記事を書きたい気持ちはあるのだけれど、パソコンを目の前にして「結局何も書けない」という日々が続いている。「スランプ」という言葉が脳裏を過ぎるけれど、元々私は、スラスラと文章を書ける質ではなかった。このブログも延べ100以上もの記事を投稿してきたが、その大半は実を言うと、何時間にもわたり苦心して書き上げたものばかりだ。
世の中には、
「サラリイマンしながら毎日一記事の投稿を欠かさない」
といったような「鉄腕ブロガー」が少なからず存在する。物凄いバイタリティだなと思うし、「よくそんなにスラスラと文章を書くことができるな」と、半ば感服しながら彼ら彼女らを眺める日々である。
――さてそんな私とて、現時点において、書きたいことは少なからずある。例えば、
や、
といった話、
の解説記事。そして
等々。日常、生活をしている中で「ああ、これは記事にしたいな」と思ったことは(特にここ最近は)多くあった。
しかし、書けない。いざ書こうとすると、途端に思考がショートしたようになって、何も文字に起こすことができなくなってしまう。
原因を考えてみた
例えば、大学でレポートを書くときに、「○○という事柄について説明せよ」と問われて、なかなか思うような説明ができずに苦労した経験はないだろうか。
こういうとき、問われている「○○という事柄」について自分の中で“ちゃんと理解”していないことには、スラスラと満足のいく解答を記述することは難しい。抽象的な事柄を、ただ何となく、漠然とした知識だけで説明することはできない。自分の言葉で具体的に語れるほど“ちゃんと理解”していて初めて、「スラスラと」答案を書くことができるようになる。
私は嫌というほどそれを経験した。「○○について説明せよ」と問われて、いざ書こうとするとまるで思考がショートしたようになり、何も書けずにただ時間ばかりが経過していく、あの経験を何度もした。これは原因がはっきりしている。私がその「○○」という事柄について説明できるほどの十分な知識、具体的な言葉を持っていないからである。
――で、これと同じことがブログでも起こっているのだろうな、と。
私が「日頃考えていること」をこうして文字に起こすことができないのは、そうした「思考」の内容を自分自身“ちゃんと理解”して、深められていないからだろうと思うわけである。
抽象的な事柄を抽象的に思考して「それでよし」としているから、何も書けなくなる。例えば、
「私の心には自己否定感が渦巻いている」
という思考は、頭で思考していることであることに間違いはないがその内容は非常に抽象的なレベルに留まってしまっている。
で、その「私の心には自己否定感が渦巻いている」という抽象的な事柄に対して、
「だから自己否定感を改善させよう」
と思考することもまた、抽象的なレベルに留まってしまっている。
こうした、
「抽象的な事柄を抽象的に思考し、抽象的な結論を導く」
というやり方では、「具体的に何を目的に何について考察しているのか」とか、「じゃあ具体的に何をどうしていけばいいのか」といったところが全然見えてこない。「具体的に何なのか」を自分の言葉で語ることのできない事柄を記事にしようとしても、「スラスラ」言葉が出てこないのは当然と言えるかも知れない。私が日頃している思考は、こうした「抽象的な思考」ばかりで、具体性に乏しいという特徴がある。
もっと「具体的に」思考することが私には求められているかも知れない。一つの思考を、徹底的に掘り下げてみる試み。
「自己否定感が強いから、自己否定感を改善させよう!」で思考を止めないこと。「自己否定感」とは、具体的にどういうもの?「改善」って具体的に何をどうするの?どんな「自己否定」に対してどのような「改善」策を講じるの?その実践内容については?実践した結果はどうだったの?――等々、日々の思考を掘り下げて、抽象的な思考を具体化して、漠然とした観念を明確な言葉に換え、日々問題意識を持って生活すること。抽象的な思考を、抽象的なまま終わらせずに、徹底的に掘り下げていくこと。思考内容が具体化することによって自己理解も進み、その結果、自身の思考内容について「スラスラ文章を書く」こともできるようになるのではないか、と。
なぜ思考の「具体性」に注目したか
というのも先日、『激レアさんを連れてきた』という番組に
「16歳で東大合格(※)を果たした韓国人男性」
が出てきて、その人の合格体験談がまさに非常に「具体的」な戦略に基づくものであって、このとき改めて私は「具体性」の威力を思い知らされたからである。
※日韓共同理工系学部留学生事業を通じた受験だったため、16歳にして東大受験ができたのだと考えられます。
彼は「10ヶ月」という短期間で東大合格を果たすわけだが、東大受験を決めた瞬間から
