人と仲良くなれない原因

「どういうわけか人との仲が深まらない」

「人との仲が深まりにくい」

と感じ、それなりの問題意識を持っている方に向けて、

今回は私の考える「人との仲が深まりにくい人の特徴とその原因」について記述していきます。

周囲の人達は決して悪い人達ではなく、むしろ良い人ばかりだ。にも関わらず、周囲との距離が一向に縮まらない。なかなか打ち解けられない。話していてどこか窮屈である。表面上仲良くすることはできるけれど、それ以上の関係には踏み込めないし、さして踏み込みたいとも思えない。けれども、コミュニティ内ではどことなく疎外感を覚える。周囲の団結・協調振りを見ると、自分はどこか異質で、浮いていて、そして孤独だと感じる。

――そうした感覚はどこから来るのか。そのもととなっている問題は何なのか。
この記事では、そうした疑問に切り込んでいきます。

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警戒心と自信のなさ

取り分け、上述したような感覚を伴った上で「人と仲が深まりにくい」と感じているのであれば、それはその人の「人間に対する警戒心の強さ」が原因になっていると、私は考えています。

人と仲良くすることは、すなわち、
相手となる人物と適度な距離感を保ちつつ、心からの交流をすること
だと考えますが、先に挙げた「人間に対する警戒心の強さ」は、上記の「適度な距離感」、「心からの交流」を持つという二点において、大きな障壁となります。

例えば「警戒心の強さ」ゆえに「適度な距離感」を取れず(=相手との距離が遠すぎて)「心からの交流」ができないでいると、いつまで経っても相手と“表面上の会話のみ”でしか交流を持つことができません。

人間とは、相手の人柄・性格・人格を認め合うことによって、その仲を深めていきます。そうしたフェーズに到達することなく、常に「天気の話」ばかりしていたのでは、一向に仲が深まることはないはずです。

更に「人間に対する警戒心の強さ」は、「自分に対する自信のなさ」と密接にリンクします。そのため、「人と仲が深まらない人の原因」を考える際は、その人の「人間に対する警戒心の強さ」だけでなく、その裏に潜む、その人の「自分に対する自信のなさ」にも目を向けることが大切です。

1.「好かれなければいけない」とする強迫観念

自分に自信がない人は、そうでない人の持っている
特に理由はないけれど、自分は生きていていい
という、生きる上で最も大切な「自己肯定感」がありません。常に
自分はこの世に存在していていいのか分からない
といった、漠然とした不安感を抱いています。そうした「漠然とした不安感」を消し去るために必要になるのが「他者からの承認」です。

自分に自信のない人は、自分で自分の存在価値を評価することができないので、「他者からの承認」によってそれを得ることが、何より重要です。

そうした背景によって生まれるのが、対人関係の際に表れる「相手から好かれなければいけない」という感覚です。換言すれば「相手から嫌われてはいけない」という感覚。
「相手から嫌われ」てしまうことは、その人にとって「自身の存在価値を失うこと」に匹敵しますから、対人関係は「安らげる交流」ではなくもはや「“生きるか死ぬか”を決する大一番」になってしまいます。

「相手から嫌われ」ないため、自分の本当の感情を押し殺し、必死の他者迎合を続けてしまいます。これでは「心からの交流」などできませんし、仲も深まっていきません。

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2. 対人関係の軸が「評価」になっている

先に述べたように、自分に自信のない人は「相手からの評価」によって、自分の存在価値の有無を判断しようとします。そのため、自分という存在が相手から「認められているか、否か」は非常に大事になってきます。

結果、「眼前の相手から認められているか?」を過度に意識しますので、人付き合いでは常に、自分が相手から値踏みされているような感覚を抱きます。これでは相手の顔色が過剰に意識されてしまいますし、値踏みされているように感じている側は防衛的になってしまいます。「適度な距離感」など、生まれようがありません。

そもそも、対人関係(取り分け、仲を深めるためのそれ)の真骨頂は「評価」ではなく「相互的な心の交流」です。その前提を誤り、「相手から認められるか」を過剰に気にしながら人と心からの交流を行うことは、非常に難しいです。

人は、「自分は無条件で存在価値がある」という感覚があるからこそ、適切に自己開示ができ、自分の気持ちを表明することができます。そして他者の気持ちも同様に尊重することができますから、そこから「心の交流」が生まれ、なお一層、仲を深めることができるのです。

3. 自己を抑圧し過ぎていて自分の感情が分からない

自分に自信がなく警戒心の強い人は、「自分は人から傷付けられはしないか」という思いが強いです。そのため、自己開示を極端に避けたり、自分の気持ちを抑圧し過ぎたりしてしまう傾向にあります。
「人から傷付けられること」を過剰に恐れ、自分の気持ちを無視し、その場の雰囲気や、眼前の相手に合わせた言動ばかり取っていると、次第に自分の本当の感情が分からなくなってきます。

