しっかりしてくれ

2020年11月9日。何でもいいから記事を一つ書いてしまおうと、パソコンの前に鎮座してはや5時間。結局“一文字”も捗らず、無意味に疲労した私は画面に向かって苦笑する。明日は、早朝に起床しなければならない。いつまでもこうしているわけにはいかない。

私は記事の作成をいい加減にあきらめて、下書きに使うはずだったWordを閉じた。小さく諦念の息を吐いた後、両耳にイヤホンをさし込む。選択した曲は、平原綾香の『スマイル スマイル』。彼女の素晴らしい歌声が、全身を流れてゆく。この曲が終わったら、明日に備えて眠るつもりだった。
と、その瞬間とき――。
彼女は曲中で、何かとても大事なことを教えてくれた。

大人になるってことは
忘れてゆくことじゃない
自分以外の誰かを想う気持ちが
強くなるってこと

出典:うたネット

なるほど、それはこういうことかも知れない――。
私は、先ほど閉じたばかりのWordを再び立ち上げた。書ける。きっと1000字くらいであれば書ける。平原綾香が、大事なことを教えてくれた。思い切ってこの場で書いてしまおう。先刻の5時間に及んだ粘りの努力を、今ここで、結実させてみせるのだ。古代インドの修行僧が「石の上にも三年」を主張するならば、令和の時代を生きる私は、「パソコンの前に五時間」を以て対抗しよう。私は、書く。今日中に、書き切ってみせる。明日の寝不足には、目を瞑ることにしよう。リミットは、60分。

2週間前のことだ。
10月26日の晩。私はあまりの憂鬱に、ベッドの上で死にかけていた。このとき私は未だに、自身の存在価値に関し、悩みに悩んでいた。なにせ自身の存在は、私が、後世にも残る何かしらの功績を残さないことには、人々から認められることは決してないとする、誤った信念が心を巣くっていたためである。そして、私がそのような大層な功績を生涯のうちに残せる可能性など、皆無に等しいことは自分自身わかっていた。

そのため私は一生、誰からも認められることなく惨めにくたばっていくのだという絶望感が、私に底なしの憂鬱を感じさせていたのである。私はこうした憂鬱感にしばしば襲われては、その度、ベッド上で死んだようにしてそれに耐えるという難儀を繰り返してきた。精神科医である岡田尊司氏が、「愛着障害」なる心理状態を、キルケゴールの言葉を借りて「死に至る病」とも表現していた所以が、よく分かる瞬間でもあった。

私はどうしても、自身のこうした「死に至る病」に繋がる「誤った信念」を正したかった。

私の存在価値は、なにも「偉大なる功績を残せたかどうか」にはらない。他者からの評価にだって依っていない。そんな功績なんて残せなくたって、他者から評価されることがなくたって、自分の存在価値に関しては自身で決定してよい。自分で自分の存在価値に確信を持てなければ、永遠に「死に至る病」は治らないと、自身に何度も言い聞かせてきた。けれども、「頭で分かること」と「心の底から得心できること」は全くの別物で、私はどうしても、自身の存在価値を自ら肯定的に評価することができないでいた。

ただ、この日はどうも勝手が違った。私は、自身の心を納得させるための言葉を手に入れたのである。それは、

人が他者のどこに価値を感じるかは、人それぞれだ

という言葉であった。私はこの言葉によって、人間の持つ“多様性”に救われた思いがした。
それと同時に、今でも私の周囲にいてくれている人々について思いを巡らせると、私は当たり前のことに気が付いたのである。私は未だに、全く何の功績も残せていないけれど、それでも彼らは私と関わってくれている――その事実に、気が付いたのである。いや事実そのものに今「気が付いた」というのではなく、その事実は先の

