「凄い人」だと思われたい。でも・・・

私は、自分には人間としての存在価値がないと思っている。私は下らない人間だ、私はつまらない人間だ、私は生きている価値のない人間だ。そう思っている。だから私は、人様から「凄い人」と思われることを切望する。人様から「貴方は凄い人です」と評価されさえすれば、私は自分という存在に対し、束の間の価値を感じられる。そうして、感じられたその価値を「束の間」で終わらせないために、常時、人様からの評価を求める必要がある。常に人様から「貴方は凄い人です」と言われる必要がある。だから私は日常において、虚勢を張ろうとする。「貴方は凄い人です」と言われるよう、自分の実力以上に自分を大きく見せようとする。しかしその試みは大抵失敗する。当然である。私は“10”の実力しか持っていないのに、人様から“20”の実力を持っているように見られようとしているのだから、失敗するのは当然のことである。
私は、自分が下らない人間、つまらない人間、存在する価値のない人間であるという事実を、人様に見破られることを恐怖している。「貴方は生きている価値のない人間です」と自他共に認められてしまっては、己の身のやり場に完全に窮してしまう。私自身が「私は生きている価値のない人間だ」と思っている以上、人様から「いやいや、貴方は生きている価値のある人間だよ」と言って貰えなければ、真の「生きる価値のない人間」が出来上がってしまう。そうなれば、とても生きるエネルギーを得られない。幸せな人生を送れない。楽しい人生を送れない。私は生きていたい。死にたいとは思っていない。従って、生きる価値のある人間として存在していない限り、生きることが苦しくて仕方がなくなる。そこで私は懇願するのである。「お願いです、私の存在を認めてください」と。
しかし、私自身が自分の存在価値を認められていないならば、この願いが叶えられることは非常に困難になる。自分に存在価値を感じられていない人間が、人様から「貴方は存在価値があります」と言われたところで、そうそうその言葉を信用することはできない。自分はブサイクだと思っているのに、人様から「イケメンですね」と言われても簡単にその言葉を飲み込むことは難しい。それと同じである。幾ら人様が「貴方は存在価値があります」と言ってくれたって、受け取る側の人間が「いやそれは違うね」と退けてしまえば、折角の賞賛の言葉もあまり意味を為さなくなる。ちょっとやそっとの賞賛の言葉では満足できない。「貴方は努力家ですね」と言われたところで、それが「貴方には『努力家である』という強みがあります」とか、「(ということで、)貴方には存在価値があるんです」という意味として響いてこない。「貴方は身体が丈夫ですね」と言われたところで、それを自身の価値の一つであるとは到底思えない。「良い趣味を持っていますね」と言われても、それが自分の価値の一つとは感じられない。
「ちょっとやそっと」の賞賛では満足できない。それでは、「ちょっとやそっと」に留まらぬ、大きな賞賛の場合はどうか。例えば「凄いですね」という言葉である。「貴方は凄い人ですね」という一言は、自分自身に束の間の「価値」を感じることができるという点で、強烈に心に響いてくる。「貴方は努力家ですね」という言葉より、「こんなことができるなんて凄いですね」という言葉の方が確かに劇的に心に届く。しかしその劇薬の如き一言も、効き目があるのはほんの一瞬である。仕事で期待されていた以上の成果を出した後、人様から「凄い!」と言われたとする。その瞬間、自身はとても満たされる。「こんなことができる貴方に私は価値を感じます」と言って貰えたことで満足する。そうして自分に自信を得る。しかし、私の根底にあるのは「自分には存在価値がない」という揺るぎない価値観である。やはりこの場合も先程と同様、時間の経過と共に獲得したはずの“自信”や、感じられていたはずの“自分の存在価値”の実体が急速に薄められていく。そんな中、例えば仕事で一つ失敗をしたとする。大したことのない失敗である。気に留めることも馬鹿馬鹿しい程の小さな失敗である。しかし、この程度の失敗で、もう、先程の自信は完全に失われてしまう。失敗をするような自分は存在価値がないと感じられてしまう。これは根底に「自分には存在価値がない」という価値観があるためである。一つの失敗が根拠となって、「自分には存在価値がない」という価値観が「やっぱり」という言葉と共に首肯、確認されるのである。「イケメンですね」と五人の人間から連続で言われて、多少の自信を得てきたところで、たまたま一人の人間から「貴方は私のタイプではありません」と言われただけなのに、「ああ、やっぱり自分はブサイクだったんだ」と首肯するのである。自身の根底にどういった思考があるかによって、物事の捉え方は斯くの如く変わってくる。畢竟。自分で自分の存在に価値を感じられない状態で、人様からの賞賛を求めることは殆ど無意味の行為である。そのようなやり方では、自分の存在価値を感じることなど一生できない。

