「自意識過剰」に陥る原因と治し方を考察する

「人からの見られ方」ばかりに気を取られ、自分に意識を向けすぎてしまうことで、
日常のあらゆる場面で集中力を欠き、
却って自分自身を見失い、
そして何より、生きていて、必要以上の息苦さを覚えてしまう、「自意識過剰」。

「自分は今、他者からどんな風に見られているのか」

そんな「過剰な自意識」に囚われながら生きていると、グッタリしてしまいますよね。かく言う私自身も、典型的な「自意識過剰人間」なので、毎日、不必要な疲労をしてしまいます。「人からの見られ方」に大半の意識を持って行かれてしまうのは、非常に、くるしい。

「過剰な自意識」に関する多くの描写を残している作家に、太宰治がいます。太宰自身も、「過剰な自意識」というものに散々、悩まされてきたのでしょう。以下に紹介する『ダス・ゲマイネ』をはじめ、様々な作品で、「過剰な自意識」に関する描写が出てきます。(※太宰治の作品では、「自意識過剰」とは言わず、「気取り」という言葉で表現されるものが多いですね。)

僕はむずかしい言葉じゃ言えないけれども、自意識過剰というのは、たとえば、道の両側に何百人かの女学生が長い列をつくってならんでいて、そこへ自分が偶然にさしかかり、そのあいだをひとりで、のこのこ通っていくときの一挙手一投足、ことごとくぎこちなく視線のやり場首の位置すべてにこうじ果てきりきり舞いをはじめるような、そんな工合いの気持ちのことだと思うのですが、もしそれだったら、自意識過剰というものは、実にもう、七転八倒の苦しみであって、
太宰治『ダス・ゲマイネ』(新潮文庫『走れメロス』収録)

秀逸な例えですね、素晴らしい。
余談ですが、『ダス・ゲマイネ』に登場する「馬場数馬」の言動一つひとつには「過剰な自意識」というものがこれでもかと現れており、読んでいて、つい、笑ってしまいます。

調子に乗って、もう一つ紹介してしまいましょうか。こちらは有名な作品、「女生徒」からの抜粋です。

ゼスチュアといえば、私だって、負けないで沢山持っている。私のは、その上、ずるくて利巧に立ちまわる。本当にキザなのだから仕末に困る。「自分は、ポオズをつくりすぎて、ポオズに引きずられている嘘つきの化けものだ」なんて言って、これがまた、一つのポオズなのだから、動きがとれない。
太宰治『女生徒』(新潮文庫『走れメロス』収録)

「見られ方」「見せ方」を意識するあまり、「自然体」というものが分からなくなってしまう心理。痛いほど、よく分かりますね。太宰治の類い稀なる表現力に、脱帽です。

さて今回は、「自意識過剰」を扱います。できることなら改善して、自分らしく、生き生きした人生を送りたいものですね。

 

自意識過剰の特徴 ~筆者の場合~

 
先にも述べましたように、私はかなりの「自意識過剰人間」です。常に「人からの見られ方」が気になってしまうことで、日常の様々な場面で苦悩することとなっています。

この項では、私自身の経験を元に、自意識過剰な人の抱える苦悩について見ていきましょう。

一、他者の視線があるとパフォーマンスが著しく低下する。

自意識過剰な人は、他者の視線があると、「その人から見える自身の印象」ばかりに気を取られてしまうので、「目の前の物事への集中力」を大きく欠きます。更に、自分の挙動一つひとつに過剰の意識が向いてしまうので、「自然体」というものが、分からなくなってしまいます。その結果、他者の視線のあるシチュエーションでは、自身の持っている実力を発揮することが難しくなります。
また「自然体」の振る舞い方が分からなくなってしまうことで、時に、日常的に何も不自由ないはずの動作さえ、ぎこちないものになってしまいます。例えば、私は先日、他者の視線を気にするあまり、なんとお椀に味噌汁を上手く盛れなくなってしまいました。酷いものですね。

二、常に批評に晒されているような緊張が取れず、息苦しい。

先程から、「人からの見られ方を気にするのが自意識過剰」と言ってきましたが、自意識過剰な人が恐れているのは、「人から批判的な評価を下されること」です。こうした恐怖心に支配されていると、自身の言動一つひとつを、果たして