人が他者のどこに価値を感じるかは、人それぞれだ

という言葉の最高の裏付けとなっていることに、気が付いたのである。その刹那、私の憂鬱は嘘のように晴れてしまったのだった。嘘のような話であるが、あれ以来、私は「自分は誰からも認められない」という誤った信念に惑わされ、憂鬱な日を過ごすことがまるっきりなくなってしまった。(あくまで今日に至るまでの2週間の話である)

さて、長年苦しめられてきた「承認欲求」の呪縛から解放された私の眼前に広がる世界は、これまで自身の見ていたそれとは全く異なっていた。私は、今、ここで、人々から認められる努力を無理にしていなくても、その存在に価値を感じてくれる人は今のままの私に、何かしらの価値を感じてくれているという事実を、真正面から受け入れることができたのである。これは、
「誰彼からも認められていないと自分は存在している価値がなくなってしまう」
と感じていた以前の私とはまるで異なった信念であり、価値観であり、考え方であり、そのため対人関係において感じられていたこれまでのストレスが、著しく軽減されているのも感じることとなったのである。これは非常に嬉しいことであった。もしかすると私は、長年ずっと抱えてきた「人間不信」を克服することができるのではないかという期待さえ、生まれるほどだった。

しかし、これには“副作用”もついてきた。私はこれまでずっと、
「偉大なる功績を残さなければ自身の存在が認められることはない」
という信念を持って生きてきた人間である。これまで私は、特にこの一年半は、
「どうしたら他者からの承認を得ることができるか」
「どうしたら自身の存在価値に関する誤った信念を正すことができるか」
ということばかりを考えて生きてきた。私のやること為すこと全てが、これらの課題と密接に関わっており、言ってしまえばこれらの課題の解決は「自身の人生の目標」であったとしても、過言ではない。それだから、上述した二つの課題が(仮に一時的であっても)解決してしまった今、私は人生の目標を失いし抜け殻のような状態になってしまった。

心中は穏やかながら、日々、何もやることがなく、ただ暇を持て余しているだけの生活がこの2週間、続いている。私は、これまで殆ど観ることのなかったテレビを頻繁に視聴するようになり、YouTubeで目的もなく時間を潰すようになり、隙間時間をこれでもかというほど無駄遣いするようになり、その一方で本はすっかり読まなくなり、心理学の勉強にも手がつかず、ブログを書くにしても、何だか気分が乗らず、実は今「過干渉のおばあさんに育てられた桃太郎の話」に挑戦しているのだが、その作成に至っても遅々として進まず、全体的に無気力で、野心も向上心もなく、喜びも悲しみも少なく、却って人生に退屈するという体たらくな状態に陥ってしまったのである。

私は考えた。人生とは、くも退屈なものであるべきなのか。
確かに心中はまこと穏やかであり、なにせ私が生涯の間に偉大なる功績を残したかどうかということに囚われなくても一向に構わないと感じられたその心境は、とても心地よいものである。けれども、どうも今のままでは無気力過ぎていけない。きっと何か、人生において足りていないものがあるはずだ。私が見落としている、“何か”があるはず――私にはそう思えて仕方がなかった。

そんな考えが頭の片隅にあったからであろう。くだんの『スマイル スマイル』の一節、

大人になるってことは
忘れてゆくことじゃない
自分以外の誰かを想う気持ちが
強くなるってこと

出典:うたネット

が、胸に響いた。

なるほど、それはそういうことかも知れない――。

私に足りていないのは、「自分以外の誰かを想う気持ち」なのかも知れない。誰かを思い遣る言動を取ることが、これまで、自身の承認欲求を満たすことばかりを考えて生きてきた未熟な私の精神性を、「大人に」してくれるのかも知れない。そうした精神性の獲得こそ、今自身の陥っている無気力感の突破口となる可能性がある。

そうと決まれば、話は早い。

人様からどうしたら認められるかを考える期間は終わった。

これからは、人様をどうしたら喜ばせられるかを考える期間にするとしよう。
 
 

(3000字超。リミット51分オーバー)

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