心理系大学院に入学しておおよそ5ヶ月が経過した。私は今、「この世から消えてしまいたい気持ち」と格闘する毎日を送っている。
一体、何があったのか。その答えは「失恋」である。私は今から2ヶ月前、好きになった同級生に告白をし、その女性に振られた。それ以降、どうにも自己嫌悪感が強まり、メンタルが相当、参ってしまっている。
大学院入学前は恋愛をするつもりなど さらさらなかった。元々、私が頭と心に大きな問題を抱えていることもあって、この二年間に渡る大学院生活は、自身の今後の人生の懸かった「最大の正念場」であると捉えていた。であるから、私は大学院を無事に修了するため、入学後はひたすら勉学にのみコミットする「つもり」であった。
――「つもり」であったのだが、入学してから1ヶ月半が経った頃、その予定が崩された。私はある女性を好きになってしまったのである。
「恋」などというものは、まさに正念場を迎えている私にとって あまり有益にならないことをよく理解していた。私は必死で気持ちにブレーキをかけようと努めたが、一旦 内より湧き上がってしまった原始的情熱を理性によって統制することは、ついぞできなかったわけである。
そうして私は、玉砕した。2ヶ月前のことだった。振られた瞬間は、これまで生きてきた世界がみるみる色を失っていくような空虚感を覚えた。「ああ、やっぱり自分には魅力がないんだなあー」と、自己嫌悪に陥った。
ただ、今回の一件が「好きになった女性に振られた」という一事のみで終わっていたならば、ここまでメンタルを負傷することはなかったと思う。私にとって何よりつらいのは、その女性が ある男性の前では、私には決して見せない特別な顔を見せていること、そしてその様を定期的に見なければならない状況に置かれていることにある。
件の女性には、大変仲の良い男性がいる。一学年上の、魅力溢れる先輩である。俗にいう「陽キャラ」でありコミュ力が高く、女性の扱いに非常に慣れていながら、しかし軽率さなどは決してなく、学業に真剣に取り組んでいるのが日頃の言動から感じ取られる。おまけに、心理学専攻の学生にありがちな繊細さや優しさも兼ね備えている――と、ここまで書けば、いかに魅力的な人物であるかが分かって頂けると思うが、その男性と、例の女性とが、大変仲睦まじいわけである。特に最近になって、急接近しているように感じられる。院生全員が集まるようなイベントがあった折には、二人くっついて、楽しそうに過ごしているのをよく見かける。他の院生が「あの二人、傍から見ればカップルにしか見えないよね」と陰で指摘するほどの雰囲気の良さが、二人の間にはある。
彼女は、その男性のことを心より尊敬しているようであり、また一緒に過ごしている時は心底楽しそうで、会話の中で、その男性に自分のことを理解して貰おうと積極的に自己開示をしている。私の前では決して見せることのない表情や言動の数々が、ある男性の前では表出されている現実を目の当たりにする度、私は劣等感と、惨めさと、孤独感と疎外感と絶望感を覚える。こうしたネガティブな感情群が、まるで胸中を抉り取るような痛みとして知覚されることによって、私は今、毎日のように、消えてしまいたくなるほどの苦しみに苛まれている。
私にとって、「振られた」こと自体よりも、「あなたが一番だよ」と世界で最も言って欲しかった女性が、私ではなく別の男性を一番に据え、ずっと重要視しているという事実の方が、100倍も、1000倍もつらいものに感じる。私がどんなに手を伸ばしても届かないものを、彼はその女性から沢山与えられている。その事実が、いかに「自分という人間に魅力がないか」ということを、一層、際立たせているように感じられる。自分の核が、生身が、何の緩衝も経ることなく直接損傷されているような痛みを感じる。苦しい。心がぶっ壊れるほどに、苦しい。
私にとって、「恋愛」と「病理」とは紙一重の関係にある。
私は両親との愛着形成に失敗している。私は両親から、無条件の愛情だったり承認だったりを与えられないまま大人になった。
