『愛』とは何か

「アダルトチルドレン」について興味を持ち、本やインターネットでその内容を調べていた時期があった。幼少期に健全なる親子関係が築けず、それにより心に大きな傷を負ってしまった子供は、以降、それが尾を引く形で精神に諸問題を抱えることになる。

その中でも特に印象的だったのは、親の過剰なコントロールの下で育った子供の抱える精神的諸問題である。幼い頃より自身の個性を認められず、常に親の価値観に沿った言動を取ることを半ば強制され続け、仮に親の価値観にそぐわぬ言動を取ったならば、いつ如何なる時も問答無用で人格否定を受ける理不尽な環境下で成長することとなった子供は、その環境を生き抜くのに適した人格を形成する。その人格(の一つ)とはすなわち、“親の言いなり人間”である。親のお眼鏡にかなう言動の取れぬ度に徹底的な人格否定を受け続けた子供は、自己主張をしなくなる。自己主張をせず、親の顔色を常にうかがい、自身に求められている言動を親の挙動から素早くかつ適確に見抜き、その通りに自身を操縦することで己を否定のシャワーから守るようになる。社会的に無力な子供は、自分の親から提供される環境に適応し、縋ることでしか生きていく術が無いため、このような人格を形成することで順応せざるを得ないのである。そしてその過程で形成された人格は、大人になっても引き継がれることになる。親の敷いたレールに乗っかることに神経を研ぎ澄ますその人生の根本に、自分というものは存在しない。自身の真の願望は何処かにしまわれたまま、必要なときに引き出すことも難しく、自分は一体何者なのか、果たして自分が何を求めているのかが全く分からず、自己肯定感や自尊心も生まれない。そのような人格を社会に持って行くとどうなるか。常に他者の顔色を過度にうかがい、必要以上に従順で、自己主張を全くせず、いつもビクビクしながら対人関係をこなすことになる。この状態は社会において不利益を被ること甚だしく、結果、耐えきれず精神障害を発病、ゆくゆくは社会からドロップアウトしてしまうケースも多い。以上のケースを鑑みるに、他者を自分の都合で必要以上にコントロールするという行為は、あまり好ましいこととは言えそうにない。

 

このことを知った私は、障害者の支援員という仕事に就くに当たり、彼らと関わる際は、自己本位に基づく必要以上のコントロールを施さないよう、自身の言動に気を付けることを入社当時からのテーマとした。自身のお眼鏡に適う言動を取る相手ばかりを可愛がったり、そうでない人を自身の思い通りにコントロールしようとする行為は、気を抜くと常態化してしまうのではないかと考えたからである。しかもその相手が、感情を始めとする種々の表現に障害を抱えた人々であるなら尚更である。
 

さて場面は変わって、昨年5月末のこと。これは、重度知的障害者の通う施設で長年勤務していたという慈愛深き某氏のお話を聴いたときのことである。曰く、その人の昔勤務していた施設では、施設利用者へ恐怖心を植え付けることにより、職員の思惑通りに彼らを支配するという行為が横行していたそうである。通常であれば他害行為(人を叩いたり噛みついたりする行為)の多く見られる、一見すると手の付けられない障害者も、竹刀を持って対峙する恐ろしき職員の前ではその特性を示さず、大人しく、静かにしているのだそうである。しかし、そうでない(優しい、怖くない)職員がその人と関わることになった際は一転、大人しく静かにしていることはなく、その職員に容赦ない他害行為を繰り返すのだという。このことは、恐怖心を相手に植え付けるという行為によって、知的障害者でさえもある程度、自身の思い通りにコントロールすることが出来ることを示している。彼らは竹刀を持つ職員の前ではかなりの無理をして、本来の自身を抑えていると言えるわけだ。その時の彼らの状態を例えるならば、暴君の統治下で暮らしている市民のようなものだ。

