10月に入ってから、仕事で上手く行かないなぁ、と感じさせられる様々の出来事が立て続けに起こり、仕事に対しいつも以上の憂鬱を覚えるようになっていた。私は初めのうち、この仕事の憂鬱を「最近仕事で上手く行かないから辛くなっているのだ」という単純なモデルで解釈していた。従ってその対処として、「眼前の出来事を短期的スパンでなく、長期的スパンで解釈する」取り組みを自分の中で行っていた。これは大学時代に身に付けた対処法であり、「今は辛いかも知れないけれど、それを乗り越えた先には自身の人間的成長があるのだから兎に角今は頑張ろう」という動機のもと自身の忍耐のキャパシティの上限を押し上げるという、言わば認知矯正による一時的な対処である。
が、どうも自身の直感が、この「最近仕事で上手く行かないから辛くなっているのだ」とする解釈について釈然としないままでいた。確かに、ただここ最近仕事で上手く行かないことが重なったというだけで、こんなにも身体全体が緊張して鬱々としてしまうのはおかしい。そこで私も色々と考えた。そうして辿り着いた結論が、本記事のタイトル――
実力以上の結果を出そうとするから辛くなる
――これである。私は与えられた仕事において、自身の理想としている結果を出すだけの実力が無いのにも関わらず、それを出そうと躍起になって、出来もしないことをしようとして、そうして自滅していたのである。
これは何も今に始まったことではない。私には昔より、「自分の実力を超過した結果を出そうと躍起になり、自滅してしまう」という性格特性がある。この特性によって、これまで多くの心の傷を負ってきてしまったものだったが、今となってもその特性は維持されたままである。と言うのもこの悪い特性は、自身の内面にある「過度の承認欲求」が根本的原因となっているためである。私は昔から、過度の承認欲求に支配されて生きてきた。人様から「凄い!」と言われたい。自身の属するコミュニティにおいて、自身は優秀な人材でなくては受け入れて貰えない。そうした幼児的願望、強迫的観念の奴隷として、これまで人生を送ってきた。人様から「凄い!」と思われないと自身の存在価値を自分で認められないものだから、これまで必死になって人様からの賞賛を集めようとして、無理をしてきてしまった。そして、そうした試みによって、過去に様々の辛酸を嘗めてきた。もう、これ以上の失敗は御免である。だから私はこの頃、自身の「過度の承認欲求」への対応に心血を注いでいるのである。最近の私の休日の過ごし方は、その大半が、「自身の過度の承認欲求への対処」に費やされている。費やされてはいるのだが、この承認欲求、なかなか鎮まってくれない。承認欲求の克服は、タバコやアルコール依存から脱却するよりも難しい、などと書いている本もあるほどである。私も覚悟を持って、日々の生活の中から自身の承認欲求の芽を見つけては、その都度バリバリと刈り取っていくのだが、周辺の芽を刈り終え一汗拭って、来た道を戻ろうと振り返ると、そこには刈り取られた枯れ草の隙間という隙間から青々と顔を覗かせる、新芽の数々。なるほど過度の承認欲求に対処し自己肯定感を育む行程というものは、一筋縄ではいきそうにない。
私は仕事においても、職場の人達から「亀井君は良い仕事をしているね!」と言われたいがために、自分の実力以上の結果を出そうと無理をしてしまうのである。職場で認めて貰えないと、まるで自分の存在価値が失われてしまうような錯覚に囚われているから、どうにかして結果を出そうと無理をする。そうして、果たして今日は上手く行ってくれるのか、仮に今日が上手く行ったとしても明日も上手く行ってくれるのか、明日を乗り越えたとしても明後日はどうか、と、四六時中、ちっとも休まる暇が無い。断続的に、「実力以上の結果を出さねばならない」という強迫観念に押し潰されている。そうして身体は先行きの見えぬ不安による緊張から過度に硬直し、それによってただ呼吸をしているだけでも息苦しくなってくる。