であるから、私は自身の存在を無条件に肯定するだけの基盤を根っから欠いてしまっている。自分で自分を認める術を持たないので、他者から何らかの形で承認されることでしか、自らの存在を肯定することができない。
そのような状態にあって、取り分け重要な他者である「好きな人」から承認されないことは、私にとっては親から承認されないのと同じ程度の自己嫌悪をもたらすように感じられる。今の私は「好きな人」からの承認を以てしか、自己を肯定する術を持てないでいる。にも関わらず、その人からの承認の得られないこの現実によって、まさに自身の存在全てが否定されたような感覚に陥っており、直視するに耐えない地獄にいるような感覚さえ覚えている。
愛されない苦しみと、自己の存在を自身で肯定する術を持たない苦しみ。自身が最も欲している承認を、別の誰かが得ていることへの強烈な羨望と敗北感。これら苦悩の処理に、窮している。激烈な痛みを何処にも放散できず、一人心に抱え込みながら「死んでしまいたい」と口にする日々。惨めだ。私は、自分が惨めで仕方がない。
私は、「私」という人間が、他者の目に魅力的には映らないことを知っているつもりである。
私は自分に自信がない。他者からの承認によってしか、自己の存在を許し、肯定することのできない人間である。であるから、私は “他者から認められるために作り上げた意思や感情” によって生きてきた。私には自分独自の価値観や考え方の様式といったものが育っていない。ただ眼前にいる他者に気に入られるため、自身の言動を、考えを、感情を、その瞬間瞬間で相手の価値観や期待にシンクロさせることに心血を注いできた。私は自分の意思に乏しい、迎合マシンであった。私には「私らしさ」というものが殆ど存在しないため、関わっていて、たしかに無害ではあるけれど、刺激を大いに欠いた人間として認識されるはずである。私の発言やその一挙手一投足の裏には、「私らしさ」というものが流れていない。私の言動の裏には、これまで培ってきた独自の価値観や経験の重み、痕跡といったものが、何も感じられない。ただ相手に調子を合わせているだけの、根っこのない浅薄で、ふっと風が吹いたら消えてしまう、砂場のお絵描きのような空虚なものに過ぎないのである。
加えて私は、かなりのコミュ障である。私は自身の このコミュ障具合に、心底 閉口しているのだが、とにかく、「喋り」というものが大変、苦手である。先ほど述べたように、私には「私」というものが欠如しているので、相手の話に、上手く感想やコメントを返すことができないし、疑問を持って深掘りすることもできないし、自分の話をするということもできない。面白いことも、気の利いたことも言えない。ただの相槌マシン、赤べこマンにしかなれず、コミュニケーションというものを通じて、誰かと仲良くなるということが難しい。むしろ話がまるで盛り上がらないことによって、相手に気まずい思いばかりさせている。
コミュ障と何らかの関係があるのかは分からないが、私は「カウンセリング」も上手く行うことができていない。クライエントの話を伺って、カウンセラーとして何かを訊いたり、お伝えしたりしなければいけない場面でも、私は何を喋ったら良いのかがまるで分からず、沈黙してしまう。同級生は、完璧でないにしても何か質問をしたり、感じたことを伝え返したりといったことをできているのに、私だけが「頭が真っ白」状態から抜け出せずにいる。私は、カウンセリング技術においても相当、劣っている。
おまけに私は、知的能力にあまり恵まれなかった。前頭葉の一部に機能不全があり、情報処理の点で著しい難を抱えている。
私たちの脳みそは、外界から取り入れた情報を自分なりに組織化ないし体系化し、意味あるものに統合する機能が備わっている。ここで、受け取った情報を「意味ある形に統合できる」からこそ、私たちはその情報を理解し、記憶し、適宜アウトプットすることができる――すなわち、学習を行える――わけなのだが、私はその「統合機能」が下位1.2%の水準程の著しい障害を受けているため、こと物事を理解したり、記憶したりすることに困難を生じやすい。
