【なぜ?】人生がつまらないと感じられてしまう理由

生きていて、つまらない。

生きることは、とても虚しい。これと言って不幸せなものがあるわけではない。むしろ、客観的に自分は幸せであるべきなのに、それでも心は、凄く空虚だ。こんなこと、言うべきでないことかも知れないけれど、今この瞬間にふと、命がなくなっても、残念に思わないと思う。それほど、人生が、つまらない。未来に希望も感じない。そして試しに、気晴らしを何かやってみても、その一瞬だけは少し楽しくても、またすぐに猛烈な虚無感に襲われてしまう。

そこで呟く。「生きていて、つまらない」

今回は、こうした悩みを持たれている方に、幼少期より抱えている「自己否定感」と戦う筆者が、その原因について考えてみました。どうして、自らの命がどうでもよくなるほど、人生がつまらなく感じられてしまうのでしょうか。

結論を先に述べます。苦痛の多い人生を生き抜くための「心の支え」を失っているからだと思います。

以下で、詳述していきます。

 
 

一時的なものであれば、そんなに心配することはないかも

 
一時的な「生きることがつまらない」気持ちは、多くの人に見受けられるものかなと思います。そうした方への対処法というものは、一般的に言われているもので解決ができるかも知れません。例えば、以下のような対処ですね。
1.楽しいことを見つける
ex)旅行に行ってみる、たまにちょっと贅沢する、夢に挑戦してみるetc.
2.環境を変える
ex)職場を変える、人間関係を変える、行動範囲を広げるetc.
3.考え方を変える
ex)人との比較をやめる、人の目を気にしないようにする、つまらないことばかりに目を向けないetc.

ただ本記事で対象としているのは、
生きることが慢性的につまらないという方
についてです。

何なら今死んでしまったって構わないとか、
何か楽しいことをしたって、そのすぐ後に虚しさが襲ってきてしまうとか、
「つまらない」を通り越して、虚無感や、絶望感を覚えてしまう
といった人々の内面では何が起こっているのか。その原因、解決策は果たしてあるのか?

本記事では、そうした深い悩みを考察していきます。
 
 

人生がつまらなく感じられる原因

 
その原因の解明、解決策のヒントとなるのが、著書『夜と霧』で知られるヴィクトール・フランクルが、アウシュビッツの強制収容所で極限体験をしながら辿り着いた境地にあると思います。

フランクルの言葉は様々なところで引用されており、私自身、その「引用」を拝読する機会はままあったのですが、残念なことに、私は未だに、『夜と霧』そのものを読んだことがありません。買いはしたのですけれどね。まだ本棚の「積ん読コーナー」に置かれたままです。

・・・読まなければ!

この記事をしたためた後は、きっと、速やかに読み始めるつもりです。が、まずは記事を書いてしまいますね。

さてここでは、精神科医である岡田尊司氏の著書『死に至る病 あなたを蝕む愛着障害の脅威』から、「フランクルの辿り着いた境地」を紹介します。

 彼が得た結論は、人が生き延びるためには、日々の苦痛に耐える「意味」が必要だということだった。その意味を与えてくれるのは、愛する者との絆であり、未来に向けた希望であった。フランクルの場合、妻や家族との絆であり、いつか社会に帰ったら、この過酷な体験から学んだことを人々に伝え、臨床に活かしたいという思いであった。
 人は、この世界にもはや苦痛しかないと感じたとき、死を選ぶ。生き続けるためには、何らかの喜びや希望が必要だった。
(中略)
 希望とは、喜びへの期待である。いますぐに喜びが与えられないとしても、いつか喜びが得られるという期待があるだけでも、人は生き続けることができる。
しかし、現実の喜びだけでなく、希望さえも失ったとき、人はもう生きられない。
岡田尊司『死に至る病 あなたを蝕む愛着障害の脅威』(2019) 光文社新書 pp.116-117

 
――この通り、フランクルは、人が生き続けるためには、人生の苦痛に耐えるための、「何らかの喜びや希望」が必要と考えたのですね。

「人生がつまらない」と感じる原因は、苦痛ある人生に耐えられるだけの、「何らかの喜びや希望」を感じられないからだと思われます。私もこの主張に関しては同意します。喜びや希望もないままに、苦しい人生を耐えていくことは難しいですからね。

