ただ「生きている」というだけで、罪悪感を抱えながら生きている人が、この世には一定数いる。
別にその人は取り分け、何か悪いことをしたわけではない。人様に何か特別、大きな迷惑を掛けたわけでもない。
別に人を傷付けたわけでも、怒らせたわけでも、悲しませたわけでもない。ただその人は皆と同じように、普通に生きていただけである。
それにも関わらず、その人は罪悪感を抱えている。その罪悪感にはこれといった根拠がない。理由はなく、ただ、よく分からないのだけれど、なぜか漠然と、自分が人様に迷惑を掛けているような気持ちになっている。また自分は、この世に存在していてはいけないような感覚にも襲われている。
生きることそのものや、自分の存在というものに罪悪感を抱えているので、その人は常に世間に対し、後ろめたさや気まずさを覚えている。周囲に対しいつも気が引けているので、人からの頼み事を断ることは到底できず、人からの助力を借りるなんてことはもってのほか、人からの好意さえ、心より浸ることができない。
仮に人から自身の存在を蔑ろにされるようなことがあっても、それに対して抗議をしたり、怒りを表明したりすることはできない。それも全ては自身に“やましさ”を感じているためであるが、その“やましさ”には、特に根拠がない。ただ漠然と、やましさを抱えているだけである。
こうした、それを抱える人々の人生の質を著しく落としかねない、「漠然とした罪悪感」。
今回は、早稲田大学名誉教授の加藤諦三著『人生の悲劇は「よい子」に始まる』をもとに、その正体を暴き出してみる。
▼目次
1. 「相手の不快感の責任は“自分”にある」という錯覚
1.1 親の不機嫌を子供の責任にする親
1.2 やたらと恩着せがましい親
2. 自分の存在を認められていない
2.1 相手の役に立っていなければ落ち着かない・申し訳なくなる
3. 「漠然とした罪悪感」を取り去る方法
1.「相手の不快感の責任は“自分”にある」という錯覚
例えば、学校や職場で友人、または同僚とすれ違いざまに挨拶を交わした際、どうも相手の機嫌が悪そうだと感じたとする。その時、“相手の不快感の責任”をどこに帰着させるかによって、その人の抱える心理的負担はまるで異なってくる。
「友人(同僚)に何か嫌なことでもあったのだろうな」と考えれば、それは“相手の不快感の責任”が相手にあることになる。一方で、
「自分が友人(同僚)に何か嫌なことでもしちゃったかな」と考えれば、“相手の不快感の責任”が自分にあることになる。
後者のような、「相手の不快感の責任は“自分”にある」という感覚が心底に根付いている人は、常に人様に迷惑を掛けているような気分になってしまう。他人の一挙手一投足が、いちいち、自分に対する非難として受け取られてしまうのだ。
このように、明確な根拠もなく「他者の不快感の責任が“自分”にある」ような気がしてしまうのは、概して、その人が幼少期の親子関係の中で、「親の不快感の責任を自分に求められること」を強いられてきたためである。
幼少期の親子関係が、子供の、その後の人格形成に及ぼす影響は計り知れない。
人間の子供というのは、他の動物と異なり、あまりに無力である。そのため人間の子供は、周囲の環境に大きく依存せざるを得ない。
そのため、子供はその幼少期、周囲の大人が自分をどのように扱ったかによって、自分自身を扱うようになりがちだ。
周囲の大人から愛情深く育てられた子供は、自分自身を「大切な存在だ」と認識し大事にしようとするが、反対に愛情の乏しい環境で育てられた子供は、自分自身を「取るに足らない存在だ」と認識し、粗雑に扱う傾向にある。
同様にして、その幼少期、「親の不快感を子供の責任にする親」や「やたらと恩着せがましい親」に育てられた子供は、自分の存在に対し、どこか後ろめたさを抱えることになる。
1.1 親の不機嫌を子供の責任にする親
心理的に未熟な親は、自身の人生におけるイライラを、頻繁に子供にぶつけることがある。
職場でのストレス、良好でない夫婦関係、人生が思い通りにならないことや、自分に対して自信がないことによって生じたイライラを、子供のせいにし、それを非難することによって発散しようとする。
そのきっかけは何でもよい。好き嫌いをしたとか、口の利き方が気に入らないだとか、テストで悪い点数を取ったとか。兎に角、何でもよい。子供の失策を、ここぞとばかりに非難し、憂さ晴らしをする。
私が今でも記憶に残っている、小さい頃のエピソードを紹介する。私が人生で初めて、一人でお風呂に入った日のことである。
私が一人で湯船に浸かっていると、おもむろに母が脱衣所に現れ、浴室の戸を開けるとこう言った。
「湯船に浸かる前に身体は洗ったのでしょうね」
