幼少期、自身の養育者から「無条件の愛情」を与えられることは、楽しく充実した人生を送る上で、非常に重要なことなのでしょう。生まれてから現在に至るまでに、「無条件の愛情」の温かい抱擁を経験することができた人は、(その後にトラウマ的体験を積み重ねない限り、)強く、真っ直ぐで、愛情豊かに成長することができるのでしょう。その逞しさ、純粋さ、愛情深さが、人生に対する前向きさを生み、また周囲の人々を惹きつけることによって、ますますその人の人生は、色彩を帯びてきます。
「自分は生きていていいのだ」という感覚を持てることは、養育者より与えられた最大の宝物であり、満足感を以てこの世を生き抜くに当たり、“必要不可欠”とさえ言える基本的な安心感ではないだろうかと、私は考えています。
こんなことを申し上げてしまうと、「100%人生に満足して生きている人間なんていない。誰だって不安や悲しみ、不満を抱えながら精一杯生きているのだ」という反論が聞こえてきそうです。
「誰にだって、その人なりの苦しみはある」
――そんなことは、重々承知しています。しかし私が今回お話したいのは、そうした「個々のストレス因子」に関する事柄ではありません。
私がこれから言及するのは、冒頭に述べた「無条件の愛情」を経験することなく大人になってしまった人々の抱える、生きることに対する根源的な問いについてです。
人生において、自身が一度だけでも「唯一無二の存在」となり、これといった意味も理由もなく大切にされるという経験をすることは、満足感ある人生を送っていく上で非常に大事なことだと感じます。
人は、過去に「無条件に愛される経験」をし、大切な他者(主に養育者)から、とりわけ理由もなく「あなたは生きていてもいいよ」とする承認を得、そうして自身、「ああ、自分はワケもなくこの世に存在していていいのだ」と確信する経過を経ているからこそ、無闇な「自己否定」や「哲学」をしないでも、特に問題なく生きていけるのでしょう。
そう、恐らく自分以外の“重要な他者”から「無条件の愛情」を受け取ることは、すなわち
「あなたは理由もなく生きていてもいい」
という承認を貰うことなのでしょう。そしてその承認故、それを受け取った側も
「そうか、自分は何の疑いもなく生きていてもいいのか」
と確信を持てる。
「自分は生きていていいのだ」とする確信が心に絶対的な後ろ盾として存在している人は、ちょっとやそっとのことでは崩れない。物事を過剰にネガティブに考える必要もなければ、人付き合いにおいて、過度に卑屈になることもない。
一方、世の中には「あなたは理由なく生きていてもいい」とするサインを受け取れないまま、大人になってしまった人も沢山いる。そういった人は、常に自身の存在意義・価値について、脳内にクエスチョンマークが付いているのだと思います。例えば、
「自分は果たして生きていていいのだろうか?」
「自分がこの世に存在することは誰かの迷惑になっているのではないだろうか?」
といった信念が、心底に根付いているということです。
「私は生きていていいのだ」とする確信が自分で持てていないまま生きることは、あまりに苦しい。だから人は、他者からの承認を求め続けるのでしょう。他者が、「あなたの存在は価値がある」と承認してくれさえすれば、その瞬間だけは自身、胸を張って生きていられる。
裏を返せば、常に他者から何らかの形で承認されていないと、自身がこうして、この世に留まっていていいものか、不安になってしまう。
ただ、愛情飢餓を抱える人が望んでいるのは、「他者からの一時的な承認」などではないはずです。本当に欲しいのは、幼少期に与えられなかった「無条件の愛情」。その人にとって重要な他者からの「無条件の愛情」を、渇望しているはずなのです。
結局、愛情飢餓者の抱えるあらゆる苦悩の源流は、この「無条件の愛情」に対する希求が、絡んでいるのでしょう。生きるためにどうしても必要なものであるのに、どんなに求めても、大人となってしまった今となっては、決して手に入れられない。そうした冷酷たる現実を目の当たりにしたとき生じる心の葛藤が、人生に対する虚無感を生み出しているということなのでしょう。
・自分を過度に押し殺し、他者迎合してしまう
・人を純粋に愛せない
・ネガティブ思考
・理由なき虚しさ
・理由なき罪悪感
これらの原因は大抵、「無条件の愛情」への希求に帰着できるはずです。全ての生きづらさの根源には、「愛情を求めても得られないことに対する欲求不満」が隠れている。
まずはそのことに気が付くことで、愛情飢餓由来の苦悩というものが多少、気休め程度には、和らいでくるかも知れません。原因不明の苦悩の正体を暴き出す作業は、人によっては回復に向けた大きな一歩となります。
問題は、その次です。大人になってしまった今、誰かから「無条件の愛情」を得ることは非常に難しい。結局のところ、他者から与えられるのが「無条件の愛情」でなくても満足できるような精神をつくり上げることが、次のステップでは必要になってくるのかも知れません。
・上記によって成功体験を積み、自分に自信を持つこと。
・並行して、認知(物事の受け止め方)を矯正すること。
・認知の矯正によって、人から与えられる愛情を純粋に受け取れるだけの心の余裕を持つこと。
具体的にはこんなところでしょうか。まずは「人に何かを与えられるような人間になること」。次に「人からの愛や好意を無闇に疑うことなく純粋に受け取れる精神を持てるようになること」。
そうすることで、自身(甲)の人間的魅力がその人にとって大切な他者(乙)の心に刺さった際、甲は乙にとっての「唯一無二の存在」になれる。そして唯一無二の存在となった者同士が、お互いに愛情を受け取り、それと同時にお互いに与え合う。そのやり取りが「無条件の愛情」に準ずるものとして機能していると感じさえすれば、愛情飢餓に由来する心の憂鬱は、晴れてくるのではないでしょうか。
果たして、そうなるまで精神が持ち堪えられるかどうかは自信がない。けれども自分でそう思ったなら、実践するのみですね。
まぁこの仮説は間違っているかも知れませんから、それが分かった際には、再度訂正することにしましょう。ただこの仮説、結構いい線いっているとは、思うのですけれどもね。
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