【心理学科 公認心理師】通信制大学生の手記(3年次冬編)

勉強の進展

★通信科目(レポ+試験で単位がくるもの)
発達心理学Ⅱ(青年~老年)
社会・集団・家族心理学Ⅰ
学習・言語心理学 試験待ち
心理学研究法
心理学統計法
心理的アセスメントⅠ
知覚・認知心理学Ⅰ
神経・生理心理学Ⅰ
健康・医療心理学Ⅰ 試験待ち
社会・集団・家族心理学Ⅲ
障害・障害児心理学
産業・組織心理学Ⅰ 試験待ち
感情・人格心理学Ⅰ
精神疾患とその治療Ⅰ
教育・学校心理学Ⅰ
司法・犯罪心理学Ⅰ
心理学的支援法Ⅰ
公認心理師の職責
福祉心理学
関係行政論

★通信科目+授業(レポ+授業+試験で単位がくるもの)
心理学概論
発達心理学Ⅰ(幼児・学童)
臨床心理学概論
人体の構造と機能および疾病

★授業または実習
心理演習
心理実習
心理的アセスメントⅡ
心理的アセスメントⅢ
心理学統計法演習
心理学実験Ⅰ
心理学実験Ⅱ

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単位取得状況は上の通り。「試験待ち」となっている科目は、5月の試験で取得する。

「心理実習」というのは俗に言う“病院実習”のことで、今年の10月頃から始まって、来年の2月頃の実習報告を経てようやく取得することになる。
その実習先は自力で探さなければならず大変なのだが、つい先月、病院に電話でアポをとって、実際に提案書を持って説明に行き、ひとまず了承を得るところまでは漕ぎ着けた。私は、“人様に何かをお願いする”という行為にかなりの苦手意識があって、この作業をしている間は相当の心理的葛藤があって大変だった。ただでさえ生きていることに対する罪悪感が強く、自分の存在が人様の迷惑になっているという意識があるのに、そこに新たな“借り”を作らなければならない痛苦といったら、それはもう凄まじいものであった。
 

役割演技の授業でも

心理学科も後半に差し掛かると、所謂いわゆるカウンセリングの「役割演技ロールプレイ」やら「事例検討」の授業が登場する。

役割演技ロールプレイというのは、学生がカウンセラー役とクライエント役に分かれて、演技を通してカウンセリングのノウハウを習得するというもので、

事例検討というのは、就活でいう「グループディスカッション」に似ている。授業中に提示された架空の事例をみて、各々が考えたことを複数人でディスカッションして、グループの意見としてまとまったものを代表者が全体に共有するというものである。

――どれも「いっちょ前の心理師」になるためには必要不可欠なものであることは分かっているのだけれど、これらの授業を受けなければならないことが、私は入学前から憂鬱だった。いよいよこうした授業の受講の決まった日には、「遂にこの時が来てしまった」と、やはり憂鬱でしょうがなかった。

その「憂鬱」の原因は明らかであった。

人が怖いのである。

役割演技ロールプレイ中は、相方から「コイツ全然ダメじゃん」「これじゃ練習にならないよ」「コイツとペアになったの大外れだったわー」と思われていやしないか常時ビクビクしている。

グループディスカッション中、は「コイツは何を言ってるんだ」「なんかコイツがいると雰囲気悪くなるんだよな」「コイツと同じグループになるの嫌だな」と思われていやしないか、やはり常時気になって仕方がない。

自分が何かを発言する度に、「今の発言は人様に不快感を与えるものではなかったか」を、自身の脳内による検討とグループメンバーの顔色から判断し、安堵したり後悔したりを繰り返す。

正直、疲れる。いや「疲れる」どころの騒ぎじゃない。呼吸が極端に浅くなり、全身からは冷や汗を掻き、身体の末端は氷のように冷たく、五臓六腑が小刻みに振動しているような、あの不快感。それを授業中、ずっと感じている。