どこか責めるような言い方だった。またその表情は、どことなく苛ついているようだった。
この時、私は身体を洗わずに湯船に浸かってしまっていた。確かに、いつもは身体を洗ってから浸かっていたわけだが、この日は初めて一人で入ったということもあり、うっかりしていた。私がまずそうな顔をして「あ。」と口を開くと、
「何やってるの!汚いわねえ!」
と、烈火の如く怒りだした。私が早速、湯船から上がり身体を洗おうとすると、母は、
「もう遅いからいいよ」
とたたみかける。私が「ごめんなさい」と謝ると、
「“ごめんなさい”じゃないでしょう!」
と返ってくる。もう、取り付く島もなかった。今にして思うと、この一件はここまでして怒られねばならなかったことなのか、甚だ疑問である。
多分当時の母は、自身の私生活におけるイライラを、私を非難することによってぶつけ、憂さ晴らしをしたかったのだろうと考えている。
中野信子という脳科学者が著書『毒親』で紹介しているドラマのワンシーンも興味深い。
TBS系で放送された『凪のお暇』というドラマである。主人公である大島凪の母は、凪の罪悪感を煽ることによって、凪を自分の言いようにコントロールする術に長けていた。
トウモロコシが苦手で食べられなかった子供の頃の凪の目の前で、母は大量のトウモロコシを捨てる。そしてこう言い放つのだ
「凪が食べないからトウモロコシが死んじゃった。お母さんやおばあちゃんが大切に育てたトウモロコシなのにね」
この凪という女性も、「自分のせいで周囲が不愉快になった」とする罪悪感を嫌と言うほど味わわされるにつけ、他人が不快にしていることの責任が自分にあるような感覚を抱いてしまう大人に成長したに違いない。
――このように、「親の不快感の責任は子供にある」ことを示し続ける親の元で育った子供は、成長してからも「自分は誰かに迷惑を掛けているのではないか」という感覚に襲われ続ける。それが漠然とした罪悪感となって、その人の人生に影を落とし続けるのである。
1.2 やたらと恩着せがましい親
恩着せがましい親に育てられた子供というのも、「常に自分は人に迷惑を掛けている」という感覚を大人になってから持ちやすくなる。
恩着せがましい親というのは、自身の価値を子供に対し、これでもかと印象づける言動を取る親のことである。
子供に対し、
「あなたを育てるのがこんなに嬉しい」
「あなたと関わるのがこんなにも楽しい」
といったことを伝えることなく、
「お前を育てるために私達はこんなに犠牲を払っている」
「お前を育てるのにこれだけの金がかかっている」
「お前がいるから私達は離婚しないでいるのだ」
といったことを執拗に子供に示し続けると、子供は「自分のせいで親は愉快でいられない」と思うようになる。
こうした思いそのままに大人になった人間は、やはり自分の存在が何かと人の迷惑になっているのではないかという感覚に苛まれ続ける。こうした感覚が、「漠然とした罪悪感」としてその人に襲いかかる。
過度な恩着せがましさも、ゆくゆくは相手に対して、必要以上の罪悪感を植え付けることになる。
2.自分の存在を認められていない
自分の存在を認めることができない人も同様に、「漠然とした罪悪感」に苛まれる可能性は高くなる。
先に、「人はその幼少期、周囲からどう扱われたかによって自分を扱う」という話をした。
周囲から愛され、存在を肯定されながら育った人は、自分の存在を自分自身で認めることができる。ここで言う「自分の存在を認める」とは、「無条件に自分は生きていていい」とする、絶対的な確信のようなものである。
しかし、周囲から十分な愛情を与えられず、事あるごとに存在を否定されながら育った人は、自分の存在を自分自身で認めることができない。すなわち、「無条件に自分は生きていていい」とする絶対的な確信を持てないまま大人になる。
またそれだけでなく、幼少期に十分に愛されなかったことによる心理的欠乏感は、たとえ肉体が大人になっても、心の中でくすぶり続ける。大人になっても、幼子のように親や周囲の大人から「愛されたい」、「認められたい」とする願望が、内面に渦巻き、その人の行動を支配し続けてしまう。
2.1 相手の役に立っていなければ落ち着かない・申し訳なくなる
「自分は無条件に存在していてもよい」という感覚がないまま大人になると、常に自分の存在に対し、引け目を感じることになる。
更に、そうした人は内面に「自分のことを認めて欲しい」という強い気持ちを抱えている。
自分の存在に引け目を感じている人は、そんな自分をどうにかして人様から認めてもらおうと、自分に対して高過ぎる要求をしがちである。