眼前の相手の気に入るものなのか、
相手の願望、期待を満たすものなのか、

と常にチェックしていなければならないので、息苦しさを感じてしまいます。
私自身も、取り分け外出時には、あまりの緊張感から

「肺の上半分しか使われていないのではないか」

と思われるほどに、息苦しさを感じてしまいます。なかなか辛いものです。

三、自分がどう思われているかという思考に囚われて、何も行動できなくなる。

自意識過剰な人は、常に人の視線が自分に集まっていると考えているので、自身の「失敗」に対して、必要以上の羞恥を感じてしまいます。ですから、「失敗」というものに過度に敏感になっています。ゆえに、人前では何らかの行動を起こしにくくなります。そのぶん、挑戦の回数も減ってしまいますので、成長の機会が失われます。他者からは「この人は何も行動しない人」という評価を下されることにもなります。私も、人の目のないところでは起こせている行動が、人の目があることで全く起こせなくなるという経験を何度もしています。

四、「こんなこと思われているんじゃないか」と勝手に、根拠なき悲観的な妄想をする。

自意識過剰な人は、「人からの見られ方」を客観的に分析しているわけではありません。大抵は、自身の言動一つひとつをとっては、

「こんなことを思われてしまったのではないか」

と勝手に推測しているだけのことが多いです。そしてその内容は悲観的なものになりがちですから、悲しい思いをすることも多くなります。

五、自己喪失している。

自意識過剰な人は、「人からの見られ方」ばかりに気を取られるあまりに、人生の目的が

「他者から評価されること」

だけになってしまうことがあります。そうすると、自分の意思や感情を長期間に渡り、何度も抑圧することになるので、次第に、自分が何を思い、何を感じているのか、分からなくなっていきます。他者からマイナスの評価をされないために、様々な物事に対して、自分の心よりも先に、頭の方で「どう感じるべきか」を考えることになってしまうのですね。

自己喪失していると、自分というものの存在に対する実感が希薄になり、生きていて楽しくなくなってきます。自分がやっていることも、果たして自分が本当に好きでやっているのか、ただ単に人から認められるためだけにやっているのかが分からなくなっているのですから、当然のことかも知れません。

私がざっと思い付いた「自意識過剰な人の特徴」はこのようなものですが、別サイトには、他にこんな記述もありました。

六、やたらと自分をアピールしたがる。

これを見たときは、「あー、なるほど」と思いました。

他者から良い評価を得ようと意識するあまり、思い上がった言動や、勘違い発言、自慢話等の「自己アピール」をしたくなってしまうのですね。

私にもそういうところがあります。私のブログでも、ちょっと前まで書いていた記事群は、恥ずかしいことに、「もっと自分を見て!」といった「自己アピール動機」の紛れ込んだものが多かったように思われます。「人からの評価」を気にするということは、「他者から悪く思われたくない」というのと同時に「自分のことをよく思われたい」という動機にも裏付けされたものですから、自己アピール欲求がつい、前面に出てしまうのですね。

ここまで、自意識過剰な人の持つ特徴について見てきました。ここからは更に、そうした過剰な自意識の根底には、どのような心理的問題が根付いているのか?といったところを、見ていきましょう。
 
 

自意識過剰の元となっている意識

 
それは、

「自分は価値のない人間だ」

とする信念です。この思い込みがあるからこそ、「人からの見られ方」「人からの評価」というものに、非常にこだわってしまうことになるのですね。

「人からの評価」というものに過剰に反応してしまう人は、自分で自分を、「価値ある存在だ」と認めることができていません。従って、「自分の人としての価値」を「他者からの評価」によって決定しようとします。他者から、

「あなたは生きている価値のある人間だよ」

と認めてもらうことで、自身の存在価値を確かめようとしているのです。

さて、ここで問題になるのが、

「他者が自身に対してどんなことを考えているかなど、分からない」

ということです。「分からない」ことは、自分で予測するしかありませんが、
「自分はこんな風に思われているのだろう」
と予測するのは、誰でしょうか。それは「自分は価値のない人間だ」とする信念を持っている自分自身です。

人間というのはどうしても、自分の現在、持っている信念が正しいことを証明してくれるような事実を偏って集めてしまうものです。そのため、
「自分は価値のない人間だ」
と(意識的にでも無意識的にでも)思っている人は、その信念を証明するような事実ばかりを集めてしまいがちです。

他者はどんなことを考えているか分かりません。そうした不確定なものを、「自分は価値のない人間だ」とする信念を持つ自分自身が予測するとどうなるか。
必然的に、悲観的なものにならざるを得ません。

そういうわけで、そうした人が行き着くのは、どうしても「マイナスポイントのない人間を目指すこと」になりがちです。他者から取り分け、批判されるところのない言動。あわよくば、他者から評価されるような言動で自身を覆っていなければ、ともすれば内面に根付いている

