君知るや

君知るや
不可視の絶望
孤独と抱える その苦しみを

 
――先月末に、私としてはかなりショッキングな出来事があって、

それをきっかけにおおよそ二週間、精神的に苦しい日々を送っていた。

その間、このブログに書きしたためたい感情が沢山あったから、何度もパソコンを開いてはキーボードを叩いてみたのだけれど、

何をどのように書いたら読者の方々に伝えられるのかが全然分からなくて、結局、何も書くことができなかった。

どうも私は夜になると精神的にナーバスになってしまう傾向があるようなのだけれど、

行き場のない感情をひとり抱えながら夜ベッドに潜っていると、そのやりきれなさに触発されたのか、

未だ解決の日を見ることのない、自身の心理的課題の数々が大挙して押し寄せてきて、

それらをどうにも封じ込めることができず一方的に圧倒されてしまって、

結果輾転てんてんとして、なかなか眠られぬ日々が続いてしまっていた。やはり精神的に弱ってしまうと、自制が効かなくなってだめだな。否定的な自己像が圧倒的優位になると、未来にちっとも希望を感じられなくなってしまって――そのせいなのだろうか、無性に過去に縋りつきたくなってしまう。

眠られぬ真夜中に、昔、家族に連れて行ってもらったディズニーランド10周年のパレード動画をYouTubeで視聴しながら、「あの頃に返りたい」などとセンチメンタルになりながら己を保つのがやっとという日も少なくなくて。まさに過去に縋って生きるしかないという図。めちゃくちゃに弱っていた。おまけにあの頃に戻れたところで、何ら変わらないのにね。

 
――脆いんだよな。

普通であればなんなく乗り越えたり、耐えられたりする些事、その一つひとつにことごとく足を取られてしまって、都度、歩みが止まってしまう。

私はもとより不器用で要領が悪くて、人の何倍も努力しなければ人並みになれない人間だから、できることならメンタルだけは強くありたいところなんだけど、

日常的に転がっている僅かな障壁に足止めを食らってしまって、周りとの差を埋めていきたいところが、逆に広げられることになってしまう。

生きていれば嫌なことがあるというのは、当然のことなんだけどな。

私の場合、ほんの僅かな傷が命取りになってしまう。だから傷付くのを過剰に恐れて、日常の様々な場面から逃げるようになって…そんな感じで逃避を続けることで、自身の可能性がどんどん縮小していってしまう。

 
「肯定的な自己像」に乏しいんだよな。自分という存在に対する肯定的なイメージを持っていないと、困難多き世の中を生き抜くには相当苦しくなってしまう。

自分に対する肯定的イメージは、自らが日常の中で受けた傷を癒し、再び立ち上がり、歩み出すためのエネルギーを与えてくれる。「自分にはこんな良い面がある」とか、「自分にはこんな可能性がある」「自分にはこういった希望がある」などといった「肯定的な自己像」が、前向きに生きるためのエネルギーを与えてくれる。人はこうした「肯定的な自己像」を持つからこそ、困難に耐え、葛藤を乗り越え、自らの人生をより良くしようと前へ前へと進むことができる。

そうした「肯定的な自己像」の究極的な形が、その幼き日に、自身の養育者から与えられる「無条件の存在肯定」だろう。養育者と情緒的な絆を結び、以て、自分という存在に無条件に価値を感じ、自分という人間が、愛されるに値するものと心底より確信する信念が底流にある人は、強い。

今の私には「これ」といった肯定的な自己像がない。はっきり言って、生きている価値をほとんど感じられない。私の生きる価値、その実感を支えてくれるような自己像が全然ないのだから当然だ。自身の中に、未来への可能性とか希望とか、そういったものが全くないわけではないけれど、その力は非常に弱いままに留まってしまっていて、少しショックを与えられるだけで、脆くも崩れ去ってしまう。

肯定的な自己像に乏しいと、日常生活の中で負った些細な傷が、大事に至ってしまう。血小板が不足しているイメージだろうか。血小板の働きが弱いと流血を止められないから、僅かな傷でも致命傷になってしまう。私の中で優勢になっている否定的な自己像は、傷口を広げる役割を担っているのだろう。本来であれば傷付いた自己を癒し、再び立ち上がるためのエネルギーを与えてやらねばならぬところを、むしろその傷を足掛かりに、自身の無価値さを証明し、もっと傷つけてやろうと企ててくる。

 
…これまで、自分をいじめすぎたのかもしれない。

以前から、「自己肯定感を持てるよう頑張らないと」と言ってはきたけれど、

そうは言いながらこれまでやってきたのは、自身の至らない点や生活上における問題点の指摘とその原因の分析ばかりで、「肯定的な自己像」形成のための努力に関しては極端に少なくなっていた。

確かに、自身の日常生活における問題や課題を発見して、その原因を分析し、行いを正そうとする試みは大切なのだけれど、それだけでは「肯定的な自己像」は育たないんだよな。却って、「自分にはこんなにも人として問題がある」という認識を強くさせてしまって、自己像が悪くなってしまうことにもなりかねない。

もっと自身をケアしなければ。問題の解釈と分析ばかりじゃ、そりゃ傷ついちゃうよな。

自身の中に眠っているはずの「肯定的な自己像」の芽に積極的に気付いていって、それを育ててやらないと。よい自己像があるからこそ、悪い自己像も抱えられるようになるわけで。

もっと、自分の中にある希望や可能性に目を向けてやれるよう頑張らないと。このままだと、寿命が尽きるまでに、どこかで潰れてしまう。

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