確かに、他害行為は社会的に悪い行為であると思っている。幾ら障害があったとしても、さすがにそれが他者を傷付けて良い理由にはならないというのが私の見解である。福祉現場における一般的な解釈として、一見すると他害行為を働かれている職員は劣等で、そうでない職員は優秀であるように見受けられるのではないかと思われる。しかし、その実態は実は180度異なる。その人は言う。たとえ他害行為であっても、その人がありのままの自分を解放し、それを表に出せている事実は、実は良いことなのだ、と。他害行為を働いている目の前の障害者は、実は心の内ではその職員に感謝をしている。その感謝の表現は障害によって表には上手に出て来ないが、素のままの自分を存分に出させてくれる職員には必ず感謝をしているのだ、と。手段を選ばず、自分の言うことを従順に聞かせるような相手との関わりが必ずしも正しい障害者支援ではないのだ、と。そして最後に、「どのような行為を働かれたにせよ、その人のありのままの姿を、存在を、愛情で以て全肯定して接することがなにより大事なのだ」、と。

 

この話を聴いた瞬間、私の頭の中では冒頭の「アダルトチルドレン」について過去に得た知識と、それに基づく自身の「入社当時からのテーマ」となった「自己本位による他者のコントロールは慎むべき」という信念が連想されたわけである。この二つ、言葉は違えどかなり関連性の高い事柄だと思う。私はこの人の主張に概ね、同意した。まあ、“他者を傷付ける”という行為すら肯定する点は個人的に、未だ賛同しかねる部分があるのだが、基本的に、他者を自分の利益のためだけに必要以上のコントロールすることは忌むべきものであるという考えは変わらない。

 

今の会社に入社してから、おおよそ10ヶ月が経とうとしている。その間私は無論、どうにかして「眼前の相手の存在を全肯定する」ことを基本スタンス、目標として頑張ってきたわけであるが、その過程でその「眼前の相手の存在を全肯定する」という行為の難関さを日々実感することとなった。無条件に他者を承認することのできるほど、私は慈愛に満ちた、“できた”人間ではなかったようである。

 

以下では、その「無条件の他者承認」に向けた私の奮闘と試行錯誤、その過程で得られた考察、または解決策を記述する。

 

さて、冒頭では“アダルトチルドレン”等という大層な例え話を用いてしまったが、他者を自分の都合の良いようにコントロールする行為に関しては、大半の人が日常的に行っているものであると考える。例えば「がっかり」の表現。他者が自身の希望と異なる言動を行った際、「貴方がそんなことをするような人だとは思わなかったよ」とあからさまに「がっかり」してみせると、「がっかり」された方は堪らない。相手を失望させてしまった罪悪感と、「これ以上あの人を失望させたくない」とする願望から、以降は、「がっかり」された側の言動は「がっかり」した側の価値観に寄ったものに修正されてしまうことであろう。他には、「君には期待しているからね!」という表現。単なる激励の言葉として放たれた可能性もある言葉だが、これも他者をコントロールするにはうってつけの言葉である。「君には期待しているからね!」は相手を自分の納得のいく水準まで頑張らせようとする際に良い効果を発揮する言葉で、期待を受けた側は「この人の期待を裏切らないようにしなきゃ」、「この人を失望させたくない」というプレッシャーから、己のキャパシティを超えてさえ求められた水準をクリアしようと無理をしてしまうこともあるだろう。

 

私はこのような「他者のコントロール」が前提となった言動を慎み、たとえ相手が自身の願望と異なる言動を取っても、自身の感情(快か不快か)に左右されぬニュートラルな応答で相手に対峙したいと思っているし、それを4月からどうにかして実践しようと努めてきたつもりである。
 

が、先程も申し上げた通り、その試みは非常に困難なものであった。この仕事(重度知的障害の通所施設の生活支援)に就いてみて何度も実感せられたのだが、やっぱり自分が一番、かわいいのである。自分の“快”のためには、悪いと分かっていながら、他者に多少の犠牲を払って貰いたくなってしまうのである。

