ヤバイ奴

私は、自分のことを「ヤバイ奴」だと思っている。

 

――先日、運動不足解消のため近所を自転車で走り回っていた時のこと。

前方100 m先に、中学時代の同級生によく似た人物が、ベビーカーを押しながらこちらに向かって歩いているのを確認した私は咄嗟に、

「こんなところで再会するとは何という偶然!こちらから声掛けした後、軽くお互いの近況報告会でもしなければならないだろう」

と思い付いた。

けれども、瞬時に少し冷静になってみて、

「いや待てよ。相手はベビーカーを押しているわけだから、彼女だけでなくて赤ん坊の方にも挨拶をしなければなるまい」

と考え直すことになった。私は、同級生と赤ん坊の両者に挨拶し、近況報告会へと持って行く段取りを頭の中で描きはじめた。

しかしながらそこで、少々引っかかるものがあった。

想像力を働かせてみる。仮に私があの赤ん坊に挨拶をするとしたら、その先どのようなシチュエーションが訪れるだろうか――。

――私がこのまま自転車を走らせれば、ものの10秒足らずで、彼女の顔がほぼ確認できる距離にまで接近するだろう。そこで、目の前にいる彼女が確かに「同級生」であると分かれば、まず私の方から自転車を止め、彼女に挨拶をすることになるだろう。もしかすると、「久しぶり」なんて言葉を付け加えることになるかも知れない。

さて、それと同時に私はベビーカーに目を向け、赤ん坊に笑顔で「こんにちは」と声を掛ける、といった流れになるのだろう。

するとそれを受けた赤ん坊は、何を思うだろう。私のぎこちなく引きつった、卑屈かつ不自然な表情と共に口にされた他人行儀な挨拶を聞いて、赤ん坊は一体何を思う――。

――赤ん坊はきっとこう思うかも知れない。その挨拶は、赤ん坊の存在を尊重しているのを示すために口から出てきた純粋なるものとは到底思われず、

その目的は寧ろ、赤ん坊への挨拶によって発話者が自身の面目と体裁を保ち、以て同級生より「非常識人間」の烙印を押されないためだけにあるような作為的かつ偽善的なものに感じられるかも知れない。そういした“いやらしき動機”に満ち満ちし、己の保身のみに意識の向いた、それゆえ思い遣りの一切が欠如し、温かみを感じられぬ、非常なる社交辞令じみた挨拶それを目の前にすることで、赤ん坊の本能的な警戒センサーはMAX値まで振り切れることになるかも知れない。

さてその瞬間に、赤ん坊の愛着システムが活性化するだろう。迫り来る危機を母に知らせようと、傍にいる同級生に助けを求め、泣き出してしまうようなことがないとは限らない。

私の存在ゆえに赤ん坊が泣き出してしまえば、私はただ呆然と立ち尽くすより他はなくなるだろう。必死になだめる彼女の姿を傍目に、

「私が消えなければ赤ん坊は泣き止まぬ」

と、そう感じた私は、静かにその場を立ち去ることになるだろう。しかしそうした私の態度が、却って彼女の目には失礼なものに映るかも知れない。赤ん坊に不快感を与えるだけ与えておいて、そうした態度は何様か、と。
こうしてこの一件を以て、彼女の中で私という人間は「永久追放」の対象と相成るだろう。そうなるともう二度と、彼女と堂々と顔を合わせることができなくなる。一生涯、この罪を背負い頭を垂れて生きていかなければならなくなる。

そうして私は、己を恥じるのである。人様に迷惑を掛け、その謝罪もままならず、為す術なく逃走するしか能のなかった己を、大いに恥じるだろう。

そうしてたいそう自罰的になった後、自分で自分を傷付けることになるだろう。「私の存在は、人様にとって邪魔となるのだ。私に生きている価値など、ないのだ」と。その一瞬を以て、私という人間の、生きている意味が消失するのだ。私にとって、私という存在が人様の迷惑になるということは、私という人間の存在価値が消失することを意味している。一度消失した価値を再び付与し直すのは、今後相当な骨を折ることになる。

出来ることならば、私は自分が傷付くリスクを背負いたくない。自分という存在に価値を感じなくなった瞬間の、あの筆舌に尽くしがたき絶望感は、二度と体験したくない。それだけは、避けなければならない。

そこで私は決意した。傷付く体験をするくらいなら、私は“非常識者”のままでいい――。

――私は、彼女に挨拶するのを“よす”ことにした。そこで私はハンドルを握る片手を離して、被っていた帽子を目深に被り直した。更に不織布マスクを限界まで伸ばし、それが極力顔を覆い隠してしまうように全体へと広げると、自転車を漕ぐスピードを加速させた。

同級生との距離がみるみるうちに縮まってくる。その間、私は決して、彼女の顔を確認しない。出来る限り下を向き、自身の顔面を外部にさらけ出さないようにして通り過ぎようと試みる。

いよいよ、すれ違うときがきた。私は祈るような気持ちで自転車を漕ぐ。彼女との距離が相当縮まってきた。私は願った。気が付いてくれるな。私の存在に、絶対に、気が付いてくれるな――。

