「自分の血を残したい」という感覚が、私にはよく分からなかった。
自分の遺伝子を後世に残すことが何故、それほど望ましいことなのか。以前私はこの疑問を、両親にぶつけたことがあった。
「それは人間の本能だから」
「そんなの考えたことない」
――返ってきたのは淡泊な回答だけであった。
以降私は、「自分の血を残したい」とする感覚、ないしそれを表現する言葉を、
「“本能的な性衝動”を“換言”という名のオブラートに包み、いくぶん美化したもの」
として、理解することにした。
しかし一方で私は、「自分の血を残したい」というその感覚に、もっと綺麗で透き通った理由づけをしたいとも思っていた。
「本能」などという野暮ったい陳腐な言葉でなく、もっと洗練された言葉による説明――それを欲していた。
そんな私の願望を、大学時代からの友人Tが叶えてくれた。先日のことである。
Tと私はいつものように、「自己肯定感/否定感」に関する論議を交わしていた。時間の経過に伴い、議論が様々な方向に発展していく。そこでふと、「血」の話題になった。私はここぞとばかりに聞いてみた。果たしてTは、自分の血を残したいと思うか、どうか?
「そりゃ残したいと思うよ」
「それはどうしてなの。その感覚、自分の中ではずっと疑問のままで」
「だって俺の家系、良い人達ばかりなんだよ。温厚で、グレてなくて、家族思いで、頭もまあ、悪くはなくて。こんな素晴らしい家系の血、残したいと思うに決まっているよ」
穏やかな口調ながら、力強く語られた彼の“血への思い”に、私は胸を打たれた。その台詞を聞いた私は、Tの、自身の血に対する愛を確かに感じた。
“好きだから”こそ残したい。“愛しているから”こそ、後世にも伝えたくなる。
――「自分の血を残したい」とするその感覚に、それ以上の理由づけが必要だろうか。いや、必要ない。
私は会話を続行した。
「Tのその発言から、“自分の血に対する確かな愛情”を感じたよ。その愛情が、“自分の血を残したい”という感覚と、繋がっているのだろうね」
「うーん、そうかも知れないね」
こうして私は、「自分の血を残したい」とするその感覚を、「本能」という単語を用いずに説明することができるようになった。私はそのことを、非常に嬉しく思った。
皆さんは、自分の血を愛することができていますか?
こんばんは。またコメントを失礼します。
「子孫を残すことが生物の本能だから」と言われてもいまいちピンときませんが、「愛する自分の血を残したい」ならまだ少し分かりますね。
子を残したいかは、受け継いだ自分の血を愛せるかというのは確かにあるかもしれません。
毒親育ちの人(特に女性)は、「自分にも毒親の遺伝子が流れているかもしれないから、絶対に子どもは産まない」という人も多いです。確かに虐待は連鎖するというデータもあるので、一理あるかもしれません。
逆に毒親育ちで自己肯定感も低い女性が、「私は自分の血は残したくないが、夫はとても優れた人間なので、夫の血を残したい」と言っているのも見たことがあります。
私は自分の血は愛せないですねー(^-^;
家系は素晴らしい人もいればとんでもない人間もいたのでマチマチですが、その集大成が私かと思うと、とてもじゃないけど…。配偶者がよっぽど素晴らしければ、そちらの血に賭けてみるのも手ですが。いやぁ、でもやっぱり子どもを出生ギャンブルには巻き込めないかな。(感動的な記事に美しくないコメントをすみません)
こんばんは。再びのコメント、ありがとうございます。
「優秀なパートナーのDNAを残すため」という動機もあるのですね。新たな知見でした。なかなか面白い回答です。
「自分への愛情」のみならず、「相手への愛情」もまた、DNA伝達の動機になり得るというところがとても美しいです。
「毒親の血が流れているから子孫は残さない」と言っている人、私の周囲にもいます。正確には、
「愛された経験がないから人の愛し方が分からない。結果、子の愛し方も不適切なものとなり、ACなり愛着障害なりが連鎖する」
ということですから、都度、「自分次第で連鎖は止められる!」と前向きな返答をします。しかし、そう簡単に人の信念は変えられませんね。結局、「でもやっぱりつくらない」というところに帰着してしまいます。
愛せないですよね-。自分への自信が付かないうちはなかなか難しいものだと思います。
ただ、血そのものとは異なり、自身の“血への愛”については可塑性があり後天的に変化し得るものですから、今は愛せずとも、未来には愛せる日が訪れているかも知れません。自分の血は「必ず愛さなければいけないもの」でもないので、無理に肩肘張る必要もないとは思いますが、血に対して良い印象を持っているに越したことはありません。いずれ愛せるようになると良いですよね!
血を愛するのも本能なのでは?
うーんどうなんでしょうね?