「自分がこの場に居ること」をメンバーから受け入れられているか、終始それが気に掛かって仕方がない。「何だコイツは」と思われているのではないかという懸念。その懸念を払拭するために「何とかこの場に溶け込まないと」「どうにかして“人当たりの良い人”と思われないと」「“この人はいい人だ”と思われるよう頑張らないと」と思うのだけれど、下手に慣れないことをすると却ってそれが不自然さになって、場をシラけさせてしまうような気もしてくる。結局、何もできない。

そうして、グループの雰囲気作りのようなものは他者任せになってしまう。全ては他者次第。私の方から何かをすることは殆どない。他者の発言により議論が起こる。他者が人当たり良く振る舞うことで雰囲気が良くなる。他者が受容的であればそこに安心感が生じる。他者のイニシアチブによって、私の存在にもスポットライトが当たる。私は大抵、グループ内で受動的なお客様であり、接待される側であり、サービスを受け取る側になっていた。

――違うのに。グループ全体の雰囲気は、皆で作り上げるものなのに。私がグループから受け入れられるかどうかは、同時に私がどれだけグループに還元できるか、ということも大きく関わっているのだ。何か与えろ。より良い雰囲気作りに貢献しろ。ディスカッションが円滑に進行するよう、自分に出来る努力をするのだ――そう自分に言い聞かせつつも、やはり私に出来ることなど殆どなかった。私にはその実力と、勇気と、経験と、実績と、自己受容と自己肯定が不足していた。モニターに映し出される私の笑みは引きつり、声もうわずり、積極的に発言することもできなかった。私は自分が傷付くことを過度に恐れ、それを回避することにしか実行に移せないボンクラなのだ。

そうしている間に、他者はそれぞれの個性を活かして場の雰囲気を作っていく。ある人はイニシアチブをとり、ある人は率先して発言し、ある人は人懐こい笑みで場を和ませ、ある人は発表者を激励して場を温めた。私はそれを卑屈な笑みで見ているだけ。お客様気取り。何もできやしない。幼いなあと思う。私は、周囲の人々と比べて精神年齢が酷く幼い。それは長いこと、「果たして何がどう幼いのだろう」と考えてきたものだった。だがこうして、人と関わる機会を持つと本当によく分かる。私は、自分のことしか考えられない人間なのだ。私は、自分が人様から傷付けられないこと、人様から承認されること、そして一度得られた承認を維持し続けることにしか興味がない。自分が主役になることばかりを考えている。誰かが自分にスポットライトを当ててくれるのを受け身で待ってばかりいる。会話でいえば、ただ相手から話題の振られるを待っている。飲み会ならば、ただ誰かから「亀井君は何を飲むの」とメニューを渡されるのを待っている。今回のディスカッションでいえば、ただ誰かから「亀井さんはどうですか」と促されるのを待っている。自分から相手のために何か働きかけるのだという、そういった利他的な意識に欠けている。いやその意識はあっても、実行に移せない。実行に移したときの他者の反応が怖くて、その一歩を踏み出せないまま時間だけが過ぎ去っていく。私は人と関われば関わるほど、自分という人間の幼さを思い知らされる。そうしてますます自分を嫌いになっていく。

私の対人不安感は異常である。それは自覚している。幾ら何でも、ネガティブすぎる。人を求める気持ちが強過ぎるあまり、拒絶される恐怖が肥大し過ぎていて、制御不能である。それはずっと変わらない。

これから「心理師」になろうという者が、こういうことでは困る。それも自覚している。私はこの大学生活を通じて、自身のこうした歪みきった認知、信念を改善させるつもりだった。しかしながら、その兆しがないまま一年が過ぎようとしている。私は焦っている。

 

役割演技の授業でも+

あと、役割演技ロールプレイの授業で困ったのが、「自分のことに関する話ができない」ということだった。

役割演技ロールプレイでは、学生がそれぞれカウンセラー役とクライエント役に分かれて演技を行うのだけれど、クライエント役になった学生はカウンセラー役の相手に、提示されたお題に沿った、自分に関する話をしなければならない。例えば、「自分が今夢中になっていること」とお題が出されたとき、クライエント役は、それに関する話をカウンセラー役に3~4分間しなければならない。

