「自分に自信を持つ」ためには何をすべきなのか

1
「自分に自信を持つためにはどうすればいいか」

――その答えを明確に探すようになってから、大凡おおよそ1年半が経過した。

ここで言う「自分に自信を持つ」というのは、
自分の存在を自分自身が肯定できる状態
とでもいうような、自分の存在そのものに対する絶対的な承認のことだ。

具体的には、
「理由はないけれど、何となく自分のことが好き」
「自分が生きていることに関して何ら後ろめたさを感じない」
「特に根拠はないけれど、自分の存在は価値があると思う」
といったような、
自分という存在に対する漠然とした、けれども全面的な肯定感
と表現しても良いかも知れない。

 
2
私には、上に挙げた「自分という存在に対する漠然とした、けれども全面的な肯定感」のようなものが無い。

代わりとして、そうした「自己肯定的な感覚」とは対照的な「自己否定感」を持っている。すなわち、「自分は駄目で無価値で皆に迷惑を掛けるばかりの存在だ」というような、自身に対する否定的な感覚を常に有している。

私は小さい頃から八方美人だった。常に他者から「嫌われやしないか」「否定されないか」といったようなことばかり考えては、過度に自身の本音を押し殺し、過剰なる他者迎合を人生の主として大人になった。

私にとって「過剰なる他者迎合」は、傷付き易い脆弱な自己を守るための防衛戦略だった。
存在価値の無い自身がこの世に生き続けるには、他者から「君は生きていていい」とする「お墨付き」が必要だったのだ。

ただ、常に誰彼構わず「気に入られようとする姿勢」を貫いた代償は大きかった。私は人生に主体性を失い、それに伴い自分自身を見失い、その結果ますます自分に対する自信を失ってしまった。

「自己否定的な感覚」を持ちながら生きていくことはまこと厳しいものだと感じている。

「どうにかしてこの厳しさから抜け出したい」
――そうした必死の思いが、「自分に自信を持つためにはどうすればいいか」を真剣に探求するための、大きな動機なのだ。

 
3
「自分に自信を持つためには」
――その疑問を探求する原点となったのが、加藤諦三氏の『自分に気づく心理学』という一冊だった。

それまでの私は、「自分に対する自信のなさ」や「その原因」における明確な所見を持たなかった。ただ漠然と、

「自分は他人と比べて何かがおかしい」
「しかしその“おかしさ”の正体がイマイチ判然としない上、それそのものが引き起こされる所以も不明瞭だ」

といった状況に置かれていた。

『自分に気づく心理学』は、認知・対人等の面で様々な不適応を起こし「生きづらさ」を抱える人間に潜む心理的背景について、

幼少期における親子関係の失敗と、それに伴い心に残留した“未解決な課題”が、大人になった今でも“その解決”を求め繰り返されている事に依っている

と説明する。

幼少期における親子関係の失敗
というのは、子供が親から十分な愛情や承認を受け取れなかった(と感じた)ことにより、子供の心が傷付いてしまうことだ。

人間の赤ん坊は、「周囲の大人が自分をどう扱うか」によって、自身の扱いや存在価値、いては対人関係の様式を決定する。

親から十分な愛情と承認を受け取って成長した子供は、「自分は愛されるに値する人間だ」とする信念を持ち、自分自身を大切に扱う。他者とも健全で安定した関係を持ちやすい。

一方で親から十分な愛情と承認を受け取れず成長した子供は、「自分は価値の無い駄目な人間だ」とする否定的な信念を持ち、自分自身を粗雑に扱う傾向にある。
また、「他人は信用できない」とする対人不信・不安も同時に抱えているため、緊張や不信感の強い、不安定な対人関係に終始しやすい。

続いて、
心に残留した“未解決な課題”
とは何か。

これは幼少期に親から「愛情」や「承認」を十分に受け取れなかったことによる、子供側の抱える「飢餓感」を指している。

親からの「愛情」や「承認」の欠乏に対する、心の痛みは壮絶なものだ。

そのため、その痛みをどうにか緩和させよう、ないし無かったことにしようとして、そうした「飢餓感」を無意識の領域に抑圧したり、他者に投影したりする働きが心の中で生じる(※「防衛機制」という)。

