負け犬根性

私の頭は悪い。具体的に、「視覚的認知能力」が著しく低い。
数値で表すと、下位2%の水準である。無作為に抽出された100人がつどって「視覚認知」を測ったなら、私の順位は99番目である。それ程までに低い。これは、5年前に受けた知能検査より判明している「事実」である。

視覚的認知というのは、
目で見た(=視覚)情報を知覚し、それが何であるかを理解する(=認知)
ことである。

視覚的認知能力が低いと、外界から入ってくる視覚情報を頭で上手に処理することが出来ないので、度々、社会生活や日常生活に支障を来す場面が訪れる。

私が取り分け苦心しているのが、「視覚情報の体制化」である。「体制化」というのは、
関連した情報をまとめ、整理すること
である。つまり私は、
目から入力した情報を、頭の中で、意味あるものにまとめ上げること
に対し、かなりの苦手意識を持っている。これは普段私が、本を読む等、活字に触れる機会が多いためであると考えている。

これではやや抽象度が高く分かりづらいと思うので、以下で具体的な説明をしていきたい。

レストランのメニューを考えてみる。

想像してみよう。「カレーの美味しいレストラン」に入店した私達は、席に着くと先ず、テーブルの端に立てかけられたメニューを手に取って、それを開くだろう。

メニューとうものは、「体制化された情報とは何たるか」を分かりやすく説明できる好例だと思う。メニューには、以下で示すように、「互いに関連ある情報」がまとまって記載されている。

【料理】

○前菜
・エビのサラダ
・オクラのサラダ
・マッシュルームのサラダ

○カレー
・チキンカレー
・フィッシュカレー
・エビのカレー
・チーズカレー

○肉料理
・タンドリーチキン
・ラムタンドーリ
・チキンケバブ

○パン/ライス
・パラタ
・ライス

【飲み物】
○ビール

○ワイン

○ノンアルコール
・コーラ
・アイスウーロン茶

――といった具合に、メニューには“関連した情報がまとまった状態”で記載されている。「前菜」の欄には文字通り「前菜」が並び、【飲み物】の欄にはその下位項目として「ビール」や「ワイン」、「ノンアルコール」の“飲料カテゴリー”が並ぶ。

「メニュー」は、内部の情報がきちんと体制化された、とても親切な情報媒体と言えるだろう。

さて、メニューを開いた人間の、注文に至るまでの正しい思考回路はこのようになっているはずだ。

①「空腹」を感じているため、開く箇所は【料理】の欄である。
②続いて、自身が「カレー」を食べたいのか「肉料理」を食べたいのかによって、開く欄、精読する箇所を決定する。
③熟考の末、注文決定。

何も難しいことはない。「視覚的認知能力」が一定水準以上の人であれば、このようにほぼ無意識的に、脳内で情報を整理し、効率的な意志決定に繋げることが出来る。普通であれば、メニューにある情報は、そのままの通り、「前菜」なら前菜、「カレー」ならカレーと、体制化された状態で脳内に収納されるはずなのだ。

一方で、「視覚的認知能力」に乏しい私がメニューを見ると、先のメニューは“こんな風”に処理される。

・タンドリーチキン
○前菜
○ビール
【飲み物】
・チキンケバブ
・ラムタンドーリ
・パラタ
○カレー
・チキンカレー
・オクラのサラダ
○ビール
○前菜
・パラタ
【料理】
○ビール

――このように、視覚的に飛び込んだ情報が正しく整理されず、体制化されない状態で脳内に収納される。これでは、一体ここが主に何を扱っている店なのか、料理はどのようなものがあったのか、イマイチ分からないし、上手く記憶もされない。そのため、同じ箇所を何度も行ったり来たりしてしまう。結果、注文を決定するまでに時間が掛かってしまう。

同様のことは読書にも言える。

私は読書をしていても、本を閉じたその瞬間より、その本が果たして何を伝えたかったのか、本旨はどこにあるのか、そもそもどのような内容がそこに書かれてあったのか等、まるで思い返すことが出来ない。

これは私の脳内で、先ほど目にした活字情報(=視覚情報)が、全くまとまりを欠いた状態で脳内に収納されている(ないしそもそも情報が収納される前に忘却されている)ため、記憶を辿る(検索する)ことが甚だ難しくなっているためである。