眼前の相手に幸せになって貰いたいという感情は確かに存在する。しかしそういった感情表出の前提として、自身の幸せが根本にある。自身の幸せが大きな土台として存在しており、その上で他者の幸せを願う気持ちがある。自身が大きな不利益を被らない範囲内において、他者の幸せを願える。自身が不幸せになってまで他者の幸せを継続的に願えるだけの人間性は、今のところ、私の中には無い。たとえその相手との関係が金銭の授受を伴うものであったとしても、たとえたかだか一日の内の数時間程度の関わりであったとしても、自分の快、不快の感情を全く没却し、完璧なまでに他者に対し感情のニュートラルな状態で関わっていくことはとても難しいことだった。

 

相手と私の相反する願望が対立したとき、譲歩するのは無論、支援する側にいる私の方である。はじめの方はまだ余裕がある。ニコニコと相手の要求に対し、「いいよ、いいよ」と譲歩する。すると相手方から、更なる要求が出てくる。自身にとって不都合な要求である。しかしそれを「嫌だから」の理由一つで排するのは良くない。自身の美学に基づき、ここも譲歩する。相手からまた、更なる要求が出てくる。まだ足りないか。普段から取り入れているメンタルマネジメントにより拒絶の気持ちを脳外へ放出する。ここで一つ大きく息を吐き、呼吸を整える。感情の乱れは呼吸の乱れに繋がる。その逆も然りである。ゆえに呼吸を整えることで上手く感情をコントロールするのだ。負の感情を表に出してはならぬ。負の感情を表に出すことは、私から負の感情を表出させたことを相手側に敢えて認識させ、そこから生まれる罪悪感を利用しこれ以上の要求をさせないようにする法である。これは他者コントロールに繋がる。やってたまるか。何とか能面を保つ。もうこの頃の私には笑顔は無い。自身の快にそぐわぬ相手の要求を飲み込みすぎて、笑顔を見せる余裕が無くなっている。しかし嫌な面は見せない。見せぬよう、内面で必死に努めているのだ。そんなこちらの内面の混沌、努力を知ってか知らずか、相手からまた自身に不都合の要求をされる。自身の内面より、「ここまで譲歩しているのだからいい加減にしてくれ」という気持ちの表出を感じる、が、この類の感情に囚われてしまうことは、イライラの原因になる。そのイライラの情に飲み込まれることは、他者コントロール実行の原因となる。「これだけ譲歩したのだからそろそろ勘弁してくれ」――そんな感情に頭が支配されるのを許してしまってはいけない。自己憐憫に似たこのような情は、後に怒りの情へと転化するため、早急に脳外へ放出する。このようにして、何とか眼前の相手に「自身の都合による意識下のコントロール」を行わないようにする。相手が「支援者をわざと苦しめてやろう」といった動機で行われている要求であるならさすがに怒るが、そうでなく「自分のやりたいこと」を要求した結果出た行動であるならば、私情はなるべく挟まず、好きなように行動させてあげたい。

 

ただ、やはりこれにも限界がある。まさか毎日、上述した感情コントロールを実践し相手の意向を100%汲み取り思うがままにさせてあげられているかと言うと、とんでもない。どうしても「私情」を挟み、自分の思い通りに相手をコントロールしたくなる瞬間は沢山あるし、実際にしてしまうこともある。その第一に、心身の疲労の大きい時はその傾向が強い。自身にかなりの疲労が溜まっている時、自分にとって不都合となる出来事に対する耐性がかなり低くなるのを感じ、そんな時は、つい、自分本位の言動を相手に求めてしまうことがある。「『疲れたから』というのは言い訳として認められない」という意見を職場内で度々耳にするのだが、私はこの意見にはどうも賛同できない。疲れは必ずその人の心身を蝕む。疲れた精神で良好なパフォーマンスを発揮できるものか。そしてその疲労は、私の場合、メンタルマネジメントだけでは現状どうにかすることが難しい。日中にホッと一息付ける時間があるだけでも全然違うのだが、今の会社にはそれが存在しない。なかなかタフな環境である。