先に、「人との仲を深める」とは「心からの交流を持つこと」だと述べましたが、自分の感情が分からない中で他者と「心からの交流を持つこと」は難しいです。「自分はこう思った」、「自分はこんなことを大切にしている」、「自分はそれに対しこんな気持ちを抱いた」といったやり取りがままならないので、どうしても会話が表面上なものに終始しがちになってしまいます。

4. 両者間の生きる上での共通意識に乏しい

そもそも、「自分は理由なく生きていていい」という感覚を持っている人とそうでない人の、言わば「生きる上での前提や意識」は全く異なります。

例えば、自己肯定感が“並~高い”人は、当たり前のように自分自身を大切にして生きていこうとする一方で、自分に自信のない人は「自罰的」に生きる傾向にあります。

意識の根底に「自分は生きていていい存在でない」という信念があるため「自罰的」な言動を取りがちになってしまうのですが、この感覚は、そのような意識を持たない人にとっては幾分、理解しがたいものでしょう。「なぜ、一番大切であるはずの自分をわざわざ損なうような行動を取るのか」という疑問の背景には、このような“意識の違い”が潜んでいるものです。

こうした「自分に自信がある人/そうでない人」間の共通意識の乏しさは、なにも「自罰的かそうでないか」に限りません。先に挙げた「コミュニケーションは心の交流を楽しむもの/評価されるもの」というのもそうですし、他にも「褒められたとき嬉しい/申し訳なくなる」、「物事を前向きに捉える/後ろ向きに捉える」、「会話はお互いの内面を知るためのもの/その場を減点なしにやり過ごすもの」、「人は基本信頼できる/滅多に信頼してはいけない」、「相手が話し掛けたのは好意ゆえ/気を使われているだけ」、「基本的に人は自分を好いている/嫌っているor値踏みしている」、「人は自分を助けてくれる存在/見捨てる存在」、「積極的な自己開示はするものだ/そんなものしてはいけない」等も「生きる上での前提や意識の違い」として挙げられるでしょう。

上記のような「生きる上でのその人の前提・意識」が両者の間で大きくズレていると、何となくコミュニケーションを取っていても、違和感を覚えたり、チグハグになったりしてしまいます。
「共通意識の乏しさ」ゆえの共鳴の少なさは、「心からの交流」を難しくします。

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5. 人間に対する敵意がある

人から見捨てられた、裏切られた、搾取された等の過去のトラウマや、自身の抱える悩みを理解されないといった経験の積み重なりにより、自分とは異なる他者に対する敵意が潜んでいる場合、もちろん人との仲は深まりづらくなります。

取り分け、自分に対する自信を持てない人の中には、過去、自分に対する自信を失わせた対象や、自信のなさに起因する種々の悩みを理解してくれない人々に向けた敵意を持っていたり、その敵意の対象がその周囲の人々にまで拡大してしまったりしている場合があります。その際は、やはり表面上ではそうした対象と「良好な対人関係」を築けているようでも、心から通じているわけではないので、やはり距離は縮まらず、仲を深めることはできません。

6. 人に興味を持てない

警戒心が強く、自分を守ることを第一に考えてしまっている人は、「自己防衛」が最優先になってしまうあまり、相手にまで意識を向けることが難しくなります。

相手の中身を知り、相手の人となりを知り、以て良好なコミュニケーションを取ろうとする意識よりも、「自分が傷付かないこと」、「自分が相手から認められること」、「自分が減点されないこと」が優先されるため、相手に対する興味を抱くための十分な心的余裕が生まれず、それが結果として「人への興味の乏しさ」、延いては「コミュニケーション能力の乏しさ」に発展してしまいます。

人との仲を深めることは、心からの交流を行うこと、すなわち、自分を相手に知ってもらうだけでなく、自分の方から相手を知ろうとすることも大切です。

「人に興味を持てない」ないし「人に興味を持つだけの心の余裕がない」ことにより、人との仲がなかなか深まらない、人との仲を深めるきっかけを掴めないという問題を持っている人も少なくないと思っています。

おわりに

以上、「人と仲が深まらない人の特徴とその原因」について記述してきました。

私自身、色々な人と話をする機会を得る中で、「私は基本的に人との会話は苦手だが、なぜかこの人とは話が合う」という経験を何度かしてきていましたが、「そんな話下手の私と話が合うような人には共通する特徴があった」という発見をもとに、「実は人との仲が深まらないことにはこのような原因があるのではないか」と考察されたものを、本記事にて書いてみました。

