ず、自己喪失していて自分が何者なのかも分からず、ただ漠然とした恐怖と空虚感に覆われた陰鬱な人生を歩むばかりの自分が大嫌いだった。

人に対する恐怖心を和らげたくて、社会的なステータスで我が身を武装しようと試みたこともあった。私は頭が良いのだ、これだけの実績を残しているのだ、これほどの企業で働いているのだ、大金を持っているのだ等と、とにもかくにも己の希少性を主張できる人間になれさえすれば、きっと人々も私のステータスに価値を感じ、その存在を受け入れ、認めてくれるはずだと思った。

そうして私を笑わず、否定せず、ちょっとしたことで失望することもなく、たとえ私が取るに足らない失態をやらかしてしまったときも、過度の減点しないで笑って済ましてくれるのではないかと空想した。ああ偉くなりたい、皆から尊敬されるような人間になって人に対する恐怖心から解放されたいと、そんなことを考えて自分の希少性を上げようとした時期があったけれど、ダメだった。能が無かった。私にそんな実力は無かった。おまけに自身の希少性を高めようともがけばもがくほど、どういうわけか気分は塞がり、自分のことがますます嫌いになっていった。

私は人を信じることが出来なかった。けれども今となっては、人は、無闇矢鱈に私を否定したり、馬鹿にしたりすることはないことも分かっていた。私の心底にある問題は人を信じられることではなく、実際は自分自身を信じられないことにあった。人が私を否定しようとしているのではない。私自身が私の存在を否定し続けているからこそ、人を信じることも出来なくなるのだ。私は直ちに自己否定をやめて、傷付いた自己を癒さなければならなかった。

他者不信の根元には自己不信あり。自己不信の根本には自己否定あり。これまで苦しめられてきた問題の解決に向けた糸口。自己否定の尻尾、捉えたからには、何があっても離さない。君のせいで、僕はどれ程苦しめられてきたか。どれ程、辛い思いを味わわされてきたことか――。

尻尾を確かに掴む両の掌。尻尾を介し全身が右へ左へ揺られても、私は決してその手を離さない。上へ下へと叩きつけられたって、どこまででも付いていく。そうして尻尾を這って胴体に辿り着いたなら、きっと私は化けの皮を剥がして、その全容を明らかにしてみせる。

これからは自分をいたわり、優しい言葉を掛けるのだ。自己否定の入る余地は決して与えない。仮に否定的な言葉が我が身を攻撃してこようとも、私がその刃を止めてみせる。我が身に内蔵された自動自己否定システムを破壊して、代わりに温かく励まされるような言葉をによって自身の内面を彩っていこう。自分という存在は責めるためにあるのでも、否定するためにあるのでもない。その全面を肯定し、大切にするためにあるものだ。そのことを絶対に、忘れてはいけない。

 
私を突き動かすのは、自己不信と他者不信の両方を克服した先にあるはずの、広く解放されし未来に対する、大きな期待。
 

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