「そのために自分は何をしなければならないのか?」
を徹底的に分析したと述べていた。
教科書を一通りさらった後に、入試問題を細かく分析。どの分野のどういった問題がよく出るのか等、入試問題の傾向を長時間掛けて洗い出した後、膨大な問題集の山々の中から「入試傾向に最も合致した問題集」を厳選し、それだけを徹底的に、何周もやり込むことで結果的に効率の良い学習を実現、そして見事合格を勝ち取ったという内容だった。彼はただ闇雲に参考書を解きまくったり、圧倒的な暗記力にものを言わせたりして合格したわけではない。上記のような「具体的な」目的意識と「具体的な」戦略に基づく勉強法により、僅か10ヶ月という短期間での合格を果たしたわけである。
――この番組を観て、そう言えば『東大思考』という本(※)にも同様のことが書いてあったな、ということを思い出すわけである。
※東大に受かるような人間は、一体どのような頭の使い方をすることによって、圧倒的な成績を叩き出しているのか。それを具体的に解説してくれる良書。
『東大思考』の筆者は、東大生の最も優れている資質は「目的意識」だと述べている。東大生は兎に角、目的が非常に「具体的な」レベルで意識できているからこそ、圧倒的な結果を出すことができる、ということらしい。
「目的?そんなの、他の人と差があるの?」と考える人もいるかもしれないのですが、東大生は「目的」の解像度が全然違うのです。
たとえばみなさんが東大に入りたいと思ったとして、まず真っ先に何をするでしょうか?勉強しますか?東大のことを調べますか?
この質問、東大生の回答はほぼ1つに絞られます。東大生のほとんどは、まず東大入試で何点取れば合格なのか、どの科目でどれくらいの点数を取れば合格できるのかという目標設定をします。
しかも、これが異常に細かい。「英語では75点取りたい。この場合、1aでは6点、1bでは8点、2aではちょっと苦しいけれど10点は取りたいよな。あと51点だから……」と、各科目の大問ごとに目標点数を設定して、「1aの要約問題で点数を取るためにはこの参考書が必要だな、よしやろう」と、目的に合わせて勉強するのです。
(中略)
頭のいい人は、日常生活のレベルから、目標の解像度が非常に高いです。「数学の成績を上げたい!」ではなく「次の数学の試験で偏差値を5、点数で言えば15点、微分・積分の分野で成績を上げたい」。「料理がうまくなりたい!」ではなく「1週間後の友達に料理を振る舞う会までに、5種類以上の料理を普通の水準でつくれるようにしたい」。
このように、具体的で次の行動に落とし込みやすい目的を設定するのです。西岡壱誠(2020)『東大思考』(東洋経済)pp.112-113
――ざっと引用してみたが、ここに書かれている「解像度の高い目標設定」と、先の『激レアさん』の「入試傾向の分析結果から参考書を徹底的に絞った」という行動は、「その内容に具体性がある」という点で共通している。
それに気が付いたとき、私は「ああ、自分の思考には具体性がないのだな」「だから具体的なことを自らの言葉で詳細に語ることができず、結果として記事を書くのに苦労しているのだな」と勘付いたわけである。そう言えば、レポートがなかなか書けない時も
「なんだか書けないなあ」
と漠然と嘆くばかりで、「なぜ書けないのか」「書くためには自分の中で何が足りていなくて、それはどのようにすれば補えるのか」等々、「具体的な」理由探しをあまりしていなかったなと。
思考に関しても同じで、
「自分の良いところを見つけていかないとなあ」
等とぼんやり考えてはいるものの、「それは具体的にどのように行うのか」「何から手を付ければ良いのか」といったところまで掘り下げることをせず、ただ思い付くままに「あんなところがある」「こんなところがある」等とフワフワ思考するだけに終始してしまっていた。私がやっているのは、
「東大に行くため、その辺で買ってきた参考書を解きまくっています!」
っていうのと、あんま変わらない。目的と、その達成に向けてやっていることが非常に抽象的。これではわざわざ記事にして語れるような内容は生まれてこない。
フワフワ思考は明確な言葉にならない。言葉にしたいのなら「具体的」な思考をしていかないと。具体的な目的意識をしっかり持って、その実現に向け具体的なアクションを起こして、具体的な分析をしていかないことには、いつまで経っても、文章を書くのに苦労することになるだろう。
……という内容について、今回は「具体的に」書いてみた。
やはり書くのにそれなりの苦労はしたものの、この通り、
見事書き切ることができました、とさ。
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