幼い頃より、自らを抑えつけ生きてきた。そんな私も最近になって、「自然体」であることの尊さ、価値を学んだ。自然体でありたい。それは私の切な願いだ。
「自然体でありたい。」
しかしそれは、簡単なようでいてとても難しい。自然体であろうとすればするほど、不自然になる。自然体というものは、頭で考えるものではない。だから自然体というものが、分からない。
自然体でありたい。
その欲求は焦燥に近い。計算や小細工を使わず、ありのままで居た方が、魅力ある人間になれる。そこには「必死さ」がない。嫌な「重さ」がない。
人と接すること一つを取っても、ただコミュニケーションを楽しむのと、「この人に絶対好かれなければならない」と思いながらコミュニケーションするのとでは、その様相は大きく異なる。後者には「必死さ」がある。特有の、嫌な「重さ」がある。対して前者は軽快で爽やかだ。誠実だ。
内面に秘められた必死さ、重さを人々はどこかで感じ取る。重さを感じさせる言動は、
「良い人だというのは分かるけれど、深く交わった気がしない」
という関係に終始させる。結果、努力の割に心が通わない。
だからこそ、自然体でありたい。自然体が、必要だ。
昔から、人のご機嫌を取ることばかりを考えてきた。人から失望されないことばかりを考え、生きてきた。「期待外れだった」と言われることを、何より恐れて生きてきた。
感情より、思考を先にする必要があった。本音の表出より、思考の出力を優先させる必要があった。
常に自分が何を思い、何を感じ、何を表現しなければならないのか、まず、頭で考える必要があった。頭で考えた結果、出して良いもの、出していけないものを恐怖心にもとづき、取捨選択する必要があった。結果、自分が一体誰なのか、分からなくなった。
自然体とは真逆の人生を送ってきた。自然体でいては、自らの存在は受け入れられないと固く信じて生きてきてしまった。その代償は大きかった。自然体が分からない。自分がどういう人間で、何が好きで、何が好きでなく、何に心打たれるのか、何に特別な魅力を感じているのかが、分からない。それらを闇雲に表現することは小さい頃からの禁忌で、二十年以上もの間、抑えつけてきた。
自然体は胸の奥底に冷凍されている。それを自分自身が感じている。解凍してくれる何かを求めている。冷凍された感情を温めてくれる何かが欲しい。けれどもその獲得には、皮肉にも自然体でいることが求められた。自然体は美しい。美しいものの周りに、美しいものが集まっている。美しいものは美しい光を受けて、ますます輝いているように見える。
そうでないものは、孤独だ。がむしゃらに自身を磨いていたって、美しくあれない。
美しく輝きたくて足掻いてみても仕方がなかった。細工を施せば施すほど、ぎこちなくなって、美しさから遠ざかっていた。初めはそのことに、気が付くことさえできなかった。
自然体でありたい。
「自然体の試み」とは、何と大きな矛盾だろう。自然体は、頭で考えるものではない。しかしこれまで、頭で考えることなしに生きるという経験にあまりに乏しすぎた。
「自然にしていよう」「自然にしていよう」として、却って、不自然さを増している。不自然の基盤に、自然と称した不自然を次々に上塗りしていくこととなった。それは自身にとって、とても不愉快な色になった。見るに堪えない表象となった。自身の体が着心地の悪い鎧になった。
頭で考えに考え抜いた自然体など、嘘だ。自然体を意識的に求めるという試行には無理がある。嘘に嘘を重ねているだけだ。これが自然、あれが自然と、あれこれ思案して、でも結局手元に残るのは嘘ばかりで、「ああ、全部嘘!」と言って、それら一つ一つの要素を手元から投げ捨てていって、ただ実際はその中の全てが嘘ばかりということもなく、結果、本物さえそれと気付かず捨ててしまう。そうした姿勢にも、嘘がある。本物を嘘だと言い捨てるその態度こそ、大嘘だ。
「ありのままではいけない」というサインを受け取り続けた人間の末路だ。「ありのまま」であってはならないから、自然体を放擲して、思い通りの、お望み通りの存在になろうとした。けれどもゆくゆくは、それが「不誠実の態度」として仇となっていた。小さな世界で求められたことが、外の世界ではさっぱり通用しないことを知った。不自然たる要素の集合が、内部を含めた我が身の全体を構成していて、外部との純粋な接触を妨げ続けている。
ここで人は道を間違う。スーパーマンになろうとする。欠点のない存在になろうとする。偉い人になろうとする。賞賛を渇望するようになる。社会的な箔を求めるようになる。客観的な存在価値を得ることで、一発逆転を狙う。特別な存在になることで、起死回生を図る。
しかしそれは破滅の道だ。そんな動機で箔を付けるのは、海水を飲むのと同じことだ。ますます自己喪失して、自然体を失うことに繋がる。
本当に求めているものを見つめていかなければならない。そしてその実現に、何も特別な箔付けは要らないことを肝に銘じていなければならない。寧ろ、箔付への渇望、唯一無二への憧れは害悪だ。
特別なことなど、何も要らない。奇を衒う必要もない。差別化を図る必要もない。自分の心が傷付かないような生き方を、たとえそれが凡庸なものであったとしても、自らの手によって自信を持って選択していくことが重要だ。多少辛くても、面倒でも、自身の心の痛まない生き方の連続によって、後ろめたさのない生活を送ることだ。これは「心を閉ざすことにより傷付くことから身を守る」のとは違う。寧ろ逆だ。心を開くことによって、自身を守るのだ。心を閉ざしてしまうと、それにより自分を守っているつもりでも、結局のところ自分の心は傷付いている。嘘をつけばつくほど、心は知らず知らずのうちに、傷付く。
自分の心に対して正直に、誠実に生きることだ。自分に対する誠実さの積み重ねが、自分への信頼感に変わっていく。自分への信頼感が、他者信頼に繋がっていく。他者信頼が、幼少期からの、失望される不安、見捨てられる不安、がっかりされる恐怖の払拭に繋がっていく。そうした、自分に対する信頼感の獲得と、他者への不信感の払拭が、きっと、我が身の自然体の表出を促してくれることだろう。
いやそれだけでは足りない。頭で考えて自然体を模索していかねばならぬ身である以上、自然体の体得の過程で失敗は付きものだ。失敗を恐れていてはいけない。失敗をしながら、あれでもない、これでもないと、果敢に苦い経験を積んでいく必要もあるだろう。思い出したくない過去を作ることを恐れるな。成長に必要な傷が付くのを、恐れるな。傷付くこと上等の、七転八倒の試行錯誤を繰り返すことによって、きっと、自身の自然体とは何たるかを、徐々に解凍されゆく心の声が教えてくれるようになるだろう。
それらを信じて、今日も力強く生きていく。腐ってはいけない。諦めてもいけない。何度折れても修復できるよう、精神こそ強くあれ。必ず脱する。今あるのはその決意だけ。
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