であるから、私は学習したことを人並みに使いこなせるようになるまでに、人様の何倍も工夫と努力をする必要がある。大学院の授業にはもちろん着いていけないことが多いし、ディスカッションなどやろうものには、私だけ議論に着いていかれず悲惨なことになってしまう。最も凄惨だったのは、知能検査の演習の授業であった。子ども用の知能検査を同級生皆でやらされたのだが、明らかに私だけ出来が悪く、酷く惨めな思いをした。授業後は誰もいない教室に逃げ込んで、悔しさにひとり、涙を飲んだものだった。
…そのようなわけであるから、「私らしさ」というものが日々の言動から感じられず、取り分け自身の意見や感想も持たず、思考に深みがなく、コミュ力やカウンセリング技術にも乏しく、授業にも着いていけていない、知能も低そうな私の様を見て、「ああこの人は魅力的だな」と思われないことは、火を見るより明らかであることは理解している。
他者から魅力的であると思ってもらえるような要素を持たない私を、自分自身肯定することも難しい。
両親から「ただ存在していることに価値があること」を教わらずに大人になった私は、「他者から魅力的に映らない自己」を受け入れ、抱え続けるだけの絶対的な支えを持っていない。だから、自己嫌悪にブレーキをかけることが難しい。自己嫌悪の奈落の底が、深すぎる。最後の最後のところで、自己嫌悪への自由落下を止める支えとなってくれるような、愛情に満ちた体験が私の中には、ない。
寂しい。物凄い孤独感を覚えている。私が人生を懸けて求めてきた欲求や願望が、私以外の他者間でのみやり取りされていて、決して私の元には、それが回ってこないような疎外感。周囲が笑い合っているのを指咥えてただ眺めていることしかできないボロボロの欠陥人間、それが私。そんなイメージが、頭を旋回し続けている。
誰からも愛されることがなく、「どんなことがあってもあなたには価値があるんだよ」と言って貰える機会のなかった人生は、とても空虚なものに感じる。
「どんなことがあっても価値がある」と言って貰えなかったどころか、私の心底に巣食っているのは「お前は他者を不快にさせる存在だ」というネガティヴな信念ばかりである。私はこの信念と一人で戦い続けてきたつもりだけど、ちょっと今回の一件で、心のキャパシティを超えるような打撃を負っちゃったな、と感じている。
けれども――。
けれども――これは前回の記事でも述べたことだけれど――「人の魅力」というものについて、少し視点を変えてみると気付くのだけれど、「何の魅力もない人」っていうのは、実は存在しないのではないかと思われるわけである。
私が実習先でお世話になっている指導者の方が、先日、こんなことを仰っていた。
「対人援助の仕事をする上で、『欠点』というものは存在しないんだよ。なぜなら、あなたがその『欠点』を持っているということは、その体験を引き出しにして、あなたと同じような悩みを抱えている人の気持ちを理解することができることを、意味しているのだから」
――この言葉にも表れているように、「魅力のない人」というのは、やはり存在していないように思われる。問題なのは、「何も魅力がないこと」ではなく、「持っている魅力をその人自身が認識できていないこと」や、「その魅力が他者に伝わる形で表出されていないこと」なのではないか。原石がないのではなく、それが輝く形で加工されていないことが、問題なのではないだろうか。
だから、諦めてはいけない。
「自分が既に有しているはずの魅力とは、一体、何なのか」――それを徹底的に分析することによって、俗にいう「魅力ある人」になるための第一歩を、踏み出せるはずなのである。
従って、徹底的に自己理解を深めていくことは、凄く重要なことなのではないかと考えている。自分はこれまでの人生において、何を経験してきたのか。そこでどのようなことを考えたり、感じたりしたのか。そしてその経験を、今後どのように活かしていきたいのか――そういった事柄を徹底的に深掘りし、言語化していくことが、「自己の魅力を認識し、それを表出できるようになる」上で、重要なのではないかと思うわけである。
私は同級生に振られてから、この「自己分析」を更に進めていくことにした。
私は、上に述べたように、心と頭に大きな問題を抱えており、様々な苦労を経験してきた。