けれども、愛情や承認に対する「飢餓感」をいくら無意識下に抑圧しようが、そうした「飢餓感」は決して無くなったわけではない。

無意識下に抑圧された「飢餓感」は常にその充足を求め、無意識裡に私達の認知・言動をネガティブに支配する。それが「不適応」の形として表層に現れるプロセスが、先の

心に残留した“未解決な課題”が、大人になった今でも“その解決”を求め繰り返されている

という主張の簡単な説明となっている。

私は、『自分に気づく心理学』の中で、加藤氏が特に強調されていたのが「抑圧」のメカニズムだと感じている。

そのためだろう。加藤氏が本書にて「どのようにして心に残留した“未解決な課題”」を解決に導くか、を述べたページにて、

まずは自分の抑圧している“飢餓感”に気付く(意識化する)こと

を強調されている。これはすなわち「無意識の意識化」、「抑圧からの解放」のことを言っているのは明らかだ。

続いて、「冷静な内省により、自己の内面で起っている心的事象を観察・矯正すること
が大事であると主張する。

自身が物事を極端にネガティブに考えてしまうのも、対人関係が不器用なものになってしまうのも、全ては自身の内面に愛情や承認に対する「飢餓感」があって、その「飢餓感の充足」が第一の目的になっているが故に生じてくることだ。

目の前の人との健全なコミュニケーションよりも、自身の「愛情/承認飢餓感の充足」を優先した対応を続けていれば、どうにもちぐはぐな対人関係しか結べなくなる。

自らの内面に「愛情や承認への飢餓感」があるからこそ、自身の言動がこのような不適応なものとして現れてしまっている

――そう自ら気付き、その「気付き」を元に自身の言動(認知や対人関係の様式)を修正していけば、次第に本来の自分が取り戻され、ネガティブに偏った認知や対人関係は修正され、自分に自信が持てるようになってくる。と、そうした論理なのだ。

これまでの私もその主張にのっとり、

「自身に潜む内的葛藤の自覚」と
「それに伴い現れる不適応な認知・対人関係様式の修正」を行っていった。

これらの試みは一定の効果があった。確かに私の内面には「愛情への飢餓感」が存在しており、その「飢餓」により負った傷とその解消願望のため、対人関係様式が極端に被害的で不健全なものとなっているのを知ることが出来た。

更に私は、そうした極端な自身の認知を修正すべく、眼前に展開される他者とのコミュニケーションを通じ、

「自分が思っているよりも、他者は私という存在を否定していない」
「たとえ意見が食い違うことがあったとしても、これまでの関係性が崩れてしまうようなことは滅多にない」
「自分の存在に価値が無いという信念はどうやら誤っているようだ」
「他者が人のどのような要素に価値を見出すかは分からない。自分が無価値と思っていた要素に価値を感じるような人だって少なからず存在する」

といったようなことを、出来る限り客観的に評価し、その“明るい”現実を自身に嫌と言うほど認識させていった。

おまけに本ブログにおいても、半ば自分に言い聞かせるように、

「自分の感じているような感じ方を、他人も同様にして感じていると思ったら大間違いだ。現実を客観的に観察せよ。さすれば“自分に価値が無い”という信念は誤りだと分かる」

