過去二年間に渡る私のブログ運営は失敗だった

私のブログ運営は失敗した。これは、二年という歳月を経て、アクセス数を殆ど集めることができなかったことだけを意味していない。初めからこのブログに訪問してくださった読者の多くを、失うことになってしまったことも意味している。私は、読者の求めていたような魅力的な記事を書くことができなかった。それだけならまだ良い。最も浅薄に思われるのは、読者の気持ちをまるで考えず、我欲にまみれた、思い上がった記事ばかりを投稿し続けてしまったこと、それにある。

私は、今年で27歳になる。しかし、精神年齢は赤ん坊と一緒だ。いくら肉体的に年齢を重ねても、精神は幼児のまま成長していない。私は何事を為すにも、結局のところ、自分のことしか考えられていない。口では綺麗なことを言うときがある。立派なことを主張するときもある。「これは人のためだ」と得意になっていることもある。しかしその裏に隠されているのは、「自分をもっとよく見て欲しい」「自分の存在を人様から認められたい」「自分がもっと構われたい」といった、下劣で低俗な欲求だけである。何事につけても、「自分」、「自分」、「自分」。自分のことしか、見えていない。自分のことしか、考えられていない。私の言う「人のため」なんてものは、全部、偽善だ。私の一挙手一投足には、全てにおいて、「裏」があり、「下心」が、隠されている。ああ、卑しい。醜悪だ。懸命に隠しているつもりでも、周囲にとっちゃ、お見通しなのさ。与えられることばかり考えている人間の周りに人が集まらないのは、当然のこと。愛されることばかり考えている人間に限って愛が不足してしまうのも、残念だけれど、当然のこと。私は、これは真に難しく、残念な問題だと思う。飢えれば飢えるほど、与えられなくなってしまう。たとえ当人がどんなに欲しても、飢えているだけでは、与えられることがない。飢えている者ほど、必要な愛が、承認が、与えられない。そしてその事実は客観視というものをしてしまうと、当然のものとして、飢えている者の落ち度というところに帰着される。「私はあなたに何も与えられないけれど、あなたは私のことを愛してね」なんていう願いは、傲慢と言われてしまっても仕方がないのである。ただ当事者である私としては、そうした人々をただ「傲慢である」と断ずるのはとても可哀想に思ってしまう。そうした、一見すると「傲慢」に見える性質というものは、きっと、何らかのバックグラウンドがあって、やむを得ず身に付いてしまったものだということ、それだけは理解できる人でありたい。けれども、それでもやはり、「自分が愛されること」だけを考えている人というのは、人からはなかなか、愛されることがない。それは、残念だけれど、認めなければならない。もっと言ってしまおうか。「自分が愛されること」ばかりを考えることはすなわち、自己愛にまみれていることを必ずしも意味していないのだ。自分で自分を傷付け、罰し、蔑ろにしているからこそ、自分のことしか考えられなくなってしまう、そんな悲しい性を、現実を、自覚していなければならない。自己愛というのは、自分の存在価値をすべて他者に委ねてしまおうとするような試みとは、寧ろ逆のものなのである。自分のことしか考えられなくなってしまうのは、ある意味で自己愛に見えて、その実は、一種の自己喪失である。本当に自己愛を持っている人は、自身の存在価値のすべてを、他者に依存しようなどとは、決してしないであろう。

私がこの先やっていかなければならないのは、渇望している承認を闇雲に求めることではない。愛情を只管ひたすらに希求することではない。それらを求めているだけでは、決して、それらが与えられ、満たされることはないからだ。与えられたいならば、まずは自分から何かを、与えなければならない。承認される前に、人を承認せよ。愛される前に、人を愛せ。それができて初めて、スタートラインに立てるのである。ただ求めているだけでは、いけない。そもそも、何の魅力もない自分が、何の理由もなく愛されることは、幸せか?ただ「愛されたい!」と叫ぶだけで、誰かに応えてもらえることは、幸せなのか?一見すると素敵なことにも思えるが、どうやらそれは違うようだということが、最近になってようやく、分かってきた。自己喪失している自分を仮に愛されたって、仮面を被った自分を愛されたって、愛されている実感など湧かない。魅力のない自分を愛されることも、愛する能力のない自分を愛されることも、人様を承認するだけの精神的余裕のない自分を認められることも、全て、理想的のようであるけれど、そんな自分を愛されたって、真に愛されている実感など、きっと持てない。自分の心のどこかに、相手への負い目があれば、愛されているという実感など、感じられる余裕が生まれるわけがない。愛されたいのであれば、認められたいのであれば、まず先に自分が魅力的になることから、始めなければならないのだ。まずは自分の方から、人を愛し、人を認め、人を思い遣ることが必要になるのだ。渇望している者ほど、与えられることばかりを考えていては、いけない。渇望しているならば、初めは意識して、相手を満たすこと、そればかりを考えていかなければならない。与えられることだけを考えている人間に何かを与えてくれるほど、世の中は優しくできていない。これは相当、厳しい現実だ。しかしこの厳しい現実の存在に気付き、それを乗り越えることができて初めて、自分が本当に求めていたものを手にすることができるようになるのだ。