・両親との愛着外傷によって、自分を肯定できないこと
・なかなか人を信じることができず、人間関係が上手くいきづらいこと
・学習障害によって、勉強面で相当苦労をしたこと
・自分のような社会不適合者が人生を充実させるイメージが湧かず、人生に絶望していたこと
・こうした心や頭の問題を理解してくれる人が周りにおらず、ずっと孤独感を抱き続けていたこと
こうしたことを洗い出した上で、「その経験を今後どう活かすか?」「そこから自分はどう生きていきたいか?」を深掘っていった。そこで私は、
⚪︎私の人生を通じて、私のような愛着や脳機能の問題を抱えていても、幸せに生きることはできるのだという「希望」や「勇気」を与えたい
⚪︎私のように、誰からも自分の悩みを理解されない苦しみや孤独を抱える人を減らしたい
といった気持ちが、自身の内にあることを見出した。
その他にも、
・コミュ障すぎて人と仲を深めることが難しいこと
・好きな人がコミュ力の高い男性と一緒にいるときとても楽しそうにしていたこと
等から、
という独自のコミュニケーション論を、
から、
といった独自の勉強・学習論など、様々な「人生論」、「自分軸」を言語化していった。
こうして言語化された人生論や自分軸こそ、「自分の魅力」の原石であると考える。あとはこの原石を磨いていく必要があるのだが、それは「自分軸に沿った言動を実際に取り続けること」によって、達成される。
私は先ほど、「自分と同じような境遇の人に希望と勇気を与えたい」という自分軸を言語化した。もし、その軸に沿った言動を日常生活において取るのであれば、私は今回の「失恋」によって心を潰されてしまうわけにはいかない、ということになる。私は今自身が抱えている困難をきっと乗り越え、自らの人生(成功体験)を通じて、同じような境遇の人が「ああ、この人が幸せになれているなら私も幸せになれるかもな」と思えるようなロールモデルをお示ししなければならない。であるならば、そのための学習を続けていかなければならない、ということになる。こうした軸が見出されたからこそ、私は今なお、「ここで倒れるわけにはいかない!」と、消えてしまいたくなる自己を鼓舞しつつ、何とか勉強を続けることができているのである。
同じように、「誰からも自分の悩みを理解されない苦しみや孤独を抱える人を減らしたい」という自分軸からは、「他者の考えや感情を端から否定せず、理解しようとする試み」や「心理療法理論の学習によって他者理解のための引き出しを増やす」といった行動として、
「コミュニケーションによって好きな人を楽しませられるような人間になりたい」という自分軸からは、「自己開示、理解、共感、コメント、深掘り、ボケ、いじり等のスキルを体得するための努力を継続する」といった行動として、
「学習障害対策として、人様より時間と創意工夫を凝らした学習を行う必要がある」という自分軸からは、例えば
・そうした困難は情報の「組織化・体系化」が脳内できちんと為されないことに起因しているので、そうした「組織化・体系化」を脳内ではなく脳外の媒体に一旦まとめ上げることによって、その機能を代替するよう心掛けた勉強を行う
・上記作業後は長期記憶への転送を必ず行う
・人並みに物事を学習するのに人様の数倍の学習時間を要することを受け入れ、そのための時間を確保する
といった一貫した行動として、表にあらわれてくることになる。
これらの行動は、「眼前の他者に気に入られるために作り上げられた偽りの行動」ではなく、「自分の人生経験から生み出された独自の人生論に基づく行動」である。こうした行動は、まさに「その人らしさ」として他者の目に映ることとなるばかりでなく、自身の信念に従ったものであることから、こうした行動を取り続けることを通して、自分に対して肯定的な感情を抱きやすくなるものと考えられる。これこそ、「自身の魅力の原石を磨く」という行為――自身の魅力を自他共に認識して貰うための行為――になるのではないか、と考えている。自分の言動に軸があれば、それがその人特有の「魅力」として認識され、「刺さる人には、刺さる」ということに、なるのではないか。