私はどうにも「自分の話をする」という行為が苦手で、人と会話をしなければならぬ場面では大変苦労していた。唯一、「自身の歪んだ内面」を語るに際しては雄弁になれるが、さすがにリアルの世界でそのような暗い話を持ち出すわけにはいかない。となると、私は「自分に関する話題」をほぼ何も出せなくなってしまう。

それもそのはずで、私は以前から、「目の前にいる人から承認されること」「気に入られること」ばかりを考えて生きており、目の前にいる人物の価値観に従って自身の言動を調節し、以て相手の懐に入り込もうとし続けてきた。そのため、私には“自分”というものがなかった。自分が一体、何を好きで、何に興味があって、どのような考えを持っているのか、ということが殆ど分からなかった。

「自分に関する話」っていうのは、自分に主張したいものがあって初めて出来るものだと思う。例えば、
自分はスイーツが好きで→だから休日は色々なお店でスイーツを食べて過ごすことが多いのだけれど→先日行った○○というお店の△△が本当に美味しくて→是非□□さんにも実際に味わってみて欲しい
みたいな話って、自分が「スイーツ」に興味があって、その興味に従って日常的に色々なアクションを起こしているからこそ生まれるものだと思う。

裏を返せば、自分の好きなものとか、興味のあるものが分からない人は、なかなか感情や体験の伴った話をすることって難しいと思う。出来てせいぜい、情報や事実の共有くらいだろう。それは今日は良い天気ですねとか、この授業は○時までですよねとか、3月になりましたね、みたいな話題のことである。

しかし事実共有が出来るからと言って、そこから一歩進んで、良い天気だから外に出たくなるだとか、○時まで授業受けなければならないから疲れちゃうだとか、3月になったから過ごしやすくなってきただとか、そういった「感情」や「感覚」を伴った会話に展開させること出来ないわけである。だって、目の前の相手が「良い天気だからと言って外に出たいわけではない」という価値観を持っているかも知れないし、相手が「授業に対してやる気満々の人」だったら、「○時まであるなんて疲れちゃう」なんて言おうものなら失望されてしまうし、相手が「3月にはなったけれど未だ寒い日々が多くて過ごしづらい」と考えている人だったら、「3月になったから過ごしやすくなってきた」という発言は的外れも良いところで、相手からすれば「何だコイツは頭大丈夫か」ということになってしまう。だから私は相手の出方次第で、自身の感じ方や考え方を変える必要があった。そんなことを長期間続けてきたものだから、自分のことが全然分からなくなった。そして、自分の話が出来なくなった。一体自分の何を話したら良いのか、皆目見当が付かないのである。

私はこのような一連の現象を「自己喪失」と呼ぶことにしている。

自身が自己喪失に陥っていることに気付いたのは、今から1~2年前のことだった。この頃の記事には確か、
「自己喪失からの脱却には、自分が一体何を感じ、考えているのか、日常的に自分自身にインタビューし続けることだ」
みたいなことを書いた記憶がある。それについては概ね正しいと今でも思っていて、実際に私は、A4サイズ80 sheetsのノートを買ってきて、そこに自分が生まれてから今に至るまでの生活史やら日々の言動やらを逐一書き出して、

それらの一つひとつを「自分のための感情や行動」と「人からの承認ほしさに行っているもの」とに分けて、「自分のため感情や行動」だけを改めてノートに書き留める、というような作業を繰り返し行っていた。

例えば、「野村克也という人間の言動に心惹かれてしまう」という要素は、別にそうだからと言って人様から私という存在が認められるわけではない。それにも関わらず私は「野村克也の人間性に心が惹かれている」ので、これは「自分のための感情や行動」にカテゴライズされるということになる。一方、「ビジネス書を読む」という行為は、それによって人様から承認されるような存在になりたいという動機から来ているものなので、「人からの承認ほしさに行っているもの」にカテゴライズされることになる、といった具合である。そして「自分のための感情や行動」にカテゴライズされた要素を検討することによって、自分が何を好きで、どんな価値観を持っているのかを探っていくのである。