けれども、ただ単に「喜び」や「希望」を増やせば良いってものだとは思っていません。一時的に趣味や娯楽等の「享楽」に耽っても、そこで得られる喜びは、きっと刹那的なもので終わってしまうでしょう。もっと「生」に関する根本的な、「喜び」「希望」が必要のはずです。

以下では、「喜び」と「希望」という二つの観点から、「人生がつまらない」と感じられてしまうメカニズムについて、“深く”考えてみます。
 
 

「喜び」の観点から考える“つまらなさ”

 
人生に「喜び」がなければ生きる気力が湧かなくなる、ということに関しては同意します。

が、それでは果たして、人生において「全く喜びがない」ということはあるでしょうか?案外、そんなこともないですよね。一応、何らかの「楽しいこと」はあるはず。けれども、その楽しみから得られる喜びが、長続きしない。どうにも刹那的なもので終わってしまう。そして喜びを感じている傍らで、どこか虚しさを覚えている自分が存在している。一体、なぜでしょう?

それは、私達が人生を生き抜くために必要な「心の支え」を失っている状態にあるからかも知れません。以下で詳しく見ていきましょう。

先の岡田氏によると、人に喜びや幸福を与える生物学的な仕組みは三種類しかないそうです。

一、生理的満足
内因性麻薬が放出されることで得られる快感です。お腹いっぱい食べたり、性的な絶頂に達して生理的満足を得ると、内因性麻薬が放出され、喜びを感じます。

二、報酬系の仕組み
神経伝達物質であるドーパミンが放出されることで得られる快感です。困難な目標を達成した際に、ドーパミンが放出され、興奮、快感を覚えます。

三、愛着の仕組み
「愛情ホルモン」とも呼ばれるオキシトシンの働きによってもたらされる喜びです。愛する人の顔を見たり、触れ合うことで、安らぎに満ちた喜びを感じます。

・・・なんと、人間が喜びを感じる生物学的な仕組みは、この三つだけしかないそうです。

人はストレスを感じた際に、三つの仕組みにあるいずれかの喜びによって、生きる意味を見出そうとします。

ストレスを感じた際、内因性麻薬でそれに対処するならば、満腹感や性的満足を得ることで喜びを見出します。

報酬系で対処するならば、目標を達成したり、困難を乗り越えた際にドーパミンを放出します。これが喜びを伴う興奮に繋がって、ストレスから身を守ることができます。

それでは、最後の仕組みである「愛着の仕組み」によってストレスに対処するということは、一体どういうことなのでしょうか?それを理解するには、まず、愛着の仕組みを支えるオキシトシンについて知る必要があります。

オキシトシンとは、絆を維持する役割を果たすホルモンです。私達はオキシトシンの働きによって、他者と親密な関係を結ぶことに、喜びを感じることができます。

オキシトシンの働きはそれだけでなく、不安やストレスを軽減させる働きも同時に果たしています。苦しいことがあったとき、他者との触れ合いによってオキシトシンの働きが活発化することで、私達は安心感を覚え、ストレスが軽減されます。

例えば私達が何かに挫けてしまった際、信頼できる他者との触れ合いから安心感を得ることで、ストレスから身が守られ、「また頑張ろう」と再起する気力を得ることができるのです。

愛着の仕組みは、三つの仕組みの中で唯一、

“何の行為も努力も必要なく、ありのままの自分でいるだけで与えられる喜び、安心感”

なのです。正に「心の支え」のようなものなのですね。
従って、「愛着の仕組み」という「心の支え」が十分に機能しない人が、ストレスに対処しようとしたり、喜びを見出そうとするとき、それは「何かの行為や、努力によって条件付きに与えられる」生理的満足や、報酬系の満足を得ることによって、生きる意味を見出すしかない、ということになります。