第二に、自身の承認欲求。私は、(以前よりは随分マシにはなったものの)承認欲求の塊みたいな人間であることを自覚している。私は、自分という存在を他者に認められたいとする願望が、かなり強い。そのため、仕事中は上司や同僚から「亀井君がいると施設が上手く回るよね」と評価してもらいたいなどと、しばしば考えている。そんな中、自身の思惑とは異なる反応(すなわち、見方によっては応えることにより自身の評価を下げてしまうような要求)を相手から出されると、「そうはさせじ」とつい焦りが生じ、他者の無条件の存在肯定は二の次となり、自身の都合の良いような要求をこちらから提示してしまうことがあり、取り分け入社して56ヶ月経った頃はその傾向が大きかった。しかし最近はこの「自己の承認欲求」に囚われぬマインド作りに励んだお蔭で、必要以上の承認欲求に自身の信念をぶらされることなく仕事が出来るようになり、それに伴い他者を自身の評価のため無用にコントロールすることは相当、自重出来ている。つもり。ある先輩職員が言っていた。「自分の立ち位置を性格に把握し、その中で出来ることを精一杯やっていくことが大事である。決して経験の浅い人間がその道10年のベテランと同様のパフォーマンスを出そうと躍起になってはいけない」、と。これは本当にそう思う。無理に、自分の能力を超過した結果を出し続けようとしてはいけない。また、それを求めすぎるあまり他者を不快の渦に巻き込んではいけない。

 

もう一つ難しい問題がある。この(=対人関係の)分野には、数学のような決まり切った、客観性のある、普遍的な答えがないため、この「普遍的正当の無い」ことを利用し、自身の自己愛を必要以上に守ることが出来てしまうことである。先程も申し上げたが、私はこの仕事をしてみて、普段から己がいかに自分を一番かわいがっているか、を思い知った。他人のためを思っているようで、思っていない。他者の幸せをニコニコと願うことが出来るのは、自分が安全地帯にいるからである。渦中に身を投じつつ、自分のこと全く度外視して他者の幸せを願えるほどの人格が、私には備わっていない。従って、出来るだけ自分は疲弊をしたくないのである。不利益を被りたくないのである。出来ることなら、自分の感情に素直なまま、眼前にいる相手を幸せにしたい。そんな「自己愛」の防御を貫くための、とっておきの手段が、この業界には存在する。それは、「貴方のためを思って言っているんだよ」――この一言を大義名分に、自身の価値観に合わぬ、相手の取る自身にとって気に入らぬ言動を制限していくという手法である。他者の取る言動の善し悪しを判定する上で、自身の“感情”をこれでもかと介入させるわけである。実際、答えの一様でない、人の価値観により解答の変わってしまう事柄の善し悪しを決定するための理由付けなんて、実は幾らでも出来るのである。例えば、“野菜を残す”という行為に対し“不快”を感じるならば、「栄養の偏りや、食事中の急激な血糖値の上昇による健康被害が懸念されるため、何としてでも食べさせるべきだ」と主張し、相手にその旨を伝え、何としてでも野菜を食べさせるような支援が、「貴方のためを思って言っている」という大義名分のもと、堂々と出来てしまうのである。これは(やっていることの善し悪しは置いておくとして)相手第一の関わりとはならない。どちらかと言うと、自分第一の関わりになっている。上記はほんの一例である。本当に相手のことを思うのなら、「どうしたらその人が今より食事を楽しめるだろうか」を考えた末、自身の快、不快の感情を完全に排して出た結論から対策を打つべきなのである。