そのような努力の甲斐あって、今となっては少しずつ、自分の好きなものとか価値観といったものが見えるようになってきた。しかし、だからと言って、すぐさま人様に提供できるような話題を作り出せるものでもない。

それを見越して、私は役割演技ロールプレイの授業前にあらかじめ時間を掛けて幾つか話題を作り込んでから参加したのだが、如何いかんせん提示されるお題はランダムで予測不可能なため、どうしてもアドリブによる対応が求められることになる。私はそれに上手く対応することが出来ず、あたふたしながらカウンセラー役の相手に、同じ文言を繰り返し述べ続けるという失態を犯してしまった。本当に、“喋り”に関しては更なる訓練が必要だと思っている。あまりにも、私は喋りが下手すぎる。
 

大学院について

そろそろ受検する大学院を決めなければならないのだが、未だ二校しか決まっていない。自分自身、研究テーマは何となく決まっているので、そのテーマを指導できる教授の在籍する大学院、かつ、入試問題の出題傾向が現在決まっている二校と似通ったものである大学院が、正式な受験校となる(なにせそうしないと対策範囲が広くなりすぎて大変になってしまう)。

早めに確定させた方が良いのだろうが、現在は研究計画書の作成に注力しており、後回しになってしまっている。
 

 

…と、ずっとこんな調子で記事が終わってしまった。

今回の記事も愚痴のような内容に終始してしまい、何ら有益な情報をお出しできなかった。ずっとこのような調子じゃいけないと思うのだけれど、どうにも進展が見られないため書きようがないのである。

このブログに関しても、今回のグループディスカッションの話と同じことが言えるだろう。私には読者に何かを与えようという気持ちに欠けており、結果としてはむしろブログを通じて、自分のことを認めて欲しい、理解して欲しい、といった自身の欲求を満たすことにばかり心血を注いでいる。「与える意識」に、大きく欠けているのだ。
 

 
そればかりじゃダメなんだけどなあ

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2件のコメント

  1. ご無沙汰しております。
    自分もなんとか1年次を終えました。
    グループ作業のとき、私も似たようなことを考えていました。
    しかしよく考えると、自分が話せていて居心地が良い時は、発言をしていない他者に「とる足らないな」などとは思いません。皆、自分のことで精一杯で、他人に関心を向ける余裕はそこまでないと思います。また、リーダーシップを取る人は、やりたくてやってる事が大半なので、自身が参加者であることで、人助けをしているな、と考えられるようになりました。
    言い方は悪いですが、実習は質の悪い茶番劇と考えて、適当に相槌を打って開き直ることで、対人関係のストレスが緩和されました。

    自分と似た考えをお持ちなので、私が実践している考え方を紹介しました。
    お互い、適当にやり過ごして、資格取得に向けて、来年度もこつこつ頑張っていきましょう。

    1. 1年振りですね。
      無事1年次を終えられたとのことですが、誠に身勝手ながら「ねこさんならきっと大丈夫だろう」と信じていました(ホントに勝手な妄想だったのですが笑)。ただ今回、それをこの場で確認できたのを嬉しく思います。

      GWに関するアドバイスありがとうございます。幾度もの認知の修正・適正化(事実と思い込みの分離etc.)を経て、今や対人関係のストレスが軽減されるに至っているのですね。これらはまさにねこさんの努力の賜物と思われますが、私も是非参考にさせていただき、認知の矯正に努めたいところです。

      …あと少々恐ろしい話になってしまうのですが、多分、くいう私が一番、GWでの人々の挙動を観察して「この人はこうだ、ああだ」と批評している(そんでその批評を通じて自分のポジションを確認している)からこそ、いつまでも適切な認知矯正がされないのだろうと思われます。他者の批評があれこれ気になるのは、何を隠そうまさに自分自身が他者をあれこれと批評しているからなので、その批評をやめつつ、ねこさんのアドバイスを頭に叩き込んでいきます。

      学業にはかなりの馬力が必要とされますが、この一年もお互いエネルギッシュに乗り越えていきましょう。

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