オランダの哲学者であるスピノザは、著書『エチカ』の中で、このように言ったといいます。

「苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる」
(『エチカ』第五部「知性の能力あるいは人間の自由について」定理三」)

果たして「苦悩の言語化」がその苦悩を全く消失させてくれるものか、それには甚だ疑問が残りますが、少なくとも「苦悩の言語化」はその苦悩に対する輪郭を持たせてくれるという点で、有用なものだと思っています。
この記事が同じような苦悩を持つ方の、現状打開に向けた何らかのきっかけになれば良いと思っています。

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5件のコメント

  1. 素晴らしいお話だと思います
    値踏みされるというのは特に感じます 子どもの頃友人(私は男性で同性の友人です)ができた場合、親しさにおいて下位に位置づけられることを恐れていました いつの間にか別の人のもとに行ってしまうという経験を何度もしたからです
    これが対異性に対してはもっと顕著で、ただしイケメンに限るなどというつもりはありませんが、イケメンやかっこいい子にはニコニコ、私は無視という女子を相当数見てきましたので(私の容姿が劣るということもさることながら、話もしなかったので親しくなかったということもあると思います ただ、最初はイケメンとも話したことはなかったわけで、女子が親しくなりたいという気持ちをもっていたからこそであり、鶏が先か卵が先かの話だと思います)、多くは私と似たような経験を持ちながら大人になるにつれ女子もかっこよさが全てでなくなり、異性と交流できると思うのですが、小学校高学年くらいで固まった思考は女子を避けるように生きていくことでより固定化し(それこそイケメンなら放っておいてはくれなかったかもしれませんが)、値踏みも容姿とかだけでなく、その年齢にふさわしい経験(俗にいう女慣れというやつです)にも及ぶ感じがして、いつも間にか(全く無意識だったわけではありませんが)年齢を重ねてしまいました
    私には他人への安心感がないんだと思います 拒絶される恐怖です その恐怖を味わうくらいなら関わらない方がいいと
    残念ながらやり直すには難しい年齢になってしまいました(今が一番若いという話は分かるのですが) 今はある程度客観的に自己分析を行いたいなと 今後には役に立たないのですが、こちらで書かれていた話はとても当てはまると思いました

    1. コメントありがとうございます。
      小さい頃の辛い体験(良い体験もだが)は、後の人格形成にかなりの影響を及ぼしますよね。拒絶された側の人間は仰る通り「他人への安心感」を感じられず、思考様式や対人認知、対人関係といった面で困難を抱えやすいです。

      私も、特に親や異性から拒絶される経験を何度もしていますので、人格やら思考やら行動やらが歪んでおり、大変生きづらさを感じています。拒絶される恐怖を味わうくらいなら関わらない方がマシという気持ち、よく分かるつもりです。私は人としての魅力が全く無く、関わっても他者にとっては何のメリットにもならない。いや寧ろデメリットかも知れない。どうせ拒絶されるのだ。それなら、対人接触を極力避けて、孤独という、痛みを伴いながらも束の間の安寧を感じられる殻の中でじっと自閉していたい――そんな信念が内面を支配しています。「自分から心を開かなきゃ相手と仲良くなれない」というような説教を耳にすることもありますが、いやそれは事実であるかも知れないが、「そっちから拒絶しておいて、こちらから心なんか開けるか!」と言いたくなります。

      自己分析されるのは良いことだと思っています。幼少期、ないし学生時代に負った傷は成人してもそう簡単に癒えるものではなく、人生におけるあらゆる面に悪影響を与えるという知識を持つことは大事です。その上で、あまりご自分を責めすぎないことが大事です。仕方がないのです。小さい頃の拒絶体験は自らコントロールできるものでなく、尚且つ、その体験によって負った傷も自ら簡単に癒やせるものではないのです。ですから、たとえそのことが原因となって現実生活に悪影響が及んでいてたとしても、その全て、何でもかんでもを「自己責任」にすることはないのです。外野の心ない説教は無視です。致し方ない部分が必ずあるのです。そのことを理解した上で、「それでも、この人生を何とかしたい」と思われたのであれば、決して自分を責め過ぎず、寧ろ絶えず思い遣りの情を持ちながら、どんな改善策があるのか、はたまたどんな試みが有効なのかを探って、少しずつ自らの人生を好転させていき、過去の影響を徐々に減じていくことが大切なのだろうと思っています。

    1. お返事が遅くなってしまいました。
      「生まれてから小学生頃」を想定して「幼少期」と書いておりますが、これは厳密に定められたものではないことも同時にお断りしておきます。

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