ブログの更新が9ヵ月も滞ってしまった。
仕事が忙しかったわけではない。私は要領が悪く、浅薄で、精神が未熟であり、特定の認知機能が極めて低い人間である。これらの要素が複合的に合わさると、ブログを定期的に投稿することが難しくなるというわけである。
記事を一つ投稿するためには、それなりの労力を要する。まず、数千字に及ぶ分量を認められるだけの内容ある人生を、普段から送っていなければならない。人間として浅く、内容のない人生を送っている私にはなかなか記事にできるようなネタがないのである。また、仮にネタがあったとしても、それを読み応えのある記事に昇華させるには構成や表現を含む一定の知的編集力が求められる。が、私にはその能がない。結果として、記事の投稿が遅々として進まないのである。
世の中には、私より優秀なブロガーが沢山存在している。私が一つの記事を更新する間に数十もの記事を量産し、その内容も私のものより遥かに有益である。私は一応、心理師(心理士)を目指して通信制大学から心理系大学院に進み、今では精神科病院の心理職として働いているわけだが、同じ経歴のブロガーは既に存在している。その上、その人は私より遥かに多くの経験や力量があり、読者に役立つ価値ある記事を多数生み出している。私もその人の書く記事から様々な情報を頂戴した一人であるが、私の実力では、その人よりも価値ある記事を書くことは到底できないと思っている。
では、このブログの存在意義は何だろうか?
それは、読者に「下限」を示すことにあると考えている。
件のブロガーは、とても優秀である。記事の内容からは知的能力の高さが伺われ、目標意識が高く計画性に優れ、情報収集力やコミュニケーション能力にも長け、凄まじい行動力を有し、自身の経験を通じて得られた情報を分かりやすく読者に伝える力を持っている。実績も活動量もブログとしての有益さも私とは段違いの存在である。
一方、私は決して優秀とは言えない。頭と要領が悪い上、著しくコミュニケーション能力が低いため、これまで積み重ねてきた行動量も実績も非常に制限されている。精神的にも幼く、人として極めて浅く中身に乏しい。自身の目標も願望も欲求もいま一つはっきりせずおぼろげであり、それに伴い一つひとつの計画も行動もぼんやりとしていて一貫性がない。自身の経験を通じて得られた情報を言語化し、他者に伝達する力も極度に不足している。
両者はその社会的有能さの点で両極端である。片方は心理師(心理士)としての上澄み、もう片方は下積みと言ってよろしい。
上澄みの提供する質の高い情報は、心理師を志す人々の大いなる参考になるだろう。心理師としての理想像がそこにあるためだ。いわば90-100点の回答を目指す人の情報がそこにあると言っていい。
しかし中には私のように、その水準の高さに着いていけない人もいるはずである。そこで、このブログの存在意義が立ち現れてくる。このブログの執筆者である私は、上澄み心理師(心理士)の足元にも及ばぬ低能である。低能ではあるのだが、それでも心理系大学院を修了し、公認心理師資格と臨床心理士資格のいずれも取得し、現在、精神科病院で正規の心理職として働いている。この事実こそ、私と同様の水準にある人々への希望となるのではないかと考えているのである。すなわち、上澄みでなくても、100点を取れなくても、有能でなくても、頑張り次第で心理職として、誰かの役に立つことはできるという事実を証明し、以って(自分は優秀でないから心理職として活躍できないのだと)自信を失いかけている人々に、一筋の希望の光を灯すことができるのではないかと考えているわけである。
私のブログには、心理師(心理士)としての理想が詰まっているわけではない。合理性に基づき緻密に構築された道もなければ、優秀な人の思考回路が反映されているわけでもない。一見愚かでダメそうな人間が、スレスレのところで踏み留まり、どうにかこうにか心理職として生計を立てるまでの過程が示されているだけである。
ただ、そうした「下限」にも一定の有益さがあると考える。絶望しそうになった時、「こんな奴が何とかやれているのだから、自分にもできるはずだ」と己を奮起させるための材料を供給できる点での有益さがここにはある。優秀な人々の放つ圧倒的なオーラに心の旋律が乱れたら、このブログで「下限」を知り、ざわめく旋律を柔らかな調べに溶かすことができる――そのような意義がこのブログにあると信じて、これからポツリぽつりと記事を投稿していきたいと考えている。(が、この宣言は過去何度も打ち破られてきた。今年こそ大学院入試~就職後、そしてプライベートに至るまでの種々の情報を提供できればと考えている。)
おまけ
私はまごうことなき無能な人間であるが、日々生活を送る中で自身の存在意義について悩まされることが非常に多い。特に、大学や大学院、職場といった「相当頭を使う環境」の中で、私の何倍も優秀で要領がよく頭の回転の速い人々に囲まれた生活を送っていると、自分の存在意義が分からなくなってくるのである。すなわち、少なくとも心理職のような仕事をする上では優秀な人だけ存在していれば良く、私のような無能は必要ないのではないかという考えが何万、何億回と脳裏を過るのである。
だが今のところ、私のような無能も何かしらの意義があるという結論に一応落ち着いている。
世の中には色々な人間がいて、その中には優秀な人もいればそうでない人もいる。これは仕方のないことである。
ただ、たとえ優秀でなかったとしても、様々な形で世の中の役に立ったり、自分の能力を存分に発揮したりといったことができる社会こそ、希望のある社会であると私は思っている。「優秀でないから○○として活躍するのは無理」というのではなく、「優秀でなくても頑張りと工夫次第で○○として活躍の場はある」という可能性のある社会こそ、自己実現の可能性に満ちた希望ある社会であると私は思っている。
そこで重要になるのが、無能でありながら何か大きな目標を達成し、社会的に活躍している存在だと考えている。世の中に「無能でありながら○○ができている(可能である)」という実例が溢れていればいるほど、人々の自己実現の可能性は広がり、希望ある社会になり得ると思っている。現に私は自身の希望した職業に就くことができ、職業的に大きな満足感を覚えることができている。「私のような知的能力では心理職になることは絶対に無理」であったとしたら、今ほどの満足感を持って生きることはできなかったであろう。
私は、自身の抱えるハンディキャップを上手にカバーし、そして時に克服しながら、心理職として人々の役に立てればと考えている。その姿を示し続け、私と同様の悩み(すなわち自身が無能であり困るという悩み)を抱える人々に対し、「こいつがやれているのなら自分もやれる」という希望の光を与えられること――それが考えに考えた末に導き出された、無能な私の存在意義であると考えている。
そういうわけで、このブログでは色々な側面での「下限」をお見せすることによって、疲弊した人々に希望と安心を提供ですること、そういったことをテーマにやっていければ良いなと考えているところである。