――そういうわけで私は、自身の魅力を表に出すための努力を必死に続けているのである。ただ、こうした努力は本当に大変で、つらい過程だと今、まさに実感している。現在、私という人間が魅力あるものとは到底認識され得ない状況にありながら、その現実を絶対的な心の支えを持たないままに、自身の置かれた境遇、弱さと直面しながら、惨めさや悔しさ、孤独感を抱えつつ努力を継続するということに、物凄いキツさを感じている。毎時「消えたい」「死んでしまいたい」と呟きながら、勉強をし続ける日々である。
今は全く結果が出ていない中で、将来に花を咲かせるための努力をし続けることの、言語を絶する苦しさ。私は今、それをめちゃくちゃ実感している。ただ、自身の恋愛事情だけに留まらず、人生を根本から変えていきたいのであれば、こうした努力は必要不可欠のもののように感じている。だから私は、必死に「消えてしまいたい気持ち」を堪えつつ、テキストを広げたりコミュ力を勉強したり、自分軸の深掘りやアップデートを行ったりしている。
私はこうした経験を通じて、
痛みを抱えつつ忍耐や努力のできる人や、
何度絶望しても、そこから僅かな光を見出して生きている人や、
人から愛されない痛みを知っていたり、他者の心の痛みに寄り添おうとしたりできる人を、心底 素敵であると思うようになった。
私が今回 体験したダサく惨めな失恋が、同じような境遇にある誰かの、生きる気力を引き出す糧になればと思っている。
初めまして。
つい最近このブログに辿り着き、毎日のように読まさせていただいております。
私も幼少期、親の別居から自分の居場所を失い、愛することを忘れ、自分を偽りながら苦しめながら生きてきました。
そんな自分を根本から改善すべく、日々心の奥底の傷と戦いながら過ごしております。
恋愛についても同じような経験をして、傷ついてきました。「男らしくない」「異性として見れない」などの言葉に心底傷つき、同時に自分を痛めつけ、負のループに陥っており、女性不信や恋愛恐怖症のような感覚や、自己否定をしまくってました。
最近はこのブログのおかげで、内省をするようになり、すこしづつ前を向いて生きていけるきっかけをいただいております。
本当に助かっています、ありがとうございます。
今の世の中、苦しいことも多いですが、良いことも辛いことも紙一重で、自分に必要なことだから必然的に起きていると思って、前向きに捉えています。
私だけでなく、このブログに救われている人が間違いなくたくさんいますし、同じ苦しみを味わった者だからこそ、他者の痛みもわかってあげられると思い、私も鶏さんのようなお人になりたいと思って日々自分と向かい合っています。
今の自分にとって、このブログの存在は生まれ変わるため、この先の未来を生きるためのバイブルになっています。たまたまとはいえ出会えたことに本当に感謝していますし、ずっと応援させていただきます。
辛いことも苦しいことも多いですが、自分というかけがえのない存在を大切に、引き続き頑張っていきましょう!
ありがとうございます。そのように言っていただけて嬉しいですし、ブログをやっていて良かったなと心底思えます。
ビリー507さんも、幼少期の傷を抱えながらご自分と向き合おうとされていらっしゃるのですね。恐らくこれまでに、かなりつらい体験を重ねられてきたであろうと推測しますが、その中にあってもなお、前を向いていかれようとされているところにビリーさんの逞しさを感じます。
私はいずれ自身の夢や目標を叶え、人生を充実させさせた後に、私と似たような境遇にいたり傷を抱えたりしている方々に、「世の中には私のような人間もいるんだよ」ということをお示しすることによって、希望や勇気を与えられるような人間になれればと思っています。もしこの考えに共感いただけるようでしたら、いずれビリーさんが安定的に幸福を感じられるようになった折には、その旨をご報告いただけると幸いです。そうした成功体験の集合が、同じような境遇にある人々の希望になるものと思います。
更新頻度は随分少ないのですが(苦笑)、今後とも当ブログをよろしくお願いします。
05r6az