そんな心理状態で上手く行かないことがあった際、たかだか仕事における一つの失敗(厳密には「失敗」ではないのだが)によって、まるで自身の存在価値をも同時に否定されたような気持ちになってしまい、必要以上に傷付いてしまう。もっと気楽になれ!誰も私に、実力以上の結果を出すよう、自分の思うような過度の期待をしている人間などいない。仮にいたとしても、その人の期待に応えることは非常に難しく、それは叶えられるものではない。順序を間違えるな。正しい順序は、「相応の実力→納得のいく結果」というものであって、その逆では決してないのだ。逆をやろうとすると、きっといつか自滅するし、その先にも、幸福など待っていやしない。やるべき努力は、理想の結果を実現するための実力をつける努力なのであり、小手先のテクニックや運頼みで実力以上の結果を出そうと緊張することでは決してない。
また、人の存在価値は、何も社会的承認によって決定されるものではない、ということを肝に銘じておくことが大切である。人の存在価値とは、入学試験のように、1点でも点数が上の者の方が価値が高い、というわけのものではない。社会的に偉いとか、偉くないとか、高収入かそうでないとか、存在価値というのは、そういった優劣の尺度で測られるべきものではない。
例えば。
旅行に行ったお土産に、鳥のぬいぐるみを買いたいと思う。そこで、店頭に並ぶ種々の鳥達に目を遣る。何の変哲もない毛むくじゃらの鳥がいる一方で、高級感あるパイル織りの鳥、レーヨン素材の鳥、ひときわ大きな鳥、はたまた内部に炭が入っており消臭効果の期待される鳥…というように、様々の個性溢れる鳥が並んでいる。その中で、それでも購入者は、何の変哲も無い毛むくじゃらの鳥を手に取り、「これがいい」、「これが一番好き」と言って、その毛むくじゃらをカゴに入れて購入し、以後ずっと大事に持っていた。
これは別の例。
お家で、インコを飼っている。何処のペットショップに行っても手に入る種のありふれたインコである。そのインコの名を「コジロウ」とでもしよう。
一方で、隣の家ではその辺のペットショップでは到底手に入らない、希少種のインコを飼っている。コジロウは、社会的価値において、隣家のインコに負けている。第三者がより大きな価値を見出すのは、間違いなく隣家のインコである。けれどもコジロウを飼っている家にとっては、より価値のあるインコは隣家のそれではない。コジロウが何より価値ある大切な存在なのである。
あっちの方が美しい。けれども私はこっちが好き。
あっちの方が人気がある。でも私はこっちが好き。
あっちの方が値段が高い。それでも私はこれが好き。
「好き」とは、そういうことである。「愛着」も同様、そういうものである。存在価値とは、「好き」とか、「愛着」といった類のものである。それを、しっかりと頭に留めて置くことである。
こうして(このような認知矯正を試みることで)私は、必要以上の仕事(何も仕事に限らないのだけれど)に対する憂鬱を払拭しようと試みている。しかし先述したように、承認欲求の新芽は次から次へと出てくるもので、油断すると、すっかり承認欲求に自身をコントロールされている。自分が傷付きたくないあまり、仕事でも日常生活においても、まだまだ腰が引けている。承認欲求への対処は、タバコやアルコール依存の矯正よりも難しい。だから、これからも沢山、このような過度の承認欲求の課題に何度もぶつかることになるのだろうけれど、それでもめげることなく、一歩一歩前進して、ゆくゆくは自分の存在に肯定感を与えられるようになって、自分への自信溢れる人生を送っていきたいものだと思う。
今日の記事も興味深く拝読させて頂きました。
承認欲求との向き合い方、私にとっても人生テーマです。
自分の好きに正直に生きる勇気をもつことが、幸福に繋がるのかなと改めて思えました。
記事の更新たのしみにしております。
有難うございます。もしかするとこの先、承認欲求を扱う記事が多くなるかも知れません。
過度の承認欲求を克服した先には、人生が本当の意味で輝き出すそうですよ。希望がありますよね!