常に自分が立派で、完璧で、人の役に立ち、人様の迷惑を掛けない存在であり続けなければ、堂々としていられない。そうでなければ、人から認めてもらうことはできないと思い込んでいるから、決して妥協ができないのである。それらは過剰の完璧主義や責任感の強さ、規範意識の強さ等として表れることもある。
仮に人から存在を認められるようなことがあっても、自分の望んでいたように認められることは滅多にないので、やはり心は満たされない。愛情に飢えている人の本当に求めているのは、親が自身の子供に与えるような「無条件の愛情・承認」であるから、並の承認では殆ど満たされることがない。
そして、愛情に飢えている人の求めているような愛情・承認が、親元を離れた環境にいて誰かから与えられることなど、“無い”と言って良い。だから欠乏感を抱えている人の心は、決して満たされることがない。
また当然のことであるが、一人の人間が上記のように、何事も“完璧に”こなすことなどできない。そのため、自分の思うような結果を出せないことに失望し、ますます自分に対する自信を失う。そうして尚のこと、自分の存在に引け目を感じ続けることになる。
3.「漠然とした罪悪感」を取り去る方法
「漠然とした罪悪感」を取り去るための一番の薬は、「この世には、自分(私達)と関わることに、特別な理由もなく喜びを感じる人間が存在する」という事実を知ることである。これは、「人の役に立たなければ自分は生きる価値が無い」という信念にもとづいて生きている人間にとっては、まこと信じられない事実であろう。
しかし、これは夢物語でも何ものでもなく、事実なのである。世の中の人間というのは、自分が感じているようなことを、必ずしも皆がみな感じながら生きているわけではない。すなわち、「役に立たない人間とは関わりたくない」とか、「自身の不快感の責任は全てあなたにある」とかいったことを感じながら、私達と接しているわけではないのである。
漠然とした罪悪感を抱えている人は、自分が常に人から責められているような感覚を持って生きている。現にその人の幼少期は、周囲の大人から自身の存在を否定され続けることで、罪悪感を持たされるものであったのかもしれない。
周囲の大人は、恩着せがましく、自分の不愉快の責任を子供に押し付けるような人ばかりだったのかも知れない。
しかし、既に私達は大人になっている。今、目の前に広がっている世界は幼少期のそれではなく、大人の世界とでもいうべきものである。
周囲の大人は、幼少期にいた周囲の大人とは違い、むやみに他者に責任転嫁をしたり、存在批判をしたり、恩着せがましくしたりするような人達ばかりでない。大抵の大人は、そのような様式で対人関係を組み立てるのでなく、それぞれを自立した一人の人間として尊重し、対等な関係を築きながら、コミュニケーションすることに価値を置いている。
大人の世界は、自分にとって利用価値があるから等といった、そんな理由だけで人と関わるような人間ばかりではない。ただ何となく、その相手といると嬉しいから、相手と話していると楽しいから、そんな動機で、その相手に対して好意を抱いているものなのである。だから彼らと関わる際はなにも、「常に見える形で何かの役に立っていなければ」というように、肩肘張り続ける必要などないのである。
そうしてそれらの大人は、それぞれの人間のどんな性質に価値を感じるか、各々で異なるものなのである。自分では短所と感じられていた性質も、ある人にとっては長所と感じられる、ということも往々にしてある。
従って、「常に相手の役に立っていなければならない」、「自分は人様に迷惑しか掛けていない」、「自分には生きる価値がない」等といった信念は、感じる必要がないのである。その事実を、自ら実生活における他者の観察を通じて、肌で実感することが大切である。こうした前知識がある状態で周囲の大人を観察すると、面白いほど、自分が思い込んでいた事実は「真の事実ではなかった」ことが確認せられることと思う。
「他人が、今の自分が感じているような感じ方をしているとは限らない」
それが心底より了解されたとき、漠然とした罪悪感なるものも、なくなってくるはずである。
職場でのストレス、良好でない夫婦関係、人生が思い通りにならないことや、自分に対して自信がないことによって生じたイライラを、子供のせいにし、それを非難することによって発散しようとする。
私が一人で湯船に浸かっていると、おもむろに母が脱衣所に現れ、浴室の戸を開けるとこう言った。
多分当時の母は、自身の私生活におけるイライラを、私を非難することによってぶつけ、憂さ晴らしをしたかったのだろうと考えている。
