自分を虐めすぎた

子どもの頃からわたしは
ひととは違ったようにふるまい
ひととは違ったものを見て
ひととはことなる泉から汲み取った
ひととは異なるものに悲しみを感じ取り
ひととは異なるものに喜びを感じた
わたしが愛したのは
ひとりでいることだった

――Edgar Allan Poe

 

結果的に私は、自分を虐めすぎていたのだった。

 

欠陥だらけの人間

そもそも私はあまり自分を好きでなかった。それは私自身が元来、強い自己否定感を抱えていたというのも勿論あるのだけれど、私は、私という人間の持つ人間性や性格特性といったものを、一向に好きになれなかった。

私は不器用でウスノロな日陰者である。が、これらの特性ついてはまだ私もまだ我慢ができる。

けれども、極端なまでのネガティブ思考を持ち、対人関係において過度の不安や恐怖、緊張を抱えるがゆえに人とまともなコミュニケーションを取れず、そのためにあらゆる生活場面で大損を食らったり、相当な劣等感を覚えたり、社会への適合感を大きく欠いたりする特性ばかりを有していることについては、どうにも耐え難いものがあった。生きづらくて仕方がなかった。

私は、生きて様々な経験を重ねれば重ねるほど、また色々な人々と関われば関わる機会を持つほどに、“自分”という人間の抱えるどうにもし難い欠陥や幼稚さ、至らなさが自覚せられて、ますます自己嫌悪感を強くしていってしまうような人間だった。口癖のように「なぜ私は他の人と同じようにできないんだ」と嘆いていた。私という人間は、その外見こそ皆と同じように“人”としての形を成していたが、その中身はまるで普通のそれとは大きく異なっているようだった。「何かが変だ」「どうにも馴染まない」「根本的に“普通”とは違っている」という漠然とした、けれども甚だ不安感を強くする自意識が、私に孤独感を抱かせた。私は集団の中にいながら孤独を感じる人間だった。私は集団の一員として色々な人と関わりを持っているときでさえ、人知れず孤独感に苛まれる異質者だった。
 

“欠陥”の矯正

だから私は、自身のこうしたネガティブに満ち満ちた特性の一つひとつを矯正しようと努めてきた。精神分析の門をくぐり、自身の内面、その纍々たるを仔細に解剖し、「なぜ私は人とまともな交流ができないのか」「なぜ私の認知は極度にネガティブなのか」「なぜ私には罪悪感や羞恥の意識が強いのか」「なぜ極度に他者を恐れるのか」「なぜ自分自身を蔑ろに扱うのか」「なぜ皆と同じように行動できないのか」等々、私を欠陥人間たらしめている思考や行動の原因をしらみ潰しに挙げていき、それぞれに対して、「その行動は見捨てられ不安に起因するものだ」とか「幼少期に満たされなかった愛情・承認欲求に由来するものだ」とか「家庭内での歪んだコミュニケーションの様式が社会生活にまで持続したものだ」とか「養育者との情緒的絆の形成失敗に由来する自己無価値感による自信のなさのせいだ」とか「そもそも自分で自分を否定し傷付けることにどこか倒錯的な快楽を得ているからだ」等と解釈を加え、以て自らの思考、行動を「適切なもの」「普通なもの」「社会的に好ましいとされるもの」に矯正していこうと躍起になってきた。

矯正の副作用

しかし、幾らこのような「原因究明→矯正」モデルで自身の問題点を改善しようとしても、依然として私の認知は被害的で、対人関係における緊張や不安感は強いままだった。

それに、問題の原因分析を行ったところで「今となってはどうにもならないこと」を原因として生じている問題行動も多く、却って私の抱えている問題について知れば知るほど、自分という人間が「もはやどうすることもできない」としか言いようのない負の特性を数えきれぬほどに抱え込みながら、不幸に生きていく他ない“救いようなき人間”のように思われてくるようになった。

またそれに加えて、日頃から自身の「どうしようもし難い」特性について「そういう考え方をしてはいけない」とか「そうした行動を取ってはいけない」「そのような対人関係の様式は改めなければならない」等と逐一否定し続けていると、その行為が結果として自己否定と同等の意味を持ってしまい、ただでさえネガティブだった自己像が更に傷付いていき、ますます自己像の悪化に拍車が掛かってしまう、という分析による副作用が出てきてしまった

転機

そんな折、今年7月の終わりに私事においてかなりショッキングな出来事があった。人間たるもの、外界より訪れる心的ショックに耐えるには、ある程度の「肯定的な自己像」を持っていることが望ましいのだけれども、そうした「肯定的な自己像」を持たぬ私は、出来事の持つ衝撃に耐えかねた。精神状態が地に落ちるだけには留まらず、日常生活さえ大きく崩れてしまい、それに伴い身体の不調も現れるようになってしまった。文字通り「四苦八苦」している最中さなか、毎夜眠られぬベッドの中で私は「一体何をやっているのだろう」という思いを強くしていった。

ネガティブは“矯正”するものじゃなくて…

「自分の欠点を改善したい」――最初はそんな動機で、自身の悪いところや不足している点を列挙し、それを批判し矯正することに躍起になっていた。その行為こそが「普通の人間になる」ための希望だと信じて疑わなかった。

