「ありのままの自分でいい」を信じることが出来ない。

「ありのままの自分でいい」という言葉がある。理性的な存在たる人間の価値観は、三者三様。私という一個体を形成する、あらゆる要素を総合して「価値がある」と判断してくれる人は何処かに存在する。そうした理屈を、頭の中では、イヤと言うほど理解しているつもり。

けれども、頭で分かることと、心の底の底から納得することとは、全くの別問題だと思う。私は、ありのままの自分に価値があるとは、どうしても思えない。

何のはくもない私には、存在価値がないと思う。そして、そんな私の言葉に、「そんなことないんだよ」と優しく諭してくれる誰かの存在を、心の底から望んでいる。その事実を自覚すれば自覚するほど、黒く濁った感情が胸の内でどんどん大きくなって、自分の中だけに留めておくことが出来なくなってしまう。私に出来ることは、感情が胸を破裂させる手前で思考停止することか、自分に箔を付ける努力をし続けることだけだ。

私は、自分という人間に、何らかの箔がなければならないと思っている。「何かを成し遂げた」「何かの分野で実績を持っている」「安定した職に就いている」――そうした社会的な箔が無ければ、人からは愛されない、認めてもらえないと思っている。

頭では理解している。そんなものは要らない。人が人から愛され、認められる条件は、なにもそういった社会的な箔だけに限らないこと。そんなことは重々承知している。けれども、自身の心が、どうしても納得してくれない。私が人として愛され、認められ、受け入れられるためには、社会的な箔が必要不可欠なのだと。

私にその箔を与え、人としての市場価値を上げてくれるであろう希望の一つが、このブログだ。私は、自身の市場価値を、このブログに依存していると言ってしまっていい。

そのためだろう。私は、「ブログで結果を出さなければ」という、崖っぷちの心持ちで日々を過ごしている。
結果を出さなければならない不安に、常に追い掛け回されているような感覚。ブログが成功しなければ、生きる意味を失くしてしまいそうな恐怖と焦燥。その一方で、結果が出さえすれば、長いこと欲しかった自身の価値が、ようやく見出せるであろう期待。両者が絶妙なバランスを取ることで、私は忙しい日常にして、定期的にブログを更新し続けることが出来ている。

ただこの感覚、過去の何か悪いものと、似ている気がする。

そう、大学受験時代の私自身である。

当時大学受験生だった私は、自身の人生の価値を決定するのは「大学受験の結果如何いかん」だと信じていた。今なら分かる、それは誤った信念だ。けれども当時の私は本気だった。志望校から合格を貰えれば自分の存在に価値はある、そうでないなら価値はない。そう、本気で思っていた。

そうして大学受験に大敗した私は、その後の大学生活を棒に振った。「存在価値の無くなった人間」として生きることに自我が耐え切れず、自暴自棄になってしまった。この時は自分の人生なんて、どうなったって構いやしないと思っていた。しかし心の底の底では、「助けてくれ」と叫んでいたようだ。その証拠として、人生が本当に終わるギリギリのところになって、私は自らの意思で立ち上がった。これは大変、馬力の要るものであった。本当に自分の人生がどうなったって良いと考えていれば、出来ない芸当だった。

あの過去から月日を経る毎に、私は人として成長していると思って生きてきた。多少はそういった面があるかも知れない。しかし、今となってはどうも、根本にある信念はあまり変わっていないのではないかと感じる。なぜなら、“現在のブログへの執着”と“過去の大学受験への執着“が似ているから。根幹に潜んでいる問題は、きっと一緒だ。私は、私という人間の存在に、自身で価値を見出せていない。私は相変わらず、自分自身の箔づけに執着している。全ては他者から存在を認めてもらうため。そして他者からの評価を通じて、私自身が、自分の存在を高く評価するため。その点に関しては、残念ながら、あの頃から何も変わっていない。

「私は“普通の人”でいては、誰からも相手されない」

――そんな感覚が抜けない。その感覚は誤りだ。人生はそんなんじゃない。全く、間違っている。“普通”にしていたって良い。“普通”であることは、決して卑下することではない。特別な実績なんか無くたって、No. 1でなくたって、「唯一無二の自我を持ついち個人」として愛され、認められ、受け入れられる資格はあるのだ。頭ではここまで分かっている。恐らくこのことは真実だ。周囲を見回すことで、それは分かる。そこまで理解している。でも悲しいことに、心の方でそれを信じることが、どうしてもできない。

過去の私では対処不能だった、自分の存在価値に関する、深刻な課題。

今の私は、この課題に対する一つの回答を用意している。

それは、「実際に他者より愛され、認められ、存在を受け入れられる経験をすること。」

そして他者より愛され、認められ、存在を受け入れられるに足る人間になること、である。

それはどんな人間だろうか?

「自分が愛されること」でなく、「他者を愛すること」を優先して考える人間

「自分が認められること」でなく、「他者を認めること」を優先して考える人間

「自分の存在を受け入れられること」でなく、「他者の存在を受け入れられる器の大きな人間になること」を優先すること

である。どういうことか?

自分の存在を認めてもらうためにブログをやるのではない。読んだ人が喜ぶような記事を書くためにブログをやるのである。

自分をチヤホヤしてもらうために人と関わるのではない。他者を思い遣り、自分との関わりによって、関わった相手の内面を豊かにするため、人と関わるのである。

弱った自己に手を差し伸べてもらおうとするのではない。弱った他者にこちらの方で手を差し伸べるのである。

自身の心が弱ったとき、誰かからの「大丈夫だよ」っていう温かい言葉が欲しくてたまらなくなる。
けれども、
「大丈夫だよ」
と声を掛けて欲しいなら、まずは自分の方から
「大丈夫だよ」と声の掛けられる人間にならなくてはいけないのだ。

他者にも自身と同様にして、自我があることを忘れてはいけない。自分が愛されることばかりを考えていてはいけない。与えられることだけを考えていてはいけない。自分のことにしか意識の向いていない人間を愛してくれるほど、社会は出来たものではない。人から愛されないのなら、まずは自分の方から愛を与えていかなくてはならない。自分が愛され得る人間であることを信じられないなら、自分で自分を磨いて、今よりもうんと愛される人間になって、自分は愛され得る存在であることを、身を以て経験する必要がある。

皮肉なことに、愛されたいと望めば望むほど、他者から愛されなくなるものである。愛情に飢えている者は、欠乏した愛情を埋めようと躍起になる。しかしそれでは愛は得られない。愛とは、自分の方から他者に与えることによって、初めて満たされるものなのだ。この原則を忘れてしまっては、いけない。

簡単にこんなことを言い放ったけれど、とても厳しい現実だと思う。足りないから埋めようとするのに、却って与えなければならないとは何事かと思う。

だが、今なら分かる。愛される人間とは、同時に誰かを愛することの出来る人間だ。自分もそのようにならなくてはいけない。そのためにまず、今よりも人を愛せるような人間になる必要がある。

そして、誰かを愛することによって、誰かから愛される人間になること。そして、誰かから愛される経験を実際に味わって、自己肯定感を高めること。自分に自信を持てるようになれば、今は気付けずにいる何気ない愛にも、気付くことが出来るようになるはずだ。誰かより愛される経験と実感こそが、自身の存在価値喪失に効く唯一の処方箋だと、私は考えている。

「ありのままの自分でいい」という言葉を信じられない人達へ。

まずは、自分で人を愛することから、始めてみよう。

 
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