ところで私は先日、対人関係において失敗をした。いくつか失敗をしたのだが、中でも自分にとって致命的だったのは、私が相手から「凄い人」だと思ってもらおうとする試みに失敗したことであった。本当はそのようなことの無意味さを承知していたはずなのだが、うっかり悪い癖が出てしまったのである。そうしてその「凄い人」と思ってもらえなかったという失敗(と、その他犯した失態)を根拠に、自身の内面において、「これにて私は相手から『存在価値のない人間』との烙印を押されてしまっただろう」と考えた。それほど、この時にやらかした失敗は私にとって、大きな失敗であるように思われた。
しかし事実は異なった。先方は私を「凄い人」だと認識しなくても、付き合いを継続してくれる人であった。そして私の犯したその他の失態についても、さほど気にしていないどころか、そんなことが「私という人間の存在価値」を揺るがすものであるなどとは全く評価していなかったのである。
私はその事実を第三者から偶然に聞かされた際、現実の意外性に驚愕したと同時に、「ああ、またやってしまったな」と思った。事実はそこまで語らぬのに、勝手に自分の中で「失敗」に対して過剰反応してしまっていた。「あんな失敗をしたからには、私は嫌われてしまったに違いない」という思い込みによって、自分を自分で精神的に追い込んでいた。先方は私に「貴方は生きている価値がない」など一言も言っていないし、内面でもそのようなことを思ってさえいなかったにも関わらず、私自身が勝手に、相手の一挙手一投足に過剰反応することで「貴方は生きている価値がない」というメッセージを受け取って、酷く悲嘆に暮れていた。事実は、悲嘆に暮れる必要などなかった。一つの失敗によって自身の存在価値のなさをまじまじと実感し、呼吸をすることさえ苦しくなるような、生きることの絶望感に苛まれ、自分という人間そのものがまるごと否定されるようなあの感覚を味わう必要などなかったわけである。ただ、私がすべきだったのは、背伸びをしないで等身大の自分を見せることと、私が相手と別れる際、「先程犯した幾つかの失敗をどう評価するかは相手が決めること」という認識を持つことだけで充分であった。もっと踏み込むにしても、「この失敗を相手からどう捉えられたとしても、自分の存在価値は変わらない」と自分に敢えて言い聞かせるくらいで充分であった。
「自分は生きている価値がない」という価値観が根底にあることは、自滅することと密接に関係している。

「自分には存在価値がない」と自分で思っているから、人様からの評価が気になって気になって仕方がなくなる。だから他者の一挙手一投足に過敏に反応し、実体のない思い込みの一喜一憂をする。人様に気に入られるために、必要以上に自分を殺す。些細な失敗に過剰反応する。そうして酷く疲弊する。自分を過度に偽ってまで人様から気に入られようとする。しかし人によっては、そこまで努力をしても気に入られないこともある。その一方で、些細な失敗(自分の中で「失敗」だと感じられるような失敗)をしてしまったとしても、相手にとってはそれが「失敗」とは思われないこともあるし、その失敗を含めても総合的に気に入られることもある。これはすなわち、自分を過度に偽ることなく、自分らしさを対人関係の中でほどほどに出していったとしても、気に入られることもあれば、気に入られないこともあることを暗示している。そして、それこそが健全な対人関係を築く、ということなのである。自分の人生を生きる、ということなのである。幸せになる、ということに繋がっているのである。
その現実を頭に留め、日常生活を送ることが大切である。

「自分は生きている価値がない」という自身の根底にある価値観は、一朝一夕に治るものではない。これを治すためには、地道な努力が必要である。自身の心には根底に「自分の存在を否定する価値観」が存在することを日常的に意識する。そうして人との関わりを持っていく中で、(上に挙げた私の実体験のように)「人様は、自分が思っているよりも自分の存在を否定するわけではないのだな」という事実に気が付くことを繰り返さないことには、なかなか治らないものであると考えている。決して、周囲の人様から「凄い人」と評価されることで解決しようとしてはいけない。周囲からの高評価に依ってではなく、自力で解決することが重要である。
無論、その間に「『自分は生きている価値がない』という価値観は単なる思い込みであり、間違いである」という事実を何度も自身の頭に叩き込むことも忘れてはならない。生物たるもの、存在する価値というものは必ず有しているのである。その実感を持てるかどうかは、自分の存在を自分で肯定できるか否か、ということに懸かっているのである。人様からの評価で決まるものではないのである。
机上の理論よりも実践を。過酷な道のりだからこそ、逞しく向き合っていかねばならない。




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