「自分は価値のない人間だ」

とする信念が、それを証明するような偏った事実を集めて、自身を傷付けることになってしまいますからね。

そういうわけで、「人からの見られ方」が、過剰に気になってしまうし、
また、ほんの少しの失敗、取るに足らない小さな失態でさえ、過剰に怖くなってしまうわけですね。

「どんな人にでも、いかなる失態も見せまい」

――そんな張り詰めた緊張感を持ってしまうから、人の視線が過度に苦手になります。

これは、前項の「六、」で述べたような「自己アピールに必死な人」にも当てはまることです。表向きでは自信満々に振る舞っていても、内面にあるのは
「自分は価値のない人間だ」
とする信念です。それを他者に悟られることなく、隠し通すために、敢えて堂々と
「自信満々」
に振舞うのですが、その実、心の中は不安で満ちています。

以前の私の職場の同僚に、一見すると自信満々な振る舞いをしているけれど、その腕にはリストカットの痕が付いている、という人がいました。きっとその人の心の中は、見かけに依らず、不安で満ちていたのかなと、今にしてみると思います。

次の項では、自意識過剰に陥る原因について、見ていきます。
 
 

自意識過剰になる原因

 
例えば、就活でも恋愛でも交友関係でも良いのですが、ある市場において、
「自分の存在が評価されない」
という状況に立たされたら、どのように感じるでしょうか。きっと、

「ああ、自分って、魅力ないんだな」

と感じますよね。

それでは、このような状況が、その人の“生まれた瞬間”より起こっていたとしたら、どのようなことになるでしょうか。

人生の初っ端から

「自分は魅力がないんだな」

という意識を植え付けられてしまった人は、それ以降の過程で、その意識を変更させることが難しくなってしまいます。もう少し、詳しく説明していきましょう。

人は、他者からの承認を必要とします。

「Bさんからは全く認めて貰えなかった。」

という心的なショックを乗り越えられるのは、

「でもAさんは私の存在を認めてくれている」

という「心の支え」があるからです。人は、健全に生きていくのに、「心の支え」というものを必要とします。

そうした「心の支え」の土台を作るのが、幼少期における養育者との関係です。人は生まれてから、養育者と情緒的な絆を結ぶことによって、

「自分は養育者から認められた存在だ」
と実感することにより、

自己肯定感や、

他者への信頼感、
生きることへの安心感、
新しい物事に挑戦する勇気
といった「生きるために大切な信念」を獲得していきます。裏を返せば、「親子の間で情緒的な絆が結ばれる」という体験がないと、自分を肯定できず、他者も容易には信じられず、生きていることに安心感を抱けず、そのため、色々な物事に挑戦する勇気も湧かない、といった状況に陥ります。(※)

子供にとって、「自分を一番大切にしてくれるであろう他者」ないし、「自分を一番大切に扱って欲しい他者」は、養育者です。その養育者から、

ありのままの自分の存在を認めて貰えなかった。
自分の価値観を持つことを許されなかった。
自分の気持ちに寄り添って貰えなかった。

といった体験によって「情緒的な絆」が結ばれないと、

「養育者は、何があっても自分を認めてくれる」

という心の支えが築かれません。その結果、他者不信感も相俟って、「自分は価値のない存在だ」という信念が定着してしまうのです。こうした一連の流れに関連する概念に、「愛着障害」というワードがあります。愛着障害に詳しく、関連する著書を数多く残している精神科医、岡田尊志氏の『愛着障害の克服』や『死に至る病 あなたを蝕む愛着障害の脅威』は良書だと思います。

また、「人からの見られ方」ばかりを気にして生きていると、自分を見失います。自己喪失した自分に価値を感じることは難しいですし、仮に自己喪失した自分を他者から認められたとしても、それは本当の自分の姿ではないので、なかなか存在価値の確信には繋がっていきません。

※余談ですが、恵まれぬ環境で育ち、情緒的成熟が難しいような境遇に置かれたはずの子供でも、健全な自己肯定感を育む場合があります。そうした子供に見られる特徴が記されている本に、加藤諦三氏の『どんなことからも立ち上がれる人 逆境をはね返す力「レジリエンス」の獲得法』があります。ちなみにそうした子供には「抑圧」が見られないそうです。

 

治し方・改善法

 
それでは最後に、自意識過剰の治し方や改善法について記述していきます。一般的に提案される方法は、
「自分に自信をもつこと」
「人は自分の思っているほど自分のことを気にしていないことに気付くこと」
等が挙げられていますが、分かっていても実践するのは、なかなか難しいですよね。何故なら、これまで定着され続けてしまっている