TBS系で放送された『凪のお暇』というドラマである。主人公である大島凪の母は、凪の罪悪感を煽ることによって、凪を自分の言いようにコントロールする術に長けていた。
「凪が食べないからトウモロコシが死んじゃった。お母さんやおばあちゃんが大切に育てたトウモロコシなのにね」
恩着せがましい親に育てられた子供というのも、「常に自分は人に迷惑を掛けている」という感覚を大人になってから持ちやすくなる。
恩着せがましい親というのは、自身の価値を子供に対し、これでもかと印象づける言動を取る親のことである。
子供に対し、
「あなたを育てるのがこんなに嬉しい」
「あなたと関わるのがこんなにも楽しい」
といったことを伝えることなく、
「お前を育てるために私達はこんなに犠牲を払っている」
「お前を育てるのにこれだけの金がかかっている」
「お前がいるから私達は離婚しないでいるのだ」
といったことを執拗に子供に示し続けると、子供は「自分のせいで親は愉快でいられない」と思うようになる。
こうした思いそのままに大人になった人間は、やはり自分の存在が何かと人の迷惑になっているのではないかという感覚に苛まれ続ける。こうした感覚が、「漠然とした罪悪感」としてその人に襲いかかる。
過度な恩着せがましさも、ゆくゆくは相手に対して、必要以上の罪悪感を植え付けることになる。
2.自分の存在を認められていない
自分の存在を認めることができない人も同様に、「漠然とした罪悪感」に苛まれる可能性は高くなる。
先に、「人はその幼少期、周囲からどう扱われたかによって自分を扱う」という話をした。
周囲から愛され、存在を肯定されながら育った人は、自分の存在を自分自身で認めることができる。ここで言う「自分の存在を認める」とは、「無条件に自分は生きていていい」とする、絶対的な確信のようなものである。
しかし、周囲から十分な愛情を与えられず、事あるごとに存在を否定されながら育った人は、自分の存在を自分自身で認めることができない。すなわち、「無条件に自分は生きていていい」とする絶対的な確信を持てないまま大人になる。
またそれだけでなく、幼少期に十分に愛されなかったことによる心理的欠乏感は、たとえ肉体が大人になっても、心の中でくすぶり続ける。大人になっても、幼子のように親や周囲の大人から「愛されたい」、「認められたい」とする願望が、内面に渦巻き、その人の行動を支配し続けてしまう。
2.1 相手の役に立っていなければ落ち着かない・申し訳なくなる
「自分は無条件に存在していてもよい」という感覚がないまま大人になると、常に自分の存在に対し、引け目を感じることになる。
更に、そうした人は内面に「自分のことを認めて欲しい」という強い気持ちを抱えている。
自分の存在に引け目を感じている人は、そんな自分をどうにかして人様から認めてもらおうと、自分に対して高過ぎる要求をしがちである。
常に自分が立派で、完璧で、人の役に立ち、人様の迷惑を掛けない存在であり続けなければ、堂々としていられない。そうでなければ、人から認めてもらうことはできないと思い込んでいるから、決して妥協ができないのである。それらは過剰の完璧主義や責任感の強さ、規範意識の強さ等として表れることもある。
仮に人から存在を認められるようなことがあっても、自分の望んでいたように認められることは滅多にないので、やはり心は満たされない。愛情に飢えている人の本当に求めているのは、親が自身の子供に与えるような「無条件の愛情・承認」であるから、並の承認では殆ど満たされることがない。
そして、愛情に飢えている人の求めているような愛情・承認が、親元を離れた環境にいて誰かから与えられることなど、“無い”と言って良い。だから欠乏感を抱えている人の心は、決して満たされることがない。
また当然のことであるが、一人の人間が上記のように、何事も“完璧に”こなすことなどできない。そのため、自分の思うような結果を出せないことに失望し、ますます自分に対する自信を失う。そうして尚のこと、自分の存在に引け目を感じ続けることになる。
3.「漠然とした罪悪感」を取り去る方法
「漠然とした罪悪感」を取り去るための一番の薬は、「この世には、自分(私達)と関わることに、特別な理由もなく喜びを感じる人間が存在する」という事実を知ることである。これは、「人の役に立たなければ自分は生きる価値が無い」という信念にもとづいて生きている人間にとっては、まこと信じられない事実であろう。
しかし、これは夢物語でも何ものでもなく、事実なのである。世の中の人間というのは、自分が感じているようなことを、必ずしも皆がみな感じながら生きているわけではない。すなわち、「役に立たない人間とは関わりたくない」とか、「自身の不快感の責任は全てあなたにある」とかいったことを感じながら、私達と接しているわけではないのである。