私は、根本的な生き方を誤っていた。そうした生き方の誤りは、ブログ運営の失敗へと繋がった。私はブログを通じて、人様から認められることばかりを考えてきてしまった。あまりに自分本位な記事ばかり書いてきてしまったから、ブログが二年という時を経ても、一向に成長してこないことはおろか、同時に多くの読者を失うことになってしまった。私は、幼稚であった。散々、以前から「私は幼稚だ」「私は精神未熟者だ」等と言ってきていながら、その解決に向けた具体策を講じることが、さっぱりできていなかった。私は己の愚行を反省し、また一から積み上げていく気持ちで、今後ブログと向き合っていかねばならない。

そのためには、読者を思い遣った記事を書いていくこと。これを重視してやっていかねばならない。読者にとって、読んで益になる記事を丹念に書き続けていく。そうして信頼を積み重ねていく他は、ないのだ。もう、自分本位に書かれた記事を中心に、投稿し続けるようなことをしてはいけない。徹底して、益になるような情報を公開していく。記事を書く目的を間違えるな。あなたは凄い人です、と言われるために記事を書くのではない。そんなことよりも、あなたのお陰で自身の抱えている問題について分かりました、ありがとう、と言ってもらえるような記事を目指していかなければならない。目的の設定を誤ってはいけない。そしてその実現のために自分自身、良い記事を書いていけるようしっかり勉強すること、しっかり時間とお金をかけた自己投資をすることがとても大事になってくる。感性で魅せるだの、文章力で魅せるだのと言って甘えていないで、兎に角ただ只管、記事中に有益な情報を網羅し、読みやすい形にする。そして有益な情報を書けるだけの知識を身に付けるため、しっかり勉強すること。それだけを考えること。甘えてはいけない。私の場合、私を価値ある人間たらしめるのは才能ではない。努力だ。今回は口だけではない。私は既に、上述した思考に基づく記事を作成している。最近投稿した三つの記事がそうである。これらの記事は恐らく、これまでの記事とはテイストの大きく異なる構成になっていて、随分読みやすくなっているはずである。
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こちらが「読者のため」に記事を書いていかない限り、読者から認められるようなことはない。まずは自分から与えること。自分から何かを与えられるようになるために、自分が何らかの努力をしていくこと。それをしっかりと頭に留め、行動として継続していかないことには、本ブログが成長するようなことはない。二年間やってきて分かったことである。

一つ例外があるとすれば、私がこうして、精神の未熟さをどんどん改めていこうとするリアルな過程というものは、同じような境遇に置かれている人々の良い内省材料になり得るということである。どのようにして私が精神的未熟さから抜け出していくのか、その中途の姿をこうして書き残しておくことは、いつかこのブログが大きくなった時の財産になると信じている。例えばこの記事は正に、私が精神的未熟さから抜け出そうと試行錯誤する過程で生まれた思考を描いているが、このような文章は恐らく、将来、私が精神的未熟さを脱し、成熟さを手にした折には書けなくなっている類の、幾分尖った文章になっているはずである。渦中にあるからこそ書ける、体当たり的な文章。こうした文章も、いずれこのブログが大きくなった際は、同じような境遇にある人にとって、それなりに価値あるものになってくれると考えている。従って、時々はこうして、右脳でも記事を書いていく。だがそれを中心とするようなことはもうしない。

基本は有益で読みやすい記事を書く。けれども、時々はこうして、渦中にいるからこそ書ける体当たり的な文章を書き残しておく。この先何年継続すれば結果に繋がるのかは分からないが、ブログを成長させるためには、都度自分の頭を使って、反省をしながら継続していく他はない。兎に角まずは、「自分本位」を脱すること。これは何も、ブログだけに限った話ではない。人間関係も然りだ。私は一歩一歩、己の未熟さを脱していくよう、これからも努めていく。

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