と書き続けてきた。
 

4
けれども、だ。

「けれども、」「自分に対する自信」というものはなかなか付いてこなかった。

確かに、周囲の私に対する反応は自分が思っていたものとは反対に、どちらかと言えば好意的だということが分かった。

「けれども、」

それらの人達から一歩離れてしまえば、私は無力で無価値のボンクラだ

といった、

確かに、この人/このシチュエーションにおいては自分の価値が認められるが、他では違う

という心理が働くから、いつまで経っても肝心の「自己像」が修正されていかなかった。

私に存在価値は無い→だから周囲の人間から認められていないような気がする

という勝手な解釈は成り立つくせに、

事実、周囲は私の存在に価値を感じてくれているようだ→だから私に価値はある

という理屈は心においてまるで納得されなかったのだ。

自己に対するネガティブな信念を変えるため、自身の存在価値を認めざるを得ないような事実を必死になってかき集め、それを以て、帰納的に

私の存在に価値はある

と、自身納得のいく形で結論づけることはまるで出来なかった。

感覚として、
「頭では納得するものの心の方で納得し切れていない」
状況にあり、心がそれを否定する限り、自身の言動に自信を持てない状態が続く
というような感じが継続されるばかりだった。

 
5
その結果として、

自分自身が自分という存在に自力で価値を感じられるようにならなければ、“自己像”の修正は起こらない

と考えるようになった。

「周囲の人はどうやら“私という存在”に何らかの価値を見出してくれているようだ」

とする事実そのものは、傷付いた自己像修正のための「補助」にはなるかも知れないが、決して「核」にはなってくれないのだ。

ということは、これはもう、
“自ら”が“自分”を好きにならないことにはどうしようもない(自信など生まれようがない)
と考えるより他はない。

――そこで私は、「“自ら”が“自分”を好きにな」るための前提条件として、

自分の感覚と自分自身を繋ぐこと

が必要だと考えた。

私は幼少期より、人の顔色ばかりを窺いながら生きてきた。
自分の意思より他者の顔色を尊重して生きてきた私にとって、「自分の感覚」というものは、

・抑圧するか、
・極端に軽視してしまうのが常だった。

そのため次第に私は、自身が一体何を考え、何を感じているのか、等といった「自分の感覚」へとアクセスする力が弱くなっていった。

このような状態を、前回の記事『自分の考えを持っている人が好き』において、

自分の感覚における解像度が低い状態

と説明した。

「自分の感覚における解像度が低い」とき、自身の直感(嬉しい、楽しい、面白い、寂しい、キツい、苦しいetc.)を漠然と感じることは出来ても、

「それはどのように」
「どういったところが」
「何故そう感じたのか」

といった、「感覚の詳細」までは分かってこない。

そのため、仮にインタビュアーに自らの感覚について質問されたときも、

「なぜ“仕事がキツい”と感じるに至ったのですか」
「いや…何となく」
「具体的にどういったところを“キツい”と感じるのですか」
「どういったところかぁ…うーん」
「耐えられないレベルで“キツい”のですか」
「どうでしょうねぇ」

といったように、まともに回答することが出来ない。自分の人生でありながら、どこか漠然としており、生きている心地に乏しくなる。

このような、「自分の感覚における解像度が低下」し切っている自身を、

「好き」とか
「価値がある」といった“肯定的解釈”に持って行けるだろうか?という話だ。私は、それは「否」だと思っている。

 
6
また私は、『対象関係論に学ぶ心理療法入門』(祖父江典人 著)を読む中で、

「自分に自信が持てないのは、自己の悪い部分を抱えながら、自分という存在を保っていられるだけの心の基盤がないからだ」(※)

とする知見を得ることとなった。

(※実は、このような表現はやや正確さを欠いている。けれども説明の簡便化のため、このような記載とした。正確さを期そうとするとどうしても対象関係論における煩雑な理論を理解していただく必要があるのだが、既に文字数が膨大になっている関係上、その理論を省くことにした。後日、対象関係論の観点から考える“自信喪失”のメカニズムを詳しく記載した記事を出そうと思う。)

※お約束通り、件の記事を書いた↓

「自分に自信を持つ方法」について考える(対象関係論の観点から)

従って祖父江氏は同書の中で、

「“自分の悪いところも自分だ”と割り切れるだけの心の基盤を強化することが大切となる」
「その基盤強化において必要なのは、“内的な良い自己”に自身を繋ぐことだ」

とする主張を展開されている。(その詳しい理由、メカニズムについては後日の記事に譲ることにする)