――すれ違いざま。彼女は、私の顔を凝視していたような気がした。けれども私は気付かない振りをして、そのままやり過ごした。だから彼女がかつての同級生であったかどうか、私の方では確認できていない。彼女の方も私を確認していたのかどうか、今となっては分からない。

もしかすると、彼女は全く赤の他人だったかも知れない。そうだと良いなと思う。私は人として、完全に捻じ曲がってしまったのだ。私は今や、かつて同級生と共にした中学校時代のような、不器用だけれど真っ直ぐで、純粋さを備えていた人間わたしではないのだ。今の私は、いけない。卑屈で妙に警戒心が強くて、傷付くことに敏感でプライドだけは一人前。今の私は、「普通」の人間ではない。何かが、違うんだ。異様なんだ。外れ値なんだ。はみだしものなんだ。仲間には、なれない。私という人間の存在は、人様の日々営んでいる平和の秩序を乱し得る正体不明の異物へと成り下がった。私は周囲に溶け込むことができない人間だ。どこか異質なところがある。混ざらない。どんなに混ざろうとしたって、どうしても、浮いてしまう。

――自転車を漕ぎながら、私は自身の小心を嫌った。たかが挨拶ではないか。なぜ「普通」にやれないのだ。なぜ、普通の人が難なくこなせることを、私はやれないのだ。自分が傷付くことを恐れるあまり、カッコばかりつけている。しかし却ってそれが、己の人間的価値を押し下げ、己を異様なるものたらしめている。あらゆることから、逃げて、逃げて、逃げ続けて、何か得るものはあったか。何か守れたものはあったか。

――走って行くうちに、道幅の広い道路に出た。そこを横断しようと、横断歩道の手前で自転車を止め、車の往来の途切れるのを待った。そこで思った。車の運転手にとって、横断歩道の真ん前で道路を横切ろうとしている私という存在は、大なり小なり、「邪魔者」に見えているのだろう。車を横断歩道の手前で停車させるかさせないかに関わらず、私という人間がそこにいることによって、運転手の内面には僅かでも「葛藤」が生まれるはずだからだ。私がいなければ、運転手はこの横断歩道を何の躊躇いもなく通過することができた。

しかしながら私がこの場に佇んでいるせいで、運転手の内面には一瞬でも「ここで停車すべきか、否か」を決めるための葛藤が生じることとなった。

つまるところ、私は、迷惑なのだ。人非人にんぴにんのくせして、人様に迷惑を掛けている。百害あって一利なし。いや、一利くらいはあるはずだけれど、どんな利を提供したところで、その実績は私の中で、刹那に泡となって消えていく。私の中では、自身の利はちっとも積み上がらず、害ばかりがその実体を残して、積み上がっていく。結果、私はただの害悪な存在となる。

なんなのだろうねこの思考様式は。

一端が自己否定へと繋がる太いゴムがあったとして。そのもう一端が、私の背中にピタリとひっついている。私が自己否定の支配から逃れようと、必死に離れようともがけばもがくほど、背中に付いたゴムの弾力が大きくなっていって、しまいには強い力で、私を自己否定の支配域へと引き戻してしまう。
元気にしていようとしたって無駄だ。前向きに、陽気に、日々自身にエネルギーを感じながら生きようと努めたって無駄なのだ。どんなにもがき苦しんだって、最後は弾力に負けて、いつもの場所へと引き戻されるのだ。

 

つまるところ私は、自身の傷付いた先に、自身を落ち着け、回復させられるだけの場所を持っていないのだ。人間、生きていれば傷付くことなど山ほどあるだろう。それは分かっている。けれども、その「傷付き体験」が訪れたとき、自身の内面のどこかに、その傷付いた自己を支え、また前を向いて立ち上がるだけの気力、励まし、無条件なる存在肯定を与え、回復するまで癒してくれる心的支柱なるものが、私の中には存在しないのだ。私の内面には、安心かつ信頼して寄っかかれるだけの頑強な心的支柱の代わりに、ともすれば私の存在価値を否定しようと企むサタンが重々しく居座っているだけなのだ。私は私自身さえ、敵に回してしまう恐れがある。日常生活の中でほんのちょっぴり傷付くことが、とんでもない命取りになってしまう。

したがって、私は「ヤバイ奴」にならざるを得ないのだ。そして私は、そのことを自覚している。私は悪い意味で、「普通」じゃない。「普通」の群中に飛び込んで、いきおい混ざろうと必死に同化を試みるけれど、どうしたって浮いてしまう“さだめ”にある。不純物。そう。私は私自身で、私の存在を不純物と感じている。不要。この世にとって無用の長物だと思っている。思ってはいるのだけれど、それでも必死に生きようと、何とか前向きに生きていく術はないものかと、日々もがきながら模索している。その姿勢が美談となる日は、果たしてやって来るか。その気配だけは感じながらも、でも結局は、いつも空振りに終わってしまう。私の背中にはりついたゴムは、今日も強い力で、私を引っ張っている。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。