生きることに理由なんて要らないのに

私は人との間に壁をつくる

生きていて虚しい。とても、虚しい。

自分がこの世に存在することには、何かしらの理由が必要になる

その感覚が、とても虚しい。

生きることに理由なんて要らない。自分がこの世に存在し、こうして日常生活を送っている。

それに理由や意味なんて要らない。まして免罪符なんてものだって、当然必要ない。

自分がこの世に存在していることに一々、疑いを向けることのない普通の感覚を持てたのなら、どんなに幸せなことだろう。

自分はこの世に存在していてはいけないと思う。

それは自身の全身隅々まで行き渡った、揺るぎなき信念である。

本来であれば、存在していてはいけない身。
「何故いま、ここにいるのか」を逐一説明できなければ、生きていることが許されぬ身。
そんな感覚を抱えながら日々の生活を送ることは、正直言って、辛い。

私には常に生きる理由、生きる意味というものが、求められている。

人に好かれているから生きていて良い。
頭が良いから生きていて良い。
仕事ができるから生きていて良い。
お金を稼いでいるから、人の気持ちを害さないから、人望が厚いから、名声があるから。だから、生きていて良い。それが無いなら、この世から去らなければならない。
無論、私が持っているのはその中のごく僅か。その僅かなものを必死に、文字通り必死に、守り抜かなければならない。

常に条件付きで、生きていることを許されていなければならないことへの不安。常に生きていても良い理由を探し続けなければならない切迫感。それら感覚が、生きることに対する虚しさを生んでいる。

生きるために必要となる免罪符は、獲得しても獲得しても、決して永続することはない。四六時中、獲得し続けなければならない空疎な紙切れ。
でも、どんなに空疎だろうが、一瞬で現実味の失われる儚き紙切れだろうが、それが無ければ、とても正気で生きてなどいられない。
私にとって、生きるための免罪符を得ることが、生きることの意味。

毎日何かに追われ、批評され、責められている感覚。自身を保つので一杯いっぱいだ。

そんな現実を前にしても、生きていたいと思う。本能的欲求なのだろうけれど、不思議なものだ。
それに加え実際のところ私は、どうも自身の将来を全く諦め切れていない節がある。何か明るい未来を手にすることのできる日が訪れるのではないか、幸せを感じられる瞬間を味わえる日が来るのではないかという期待を、未だに捨て去ることができない。

こうした期待と、本能的欲求とが相互作用することによって、結論、私は死にたくないと思う。生きていたいと思う。これに関しては間違いがない。

けれども、私がそれを手にするまでこの世に留まり続けるためには、

いいえ、

この世に留まり続けさせていただくためには、今のところ、どうしても、生きる理由、生きていても良い理由というものが、必要なのである。これは理屈や道理では説明の付かない感覚。論理を以て「そうでない」と、自分自身の心底を説得し、歪んだ信念を矯正することのできない呪いのようなもの。

生きていたい――。
だから私は、「生きていても良い」と言われるため、他者からの評価によって、自身の生を支える。他者から嫌われないことによって、自身を支える。
同様にして、仕事で自身を支える。ブログのアクセス数で自身を支える。
将来に時間とお金を投資して、それをいずれ世に還元するという名目上、今を生きるための免罪符を頂く。

色々な免罪符で自らを支え、自身がこの世に存在していることに対する、複数の支柱、言い訳で固めておく。これら複数の支柱、言い訳は、まさに自身の“生きるか死ぬか”に直結する、心臓へと至る管のようなもの。

だから私は、人から嫌われるのが怖い。仕事で失敗をするのが怖い。ブログの未来を失うのが怖い。

毎日、表では平然と何事もなく生きている風でありながら、その内側では日夜、“生きるか死ぬか”を決する大一番が繰り広げられ、戦々恐々たる焦心で満ち満ちている。

「死にたくない、どうかこの瞬間は許してくれ」――そう叫びながら、生きている。

 

私はこうした罪悪感から逃れるため、一年以上前から、自身のネガティブな認知(※物事の受け止め方)を矯正しようと努めてきた。ある程度、その試みは奏功した。お蔭で私は、今も尚こうして生きながらえ、社会活動を継続することができている。

けれども、問題の根っこの部分はどうも、変わっていないようだ。「自分は理由もなく生きていてはいけない」というこの感覚は、認知の矯正だけでは改善が難しいようである。「そんなことはない」と自らに言い聞かせ、それを証明する数々の実績を自身に提示し続けても、その感覚が払拭されることはなかった。頭では理解できても、心の方で、それを「当たり前のこと」と得心することができない。一向に、それが叶わない。

私は一体、何をすれば良いのだろう。どうすれば、自身の心底に根付くこの呪いを、解くことができるのだろう。

分からない。分からないから今日も私は、免罪符を求めさまよい歩く。

 

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7件のコメント

  1. はじめまして。
    私も、あなた様とほとんど同様の感覚を日々感じて生きております。「自分の存在意義」とか「自分のこの世における役割」というのを早く見つけられないものかと常に焦りながら、息苦しさを感じています。
    多くの人はこんなこと考えずに毎日を過ごしてるのかもしれません。考えなくてすむならどんなに生きやすいかとも思いますが、やっぱり考えちゃうんですよね。
    毎日のように「人生とは何?」「何のために生きてるの?」と考えてます。中島義道氏などの哲学系の本を読むこともあります。でも明確な答えなんかないんですよね。

    昔から「普通のことができない」「強みが少ない」というやりきれない劣等感を抱えてきました。そして今、社会的立場でも、ほぼ最底辺といえる位置におり、そのことに特に強い劣等感を覚えてます。他人との比較をやめたくてもやめられない。

    私も、本当のところ何が原因でここまで自尊心が低いのか、いくら考えてもわかりません。親との関係以外でも、トラウマになる経験も確かにあります。
    ただ、幼い頃から問題児だったからえらく過保護に育てられ、自分の意思を押し殺す生き方を続けていたのは確かです。両親には、育ててくれた感謝と、私を信用してくれなかったという憎悪と、両方感じています。過保護というのは結局のところ、不信感から来ていると考えていますから。。

    なんとか自己肯定感を高められるよう、今は、「やると決めた物事を継続する」ことを目標にして生きようかなと考えてます。この時、これを達成したことで得られる他者評価を求めるのではなく、「物事を継続できた」という揺るぎない事実を得ることで、自信を高められるのではないかと考えてます。

    生きるのは確かに苦しいですが、希望を捨てずに生きていたいですね。

    1. はじめまして。

      「自分の存在意義」のような“生”に関する内的な問いは、言わば「パンドラの箱」のようなものかも知れません。開けてしまえば、出口の見えない暗闇に落とされ、そこでもがき苦しむことになる。けれども開けない限りは、真の意味での幸福(健全なる幸福)の訪れはないようにも思われますから、正に“進退両難”のやりきれなさを感じます。

      結局のところ、自分の存在を自分自身で肯定することが出来ないことには、「生きづらさ」に関する種々の問題は解決しないのだと思います。
      問題は「如何にして自分の存在を肯定できるようになるか」というところです。その答えは各々が自ら(場合によっては他の人の助けも借りながら)見つけていくより他はない、というのが結論になってしまうのですが、それではあまりに救いがありません。私は今後とも自身の経験と学習を通じて得た知見を本ブログにて発信していくつもりですので、もし気になる見出しの記事がありましたら、再度お越しいただければと思います。

      どこかに希望はあるはずですから、お互い、出口のあることを信じて生きていきましょう。

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