 
7
これらのことを踏まえ、「自分に自信を持てるようになるため」には、どうすればいいか。それをまとめてみる。

前提として、「自分の感覚における解像度」を上げていくことが必要だと思う。

その前提が崩れてしまうと、「自分でもよく分からない自己」に対し、無理矢理「自信」を付けようとする無謀な作業に終始してしまいかねない。

その前提の上で、

“内的な良い自己”に自身を繋げること

が大事になる。

「内的な良い自己」というのは、ざっくり言うと

「自己の素質としての良い面」

のことだ。

自己の内省や対人関係等を通じて得られた、自己のアイデンティティー(≒「自分はこんな人間だ」とする一貫した自己)が何となく掴めてきたら、そのアイデンティティーの良い面を見出し、それを自身と連結させる。

抽象的で分かりにくいかも知れないが、例えば私の場合でいうと、

「対人関係において“君にだけ話すのだけど…”とシリアスな相談を持ちかけられることがままあり、自身、相談されると悪い気はしない」
「ブログにて自己肯定感に関する情報発信を行っているが、その動機の一つに“自分のため”の発信がある一方で、“同じような課題を抱える他者にも情報をシェアしたい”とする気持ちもある」

等といった要素から、

「何らかの課題を抱えている他者を援助しようとする自己(良い自己)」

を見出し、その「良い自己」を意図的に自身と連結させる、といった具合だ。

このようにして「自己の素質としての良い面」と自らを繋げていく作業を継続させることにより、「悪い部分を持つ自己」を私の心が抱えられるようになってくる。

それが可能となった折に、

こんな悪い部分を抱える自分だけれど、それでも私は自分のことが好きだ

と、心から主張することが出来るようになる。この主張が可能になることこそ、「自分に自信を持つ」ことの原点になるのだ。

 
8
最後に注意点として、

「自分に自信を持てるようになること」

のゴール設定を見誤らないようにしたい。

あくまで上記の方法による「自信の回復」の目指すものは、

「自分にはこんな悪い部分や欠点がある」
「けれども、総合的に私は私が好きだ」

といった「欠点ありき」の自信だ。なにも、

「自分に対する有り余る自信によって、対人不安やネガティブな認知なんて吹き飛んでしまった」

というような「謎の自信に満ち満ちた」ような無双状態が「ゴール」となるわけでは決してない。もっと現実的なゴール設定を行わないと、折角良いアプローチを試みても、

「こんなはずじゃなかった」

といった否定感が積もり積もって、却って自信が失われてしまう可能性がある。

私の場合は、

「ややネガティブ思考であったり、対人不安であったり、そういった神経症的な素質は確かに自分の中に少しはあるけれど、それでも自分は自分のことを好きだし評価したいし、そうしたくなるような良い部分が自分の中には存在する」

といったところが、所謂いわゆる

「自分に自信を持っている状態」

であり、このような状態が、私自身の課題解決における現実的なゴール設定になるのだろうなと考えている。

自分の考えを持っている人が好き

3件のコメント

  1. はじめまして。
    自分の能力の欠如から大変な癇癪をおこしてしまい、まずはそもそもの能力の欠如からくる生きることへの罪悪感を消し去りたく、ここに辿り着きました。
    今まで見てきたどんなネット記事より、具体的な方法が書かれていて大変助けになりました。

    私は突出した能力がなくてもいつか自分を肯定できる日が来ると思い、何かと格闘し続けています。同じような戦いかは分かりませんが、本ブロガー様も常に戦いの中にあることと思います。こんな真摯に丁寧に纏められたブログを書く方の心がいつか必ず報われて欲しいと強く思います。

    本当にとてつもなく助かりました。ありがとうございます。

    1. はじめまして。コメントありがとうございます。

      ここでは主に“私自身”の経験を書いているため、具体的な記述になっているのかも知れません。本ブログ中の記事が、読者の方にとって何らかの助けになったのならば、それは幸いなことです。
      これからも気付いたことを本ブログにて発信していきます。気になる見出し等ございましたら、またお越しいただければと思います。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。