漠然とした罪悪感を抱えている人は、自分が常に人から責められているような感覚を持って生きている。現にその人の幼少期は、周囲の大人から自身の存在を否定され続けることで、罪悪感を持たされるものであったのかもしれない。
周囲の大人は、恩着せがましく、自分の不愉快の責任を子供に押し付けるような人ばかりだったのかも知れない。
しかし、既に私達は大人になっている。今、目の前に広がっている世界は幼少期のそれではなく、大人の世界とでもいうべきものである。
周囲の大人は、幼少期にいた周囲の大人とは違い、むやみに他者に責任転嫁をしたり、存在批判をしたり、恩着せがましくしたりするような人達ばかりでない。大抵の大人は、そのような様式で対人関係を組み立てるのでなく、それぞれを自立した一人の人間として尊重し、対等な関係を築きながら、コミュニケーションすることに価値を置いている。
大人の世界は、自分にとって利用価値があるから等といった、そんな理由だけで人と関わるような人間ばかりではない。ただ何となく、その相手といると嬉しいから、相手と話していると楽しいから、そんな動機で、その相手に対して好意を抱いているものなのである。だから彼らと関わる際はなにも、「常に見える形で何かの役に立っていなければ」というように、肩肘張り続ける必要などないのである。
そうしてそれらの大人は、それぞれの人間のどんな性質に価値を感じるか、各々で異なるものなのである。自分では短所と感じられていた性質も、ある人にとっては長所と感じられる、ということも往々にしてある。
従って、「常に相手の役に立っていなければならない」、「自分は人様に迷惑しか掛けていない」、「自分には生きる価値がない」等といった信念は、感じる必要がないのである。その事実を、自ら実生活における他者の観察を通じて、肌で実感することが大切である。こうした前知識がある状態で周囲の大人を観察すると、面白いほど、自分が思い込んでいた事実は「真の事実ではなかった」ことが確認せられることと思う。
「他人が、今の自分が感じているような感じ方をしているとは限らない」
それが心底より了解されたとき、漠然とした罪悪感なるものも、なくなってくるはずである。
記事読ませていただきました。
10年以上死にたいと思い続けていたことの理由が分かった気がしてだいぶ楽になりました。
自分の感情の裏に流れている認知を言語化することができると,少し心が楽になることもありますよね。
自分の存在自体が周りに迷惑をかけている。
役に立とうと思えば思うほど、気持ちが空回りして役に立てない。
そんな状況に無気力になって、もう目が覚めなければいいなと思って目を閉じる。
だけど、目が覚めてまたしんどい毎日を送る。
そんな毎日から抜け出せないかな?と思ってここにたどり着きました。
少し希望が持てました。
ありがとうございます。
存在が迷惑になっているから,他者のためになるようなことをし続けていなければならない。
そういう思考パターンに陥ってしまっていると,役に立てなかったときに自分の価値を感じられなくなって,苦しくなってしまうのですよね。
ありがとうございました。すこしおちつきました
よかったです。
ここにたどり着いて救われました。これまでずっと自己の存在に申し訳無さを感じていたのですが、この感情の出所が理解できて少し安心しました。
子供に対して恩着せがましいというのは自分の母親の稀な性格だと思っていましたが、世の中にはおんなじような親が一定数いるのですね。
私は幼少期から生きづらい人生に疲れていて、子供を生まない人生にしようと決めていました。「自分のような生きづらい思いをしてほしくないし、母親のような人間になってしまわぬように」というその思いは大人になってからも変わらず、結婚しても変わっていません。
できれば自分を開放するために死にたい、でも家族に迷惑かけるから死ねない。そんな生地獄状態からいつか抜け出せるかもしれない希望をくださって、ありがとうございます。
感情の裏に流れている認知を言語化することができると,安心できることがありますよね。少しでも同じような悩みを抱えていらっしゃる方の生き地獄を軽減させられるよう,これからも何とか,ためになる記事を書いていきたいと考えています。
なんて読みやすく、分かりやすい文章だ!
スゴい!と、文章力に惚れ惚れしました。
そして、
本当に本当にそう!その通りだ!と、
共感しながら読みました。
紹介されていた本も読もうと思います。
素敵な記事をありがとうございますm(_ _)m
凄く励みになるお言葉,ありがとうございます!