平均的な人よりも読書量の多い私であるが、恐らく読書の質を競ったら、殆どの人に負けてしまうと思う。その証拠として、仕事上、会議や研修の場で資料の読み込みを必要とされる場面において、私は“その資料が何たるか”を理解しないまま(ないし、理解していても脳内でそれらの情報が整理されていないので、効率的に情報を検索できない状態のまま)会議や研修が進行され、遅れを取ってしまう機会が非常に多い。

私はその事実が、残念で、悔しくて仕方なかった。

少し前までは、本を読んだら「これは」と思った箇所を印刷機にかけ、ひたすら刷って、ファイリングして何度も復習することで自身のハンディキャップをカバーしようとしていた。

けれどもこのやり方では、問題の根本(情報を整理することが苦手)への対処になっていないような気がしたので、今ではやり方を変えている。

「情報を整理する能力」を鍛えるために、本を読んだら、いや読みながら、「果たしてこの本の主張したいことは何か」「この本の本旨は何か」「この本の目的は何か」を考えるようにしている。

そして、それが分かった瞬間にノートを開いて、その主張、本旨、目的をそこに速記し、読書中は随時、その速記文を見返す、というようなことをやっている。これにより、読書中に迷子になることが少なくなる。

読書中は、「つまり何なのか」を自身に問い掛け続けることにより、情報が脳内で散らかってしまうのを防ぐ。

・つまりこの箇所はこのことを言っている。
・つまりこの箇所はこの主張と繋がっている。
・つまりこの箇所は全体におけるこの部分を担っている。

といったところを常に意識し、ノートにて見える化しておく。

こうした作業の繰り返しにより、私の視覚的認知能力が少しでも向上してくれれば、いやせめて幾分カバーされてくれれば、私も多少は救われる。

というのも、やっぱり私は、自身の頭を諦めたくないのである。

一時期は、「私は頭が悪いのだから割り切って、それなりの人生を歩んでいけばいいや」と、半ば「諦念」とも取れる信念を抱こうとしてきたのだけれど、どうしてもその信念に浸りきることが出来なくて。

大学受験に失敗して、その後の大学時代にも、「周囲が理解できていることが自身には理解できない」という苦い経験を散々味わわされるにつけ、「私の頭は悪い」という強固な信念を確立するに至ってしまった。それは「主観的な解釈」だけに留まらず、知能検査によって、「客観的な事実」として、更にその信念は強化されていった。

私の心底には「負け犬精神」みたいなものが根付いている。読書をしていても、心理学の勉強をしていても、会議資料を読み込んでいても、必ずと言っていい程、脳内では大学時代の苦い思い出――周囲の同級生が理解している横で、一向に何が何だかさっぱり理解できないでいる自分の姿――がぎって、悔しい気持ちになる。それに加えて、読んでも読んでも、内容が頭の中で整理されない現実に、尚のこと嫌気が差してくる。

小さい頃から、父に「人より優れていなければならない」と言われ続けたせいだろうか。
学生時代、あまり冴えるところのなかった自身を支えてくれたのが「勉強」だったからだろうか。

どうしても、今の「頭の悪い私」を自分自身、受け入れることが出来ない。

全身に隈無く染みついた「負け犬精神」を払拭するには、自らの力で、主体的に成功体験を積んでいくことが必要だと分かっている。

けれども、「向上心」と「執着」は区別しなければならないことも知っている。

向上心は自分の身を助ける一方で、

執着はその反対に、身を滅ぼし得る劇薬であることも知っている。大学受験の失敗を長いこと引きずり、20代前半を棒に振った自身の経験が、それを端的に物語っている。

今現在抱えている「頭の悪さ」に対するコンプレックスへの払拭願望が、果たして「向上心」ゆえなのか「執着」ゆえなのか、自分でもイマイチ分かっていない。

しかし、どうしても「負け犬根性」の染みついた自分自身に未来を感じることができないのであれば、

散ることを覚悟で、再び立ち上がるしかない。但し、今度散るときには、人事を尽くして未練なく散ることとしよう。

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