「自分は価値のない人間だ」

とする信念を180°転換することが必要で、この信念は、一朝一夕に変わるようなものではないからです。

一朝一夕に変えられる信念ではない

――だからこそ、こうした根深い問題を根本から変えていくためには、日々、改善に向けた取り組み、実績を、地道な方法で積み重ねていくという以外に方法はないと思っています。

私も自意識過剰に関しては克服過程にあるので、あまり偉そうなことは言えないのですが、それなりに色々な本を読んで、「自己否定感」の生じるメカニズムについて知識を付けました。そんな私が辿り着いたのは、以下の二点を重視した生活を送るという姿勢です。

一、自分の抱えている心理的課題に気付き、自己喪失から回復する
二、「自分を幸せにするための行動」を積極的に日常の中で積み重ねていく

「これを行えば一瞬で解決します!」といった即効性ある“How to”を提案できなく申し訳ない気持ちになるのですが、自意識過剰を克服するだけの自己肯定感を持てるようになるためには、結局は、こうした取り組みを地道に、コツコツと積み重ねることで、「自分には価値があるのだ」とする信念を徐々に育て上げていく他ないのかな、というのが、現状の私の考えです。

「自分には価値がある」

と思えるようになるためには、

ⅰ)人から魅力的と思われる人間になることと、
ⅱ)自分自身を魅力的と感じられるような生活を日々送っていく、

ということが必要になると思います。

ただ、単に「人から魅力的と思われる人間になること」だけを目標にしてしまうと、結局は「他者からの評価」に囚われて、「自意識過剰」の状態を継続させることになりかねませんよね。何故なら、今は自分自身が空っぽだから。自分で自分のことを「価値ある存在だ」と思えていない状態が変わっていないから。

それならば、まずは自分が、自分自身を「魅力的だ」「価値ある存在だ」と思えるような生活というものを、自分の力で積み重ねていくことが優先されるべきだと思います。

「自分を幸せにするために、自分は日々の中で、何をしていく必要があるのか」

ということを徹底的に考え、実践すること。「自分のことを自分の力で幸せにしようとしている」というその実績の積み重ねが、ゆくゆくは自分に対する信頼感となり、自分の価値に結びついていくものと考えています。

私の場合は、本を読んで脳内の知識プロットを増やすことや、ブログを書くこと、心理学の勉強をすること等がそれに当たるのですが、それらをただ漫然とこなすのではなくて、
「どうしたら読んだ内容を忘れずに脳内に残しておけるだろう」
「どうしたらより多くの人に読んで貰える記事になるだろう」
といったところまで考えるようにし、自他共に「価値がある」と認められるところを目指すのが大事です。
しかし人様から認められぬ内は、「自分自身がこれは価値あると感じられる物事に、ここまで時間やお金、労力を投資して結果を出そうとしているのだ」と自信を持って言えるような日々を積み重ねることで、まずは自身の評価としての、「自分の、人としての価値」を上げようとしています。

ここでは例として読書やブログを挙げましたが、内容は、自分にとって価値あるものであれば何だって良いと思うのです。料理本を一冊マスターするとか、好きなドラマに関してだけは熱く語れるようにするとか。あとは筋トレとか。自分にとって価値あるものであるならば、本当に、何でも良いと思います。

それから、自己喪失してしまっている自分を、徐々に取り戻していく努力も行いたいものです。「人からどう思われるか」を基準として、自身の感じ方、思考を頭でコントロールしているという自身の習慣に気付き、その中で、あらゆる出来事に対し「本当のところ、自分はどう思っているのか?」を自身の心に何度も問い掛け続けることも大事になってくると思います。初めのうち、自分の心からは何の返答もないかも知れませんが、根気強い問い掛けによって、徐々に凍りついていた真の自己が解凍されていくと、段々と自分の感じ方というものが分かってくるようになると、今は信じてやっています。

「自己喪失から立ち直った」という先人の知恵を借りるのも良いかもしれません。自己喪失に関する記述の多い加藤諦三氏の本には様々な知見が集合しています。特に『自分に気づく心理学』は良書です。こういった本を読むのも、自己喪失から立ち直るための手助けになるかも知れません。

改めて、「これをやれば必ず治る!」といったものを提案できず申し訳ない気持ちでいます。ただ、こうした問題は根深いものであるだけに、「気の持ちよう」ひとつで何とかなるものではなく、日々の積み重ねによって改善していく他はない、というのが私の考えです。

「自分を幸せにするために真剣になっている」という日々の実績の積み重ねこそ、「自意識過剰」を脱する、最短の方法だと考えています。

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