けれどもその試みは却って、私という人間の抱える欠点の印象をより強くし、以て自己像を悪化させることに繋がってしまった。こうして私は、自分という人間に対するネガティブなイメージを強くした。自身の問題点を改善、矯正するつもりが、私は知らず知らずのうちに「矯正」という名の下、自分で自分を痛めつける行為を続けてしまっていたことになる。「矯正」によって、自分で自分を虐め、傷付け、ますます自己像を悪化させてしまっていたのだ。

過去、「自分を大切にすることが大事だ」と記事の中で散々言っておきながら、当の本人は自身の欠点の洗い出しと原因分析ばかりに終始していて、自らの心の痛み、叫びには無自覚であった。これでは発信者としての意味がない。本当の意味で、自分を大事にしないといけないと思った。

――じゃあそれまでの原因分析は全くの無駄だったのか、というとそういうわけでは決してない。自身の抱える問題点やそれが生じるに至った原因について知っていることは、社会適応を向上させるため非常に重要な要素となる。

というのも、「自分を知る」ことにおいて肝要なのは、
自分の内面にある闇を自覚し、それを健全に抱え、統制下に置き、必要に応じてそれを発散する
ことにあるからだ。

私はこれまで間違っていたのかも知れない。自分の内面にネガティブな問題を見つけたら、それを正し改善させることだけが「適応」に繋がるのだと思ってきたきらいがある。

しかし実は、内面にあるネガティブは別に“社会的に好ましい形”に「矯正」しなくても、当の本人が自身の内面にある問題や葛藤、社会的に好ましくない感情のあることを自覚していて、それを心に抱えつつ、きちんとその感情が暴走しないよう統制できているのなら、それも社会的に十分「適応」しており、「普通の人間と変わらない」として良いことなのだ。

つまりネガティブとは、「矯正」するものではなく、「コントロール」するものなのだ。誰かに対する恐怖とか憎しみだったり、誰からも愛されることのなかった悲しみだったり、そういった負の感情そのものを持つことが悪いのでは決してない。それらの感情のコントロール感を失い、自分の知らず知らずのうちに、もしくは知っていてもその感情の暴走を止められず、結果として自分自身の不利益になる言動を取り続けてしまうことで初めて「問題」となるのだ。

裏を返せば、「そういうこと」にさえならなければ、別に「人に胸張って言えない負の感情や負の特性」を持っていたとしても、それは「適応」という観点からすれば大きな問題とはならないのだ。問題は、それら負の感情をきちんと統制下に置いておけるかどうかなのだ。これまでの私は、考え方に柔軟性を欠いていた。

ただ、自身の内面に潜む問題や課題、葛藤の類を自ら抱え込み、統制下に置くためには「それに耐え得るだけの心の基盤」がしっかりしていることが望ましい。なぜなら私のように「自分の嫌なところを知ること」は、ともすればただでさえ悪い自己像を更に悪化させ、ますます精神状態を悪くさせてしまうことにもなりかねない。

そこで必要になるのが「肯定的な自己像」というものだ。これこそが「自分の嫌なところを知ることに耐え得るだけの心の基盤」となる。自分の中にある希望や期待、良い一面や可能性といった肯定的な芽を見つけ、それらと自らの心が接続されるようになってはじめて、「悪い自己」「できれば目を背けていたいような自己」を知ることに耐えられ、健全に心に抱えることができるようになる。
 

――以上のことは、『公認心理師のための精神分析入門』の再読により納得せられたものである。私はもう、自分を過度に責めすぎないようにしたいと思った。今後は自分の悪いところを散々に列挙してそれらを批判、矯正しようとするのではなく、「如何にしてその悪いところを手懐けるか」に焦点を当てて生きていこうと思う。

 

この本には肝心の「肯定的な自己像の見つけ方」についても書かれているのだけれど、なかなかその内容を記事にしようとすると難しく、未だ書けずじまいである(その試みに失敗し続け、記事の間隔が大きく空いてしまった)。一般的に馴染みのないものを簡単にする、という工程については書き手自身の理解度に依存する部分も大きく、私の理解度はまだそこまで追いついていないようで、いざ記事にしようとすると、なかなか書けない。この記事の内容も、自分の思い描いているように書けずやきもきしている。

しかしそう遠くないうちに、きっとその内容について記事にしようと思っている。これからも頑張っていきたい。

3件のコメント

  1. ふくろうさんの良い所は
    どんな時でも周りの人に優しいところです
    どんな時でも諦めない強靭な精神力を持っている所です
    社会人としてお金をコツコツ貯められたところです
    会社でも利用者の方の立場に立って考え行動出来ていたところです
    沢山本を読み、教養を得ているので、言語能力に長けていると思います。
    自己分析し、欠点を見つけても、前向きに改善する道を探そうとしていた所です
    心理学を極めたいという自分の中の軸がある所です

    自分の欠点の数と同じだけ自分の良いところを探してみるのはどうでしょうか?
    心理学をかなり勉強されていて無知な自分が言えた口ではないかもしれないですが、前向きな言葉は前向きな気持ちと自己肯定感を育むと思います。

    同じ状況で、大学を途中で逃げ出した僕にとって最後まで逃げなかったふくろうさんはヒーローなので、そんなふくろうさんを今でも応援しています!

    1. ありがとうございます。コメントを読んで改めて、すばるさんはとても良い人なんだなと思いました。

      「欠点の数と同じだけの良いところを探す。」――まさにそれに近いことが本に書かれてありました。欠点の裏側に隠れてしまっている自身の良い部分に気付いて、それと自身をコネクトするという技法です。アドバイスありがとうございます。
      私の方もすばるさんを応援しています。お互い、目標を達成できると良いですね!

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