「その人のためを思ってやっているのだ」と言いつつ、その実はその人の取る行為に対して抱く自分の快、不快の情が先に来ていて、相手の本心は二の次。しかし「相手のためを思いそうしているのだ」とする大義名分づくりは出来ているため、案外堂々と自分が傷付かない方向へ他者の行動を誘導することが出来る。私もつい、この手法で自身の価値観を優先的に守ってしまった事がある。相手のためであるようで、相手のためでない。行為の正しい正しくないは関係なしに、アプローチの仕方として間違っている。これは大抵、己の心身の疲労が大きい時に起こしやすい。

 

以上、心身の疲労、承認欲求、都合良き自己愛の保護といった三つの障壁を挙げることで「他者に無用なコントロールを加えないこと」がいかに大変なことであるかを主張してきたが、一方で、その大変さを大きく軽減させ、より相手に寄り添った関わりが取れるようになることを可能にする方法がある。様々の性質を持つ人々の特性や価値観というものを知識として有しておくことで、お互いの価値観がぶつかり合った際に生じる諸問題の対処手段(または、諸問題対処のために講じられるアプローチ手段)を数多く持つことである。簡単に言ってしまえば、「多様性を理解する」ということである。例えば、施設利用者への食事提供の際、支援者が大変な労力を掛け、その人が安全に食事を摂れるよう食べ物を食べやすい形状に成形し、それをスプーンで掬い口に持って行った時、相手から拒否の反応を示されたとする。この時、その相手に対する知識をどれだけ持っているか、または眼前の相手が抱えている問題に対し取れるアプローチの数次第で、その際の介助者の反応は違ってくると考える。知識のない人はそれ以上取れる問題解決へのアプローチの手段が残っていないため、どうしても感情的になり易くなってしまう。「なんだ食べたくないのか。ここまで労力掛けてやったのに。どうしてかなあ」――このような気持ちは、イライラや心的疲弊の原因となり得る。しかし知識のある人ならば、感情的になる度合いは比較的軽くなり得る。「もしかしたら(本人が)この食べ物を上手く食べられない気がしているため、食事そのものを怖がっているのかも知れない。食物を上手に嚥下できるよう、食べる時の姿勢や食物の形状を別のものに見直してみようか」――このようなアプローチが一つでも二つでも思い付き、実際に行動に移せることによって、思考が不快の感情にばかり支配されなくなる。おまけに上手くいけば問題解決に繋がる。両者のこの差は、非常に大きいと考える。前者は沢山の不快の情を短時間で溜め込み、おまけに状況の改善がないので常に同じ事で不快な思いをすることになるが、後者は状況改善に向けた選択肢がある分、不快の情を溜め込むことは前者と比較して少ないし、問題解決に向けた取り組みが行えるため、問題解決への希望を持ちつつ対処できる。後者の方が「他者のため」を思うだけの精神的ゆとりを持ち、己をコントロールする余裕のあることは明らかである。

 

結論。

他者の存在を無条件に肯定し、認める――。

それが「人を愛する」ということであるならば、私はまだまだ、人を愛することなど到底出来るようにはならないなと感じるのが本当のところである。自身の損得勘定に流されず、全くニュートラルな状態で他者と対峙することなんて、もしかしたら一生出来ないのかも知れない。

しかし、その状態に“近づく”ことならきっと出来るはずだ。人間の持つ様々な価値観、特性をなるたけ沢山学習し、知識として持っておくことがその手段となる。人間の持つ様々な価値観を知りそれらを尊重することができていれば、何かの拍子にお互いの価値観がぶつかり合った時、無駄に自分が傷付くことなく、問題解決に向けた有効な手立てを講じ、改善を図ることが出来る。

人を「愛」し、その存在を無条件に肯定するという難題の解決への糸口は、「相手を理解する事柄に関連した知識を蓄える」こと、平たく言えば、「相手のことをどうにかして知ろうと努め、勉強する」ことが、その必要条件となるのではないだろうか。

 

そんなことを考える、今日この頃である。




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