際限なく食べ続ける
目標を達成し続ける
他者からの承認を得続ける

愛着の仕組みが機能しない場合、こうしたプロセスによって、ストレスから身を守るしか手段がありません。

このプロセスが上手く機能している内はまだいいかも知れません。しかし、
目標が失われたり、
目標の達成が困難になったり、
他者からの承認が思うように得られなくなってしまった際、愛着の仕組みを持たない人からは、喜びが失われてしまいます。そうして、絶望に陥ります。

愛着の仕組みを持つ人であれば、挫折した際、周囲の人の優しい慰めや、労りによる安心感を得、立ち直ることができます。しかし愛着の仕組みを持たない人には、何かに挫けてしまったときの心の支えが、全くないのです。

愛着の仕組みを持たない者にとっての人生とは、

羽を休める間も無く、常に墜落する恐怖と戦いながら飛び続けなければならないような、全く安心感のないもの

となってしまっているのです。

そうした「心の支え」がなく、安心感に乏しい人々にとって「人生はつまらない」と感じられてしまうことは、無理もありません。そうして、心の支えのない状態における「いっときの気晴らし」のようなものが、心に渦巻く虚しさを掻き消してくれないのも、当たり前のことなのです。

これは余談になりますが、たまに話題となる「依存症」の仕組みも、こうした

「安心感のない不安」から逃れるため、内因性麻薬、ドーパミンの継続的な放出を求めた結果である

と解釈することで、その心理がよく分かるようになります。

逃げ場のない不安から逃れるために、内因性麻薬の継続的な放出を求めた結果が、例えばセックス依存症に繋がってくることがあります。

ドーパミンの継続的な放出を求めた結果であれば、例えば、麻薬やギャンブル依存症に繋がってきます。(※嗜癖的行為は、短絡的なドーパミンの放出を伴うため、依存性が高くなります。)

依存症はただ単に「悪いもの」「本人の意思の弱さによるもの」だとする考え方がありますが、依存症に陥っている人にとっては、

“愛着の仕組み”による「喜び」

を持たぬ者として、不安に押し潰されず生き抜くための、ギリギリの手段だったりします。「依存症」という「症状」にだけスポットライトを当て、依存対象となるものを取り除くことばかり考えてしまうと、最悪の場合、自殺に繋がることもあるそうです。依存症は、表面に現れている以上に、根深い問題でもあるのです。
 
 

なぜ、愛着の仕組みが働かないのか。

 
小さい頃に、養育者との間で情緒的な絆を結べなかったとき、その人は「愛されたかったのに、愛されなかった」という心の傷を抱えることになります。

「自分の気持ちに寄り添って貰えなかった」
「自分のことをあまり大切にして貰えなかった」
「ありのままの自分を愛されず、お仕着せの自分しか愛されなかった」
「養育者は子供のことよりも自分のことばかりを優先し続けていた」

そうした過去に背負わされた悲しい傷が、後に日常生活を送る上で、様々な問題となって表れることがあります。これを「愛着障害」と言います。
愛着障害を抱える人は、「幼少期に愛されなかった心の傷」をどうにかして埋めようとしますが、それが社会的に様々な不適合を起こすことで、本人の生きづらさに繋がっていきます。それは想像を絶するものです。

さて、愛着障害を抱える人の脳内では、オキシトシン受容体がタンパク質レベルで減少していることが分かっています。

絆を維持し、社会性を高め、人に親密さを感じ、優しく寛容な気持ちにさせ、人を世話することに喜びを感じさせる働きを有し、対人関係を円滑にすることに重要な役割を果たしている、オキシトシン。その受容体が減少することで、

他者との親しみある関係

に喜びを感じにくくなります。
また、自分を一番大切に思ってくれるはずの存在である養育者との絆の消失は、他者不信を招きます。そうして、「他者との触れ合いから安心感を得る」愛着の仕組みが、十分に機能しなくなってしまいます。

「安心感に満ちた喜び」を得るための愛着の仕組みが機能しないことは、常にストレスから身を守る手段として、「内因性麻薬」か「ドーパミン」の放出による喜びを得ることに頼ることになります。しかし、このような仕組みで得られる喜びは「条件付き」のものですから、その条件が整わなくなった際、一気に人生が「虚無的でつまらないもの」として感じられてしまうのも、無理のない話なのです。
 
 

