Don’t leave me

空振りばかりの人生さ。力を入れれば入れるほど、挙動がぎこちなくなってしまって、そうして、何もかも、不発に終わるのだ。

――力を入れ過ぎず、リラックスすればいいんじゃないの。

その通りなのだけれどね。意図的に力を抜こうとしても、却って力が入ってしまって、いけないみたい。僕はもう、どんな風にしてここにたたずんでいればいいのか、分からない。何をしていたって、力んでしまうのだもの。ほら、まだ朝だというのに、全身がこんなに凝っている。嫌になっちゃうね。

「人生」というのは、

「死ぬまでの期間を苦心して、やり過ごそうとする試み」

であります。

さて、人生を「やり過ごす」ために、私に与えられた武器は、どうにも心許こころもとないものばかりです。

お世辞と
謙遜と
妥協と
他者迎合と
自己卑下

――以上です。つまらないものばかり、持ってきてしまいました。

けれども私は、これらの武器を上手に使っていくことによって、退屈な人生をどうにか、ここまでやり過ごすことができました。

「そんな人生は虚しい」ですって?

同感です。私だって、虚しい。そんなの、当り前のことです。

どうせ私は、下らない人間です。

頭では分かっています。私は、下ら“なくない”人間です。私の中身が空っぽだなんて、そんなこと、ないはずだと思っています。

それでもやっぱり、私は、「下らない人間」なのです。

それは、私が「下らない人間ではない」ことを示す能力に、欠けているためです。

表に出せないものは、無いのも同然です。人は私に、将来性を感じることはありません。

私に、外見に表れているもの以上の中身はありません。中身が貧弱だから、外見を整えるのです。中身が貧弱だからこそ、外見の方で遊んでみることができないのです。結果、

「見かけ」

が、私の最高点になっちゃう。失望されるのも、無理はないわけです。

人から失望されるのは、つらい。これは、慣れるものではないと思います。

「もうこれ以上、失望しないでください。」

――そんな切実な願いを叶える鍵は、実は、“己の努力”の方にあるかも知れませんよ?

自己を客観視しましょう。客観視して、それが魅力あるものと感じられるならば、恐らくもう大丈夫でしょう。問題解決まで、もう少しです。
もしそうでないならば、速やかに改善しましょう。まずはそこから始めることです。

私は、無慈悲で無機質な物理現象というものが嫌いです。でも、物理現象かれらの言っていることは概ね、正しいことだと思っています。

「その他大勢」

その中の一人に甘んじてしまうことが、怖いのです。「唯一無二」という言葉に惹かれます。それも、

「大衆」

にとっての、唯一無二。

けれども、

「唯一無二」

こだわると、どうにも人生が楽しくなくなるように思われます。だって殆どの人は唯一無二にはなれないから。その上、唯一無二の道に、終わりはないから。

唯一無二を掴もうとする行為は、

綺麗な虹が消えてしまわないように、ジタバタ暴れてみせる行為

のような、無駄で、無謀で、儚いものです。

何かの拍子に水滴を手にした人間は、

スポットライトを浴びて、全身をきらきらと輝かせます。

そこまではいいのでしょうが、

身にまとった水滴の刻一刻と消滅してゆく諸行無常に耐えられず、

思わず、その「無常」に抗えば抗ってしまうほど、

水滴の消滅は早いものです。もう、スポットライトはあなたを照らしません。照らしたとしても、あなたはきらきら輝かない。そこには明度だけの上がった憐れなあなたの姿が、まざまざと映し出されるだけ。そんなあなたに、大衆は興味を示さないでしょう。

その現実に、耐えられますか。

耐えられません。

しかし、

「唯一無二」への憧れを棄て去って、「その他大勢」の中の一人になるのを決めてしまうことの方が、よっぽど怖いのでしょう。

どんなに苦しくても、

「唯一無二」

の毒に溺れながら生きることの方が、その人にとっては、安心することなのです。

なぜか。

「その他大勢」の中に居ながら輝く方法

というものを、知らないからだと思います。

「オンリーワン」

という言葉の意味を、実感をもって知っていないからだと思います。

「あなたが一番大切だよ。」

――そう言ってくれる人が一人あれば、あなたからは

「唯一無二」

を望む呪いの毒が解けて、代わりに、

「オンリーワン」

であることの安らぎが、実感をもって、了解されることになるでしょう。

自身のポケットの中には、

「人生を変えてくれる特別な何か」

や、

「人生を逆転に導いてくれる特別な何か」

そして、

「これさえあれば、万事の解決を促してくれる特別な何か」

が、ちゃんと入っているものとして、これまで、生きてきました。

さて、そろそろ、その「特別な何か」を使おうと、ポケットの中に手を入れてみました。それはどういうわけか、とても勇気の要る行為でした。

ガサゴソと音を立てて、ポケットの内側を這う指先。

ポケットに手を突っ込んでから、数日。

遂に何にも触れることのないまま、ポケットの底へと辿り着いてしまいました。

単なる「布地」に触れるだけに終わってしまった、哀れな指先。

その冷ややかな布地の感触は、指先の神経を通じて脳へ達するや否や、

「焦燥感」

となって、指先の血流を止めてしまいました。

全身の血の気の引いた、ポケットの持ち主。

辛辣に換言しますと、

全身の血の気の引き、

ポケット以外の何をも持ち合わせていないことを初めて知った、ポケットの持ち主。

そう。

「希望が入っているはずのポケット」の実際は、「パンドラの箱」だったのでした。探らない方が、幸せでいられたかも知れません。だからこそ、

「ポケットに手を入れる行為」

が、どういうわけか

「勇気の要る行為」

に感じられたわけです。無意識では、ポケットに何も入っていないことを、知っていたのかも知れませんね。

もしくは、

「ポケットには何も入っていない」

という現実から目を背けるために、これまで、ポケットの中身を敢えて、探らなかったのかも知れませんね。

「あるはずのものが、何も入っていなかった。」

その事実を知るのは、とてもつらいことです。

でも、ご安心ください。

一旦冷静になって、血の気が戻るのを待ちましょう。

そうして、感覚を取り戻した指先で、もう一度、ポケットを探ってみてください。

そこには、
僅かで、
微かで、
よほど注意していなければ、その存在に気付かないけれど、

「確かな希望」

を感じさせる何かに、触れられるはずです。

「人は絶望を経験することで、強くなるものだ」

たまには振り返ってもいい。けれども、基本的に、前を向いていることが大切です。

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