「希望」の観点から考える“つまらなさ”

 
続いて、「希望」の観点から考察してみます。人生に希望を感じられなければ、やはり人生というものは虚しく感じられてしまいますよね。

先に述べました「喜び」と深い繋がりを感じられる方も多いでしょう。

喜びがない→希望も感じられない

というモデルは、極々、自然なものと私も考えます。

そこで、ここではそれとは別に、「自己喪失」について扱ってみます。自分というものを見失い、自分の人生を生きずに、他人の人生を生きている人もまた、人生に希望が失われているはずなのです。

自分の胸に今一度、問い掛けてみてください。

今自分の置かれている環境は、果たして自分が望んでいたものか?
あらゆる人生の選択を、自分の意思で決定して来たか?
実はこれまで、「自分でない他者」の人生を歩まされているのではないか?

「他人からどう思われるか」という恐怖が「自分がどう思うか」という正直な感情を抑圧し続けていないか?

「自分が何者なのか分からない」
といった自己喪失に陥っている人は、たとえ客観的に良い境遇に置かれていたとしても、どこか虚しい気持ちに襲われることになります。

であるならば、自分の人生を生きられるようにすれば良いではないかということになりますが、そう簡単にいくものではありません。なぜなら自己喪失は、恐らく私達が幼少期より、何十年と続けてきた生き方の様式となっているはずのものだからです。

自己喪失している人は、幼少期より、自分の人生を生きられない環境にいた可能性があります。例えば、こんなことはなかったでしょうか。

常に親の機嫌を取らなければならず、自分が自分でいられなかった。
常に親の価値観で生きなければ、自分の存在を認めてもらえなかった。
そして今でも、過去に貰えなかった承認を、心のどこかで求め続けてしまっている。

自己喪失に関する名著が多いのが加藤諦三氏です。加藤氏の名著の一つに、『人生の悲劇は「よい子」に始まる』があります。以下で、本の中身を少しだけ覗き、「自己喪失」のもたらす恐怖について学んでみましょう。

 そこで私はいつも今自分はどのようにして感じる「べき」かと自分に問いかけていた。そのうちに、自分は今どのように感じているのか、実際の感情が自分にもわからなくなった。
 許される感情、持つべき感情、そのようにつくられた感情で生きていると、生きている実感がなくなる。立派な人なのだけれども、何となく存在感がないという人がいる。そういう人は今述べたような生き方を強制されてきた人ではないだろうか。
 私は小さい頃から「嫌だ」ということを決して言わなかった。それは決して許されない言葉であった。しかし、実際の私はすべてにおいて「嫌」だった。自分でない自分を押しつけられ、嬉しくもないのに嬉しい顔をし、悲しくなくても悲しい顔をし、尊敬していないのにしているような顔をして生きてきた。それ以外に私が生きる道はなかったのだ。
加藤諦三 『人生の悲劇は「よい子」に始まる』(2019) PHP文庫 pp.46-47

 「自分がない人」の特徴は、心が他人に支配されるということである。他人のことが気になって仕方ないのである。だからいつも心が安定しないで、かき乱されている。自分がない人の心は、休息を知らない。
自分がない人は、他人との比較でしか自分をとらえられないので、他人のことが気になって仕方がない。
(中略)
 つまり、自分の生活がないのである。これではどんなに偉くなっても、その人生は虚でしかない。いつも一生懸命やらねば、と自分を叱咤し、馬鹿にされてはならないと張りつめている。だがそのわりには、心のどこかでいつも退屈している。一生懸命生きながら、その人生は虚でしかないとは何という悲劇であろうか。
加藤諦三 『人生の悲劇は「よい子」に始まる』(2019) PHP文庫 pp.55-56

 実際の自分でない自分を演じれば演じるほど、実際の自分を心の底で軽蔑するようになるのは当然である。
加藤諦三 『人生の悲劇は「よい子」に始まる』(2019) PHP文庫 p81

自己喪失していては、自分が分からず、理想の人生を望むことすらできません。自分が心から望んでいるように思われるものも、実は、そうでなかったということが沢山あるはずです。
 
 

人生を楽しむためには

 
以上より、

・愛着の仕組みを整え、安心感を得られるようにする。
・自己喪失から、自分を取り戻す。

という二点が、虚しいばかりの人生を、楽しくなるまで持っていく上で大切になると考えています。

岡田氏は、愛着障害を劇的に改善した人達に見られるケースとして、以下の三つを挙げています。

① 養育者が本来あるべき「親としての機能」を取り戻すことで、親子の関係が改善されたケース。
② 実家を離れ、そこで信頼できる人に出会って、落ち着くケース。
③ 本人がドン底を極め、とことんまで落ちたときに、諦めがついたケース。

ここでは、②,③の方法で改善することを想定します。

③については、ざっくり言うと、

「ありのままの自分を愛されたい」と必死になって周囲から愛情を得ようとしたけれど、結局、誰も「ありのままの自分」を愛してくれることはないということに気付かされ、絶望し、そこで初めて、「愛情ばかりを求めているのではいけない。自分の力で困難に立ち向かっていかなければならないのだ」と自身で認識することです。

もし、自我が耐え得るのであれば、「ありのままの自分が愛されることはない」という厳しい現実を認識し、その上で、自分の人間的な魅力を向上させることが重要だと、私は考えています。親子関係以外の人間関係において、「ありのままを愛される」というドラマは、なかなか起きないと思います。人として何らかの魅力があるからこそ、愛される、そういうものなのです。

私も職業柄、「ありのままの私を愛してよ!」と言わんばかりの問題行動を起こしては、周囲の人々との関係性を著しく悪化させている人を何人か見てきました。そうした人を見ていて思うのは、確かに、幼少期に養育者から愛されなかった事実は辛いものだろうけれど、その傷を第三者に埋めて貰おうとするのは非常に難しいということです。殆どの人は、「自分が愛されることしか考えられない人」を心より愛することは、できないはずです。これは勿論、私も反省させられたところです。

さて、「人から愛されること」よりも大切となるのは、「人を愛すること」だと思います。

「自分が愛されること」ばかりを考えているのは、対等な愛情とは言えません。「この人に自分の方から何かしてあげたい」といった純粋な思い遣りが生じてこそ、対等さが生まれます。

そして、人を愛せるようになるためには、まずは自分を愛することから始める必要があります。自分を大切にできない人は、相手も大切にできないとは、色々なところで言われています。私もそれには同意します。

また、自己喪失に関しては、先の加藤氏が、

自分の抱えている心理的問題に気が付くこと

の大切さを多くの著書にて、何度も説いています。

それら二点を踏まえ、今、私が「人生を楽しいものにするため」に実践しているのは、

・自分の抱えている心理的問題を認識すること
・自分を幸せにするための行動を、日々積み重ねていくこと

の二つです。

まずは、自分の抱えている心理的問題を明らかにすることです。私の場合は、「自己喪失」と「愛情飢餓」という大きな二つの課題が、自身の心に残っていることを認識しています。自分の内面の課題を知るため、本も何冊か読んでいます。

そうした上で、今度は自分自身を、自分の力で、幸せにするための行動を取るよう心掛けることが重要だと思います。
これは、愛情飢餓を抱えているからと言って、ただ「愛されたい」と叫ぶことではありません。例えば「愛されたい」のであれば、自分が「愛され」るのに十分な魅力を身に付けることに日々、精進すること。こうした試みを続けた先に、「愛情飢餓の問題の克服」が訪れるものと思っています。

兎に角、自分が幸せになるためには、今この瞬間、自分は何をやったら良いのか、何に時間を費やしたら良いのか、といったことを、よく考え、実行することが大切です。
そうした、「自分の幸せのために、一生懸命、日々を生きている」という実績の積み重ねが、ゆくゆくは自己肯定感の向上や人間関係の改善をもたらし、それが将来、人生における「喜び」や「希望」に繋がってくるものと信じています。

「人生がつまらない」という悩みには、このようにして、一朝一夕に解決のし難い、根深い問題が潜んでいることがあります。もし心当たりのあった方は、これを機に、
「自分の抱えている本当の問題は何か」
「自分にとっての幸せとは何か」
を考えてみていただきたいと思っています。

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