自分の主張は大事にしよう。たとえそれが間違っていたり、質の低いものであったとしても。

私は27年間、自己喪失して生きてきた。

自分が何を思うのか、
何を感じるのか、
何に価値を覚え、
どんなことを批判に立ち向かってでも主張していきたいのか。

そういったものを、抑圧し続けてきた。

ただ、

人から嫌われたくない、
人から批判されたくない、
人から自分を認められたい、
人から一目置かれたい、
自身を蔑ろにされたくない

――そんな、「人からの見られ方」ばかりに囚われながら、生きてきてしまった。

私は自分の信念や価値観を持つことがなかった。仮に持ったとしても、

「人から嫌われたくない。あわよくば、好かれていたい」

という思考が強過ぎるあまり、他者の信念や価値観の方を、自身のそれより優先してしまっていた。相手と考え方や価値観が異なる度に、自身が折れて、他者に過度の迎合をして生き続けてきた。

その結果、私は自身に、人としての中身が無いことを思い知らされた。私には人としての中身に、魅力がない。中身に魅力がないものだから、自身を魅力ある人間たらしめるのは収入や学歴、資産、社会的地位といったステータスに限られてくるわけだけれど、今の私にはそれすら、皆無である。「今の私には」などと自惚れたが、今のままでは恐らく「将来の私にも、」そういった箔は付いてこないだろう。

人として中身がなく、ステータスもなく、おまけにそのステータスを身に付けるために必要となる最低限の頭の回転の速さも、行動力もない。そんな人間に、一体誰が何の期待をするだろうか。私自身でさえ、私の将来性に対しては非常に、懐疑的である。ブログ一つさえまともに運営できない人間が、この先一体、何を為し得るというのだろうか。私は結局のところ何事も為し得ないまま、朽ち果てていく可能性が現実味を帯びてきているとさえ、思っている。それと同時に、

「自分の実力はその程度だったのか」

と、自身の能力に対し、大きく落胆している。このような状況、精神状態で、自尊心が高まるわけがない。

自分自身への誹謗が過ぎだが、私はそんな自分の生き方を一からやり直そうと努めているところである。そのため、

これまで失敗していたブログ運営にテコ入れを図り、

自分の人生を少しでも充実させようと、“無意味な”ネットサーフィンやYouTube視聴をやめ、読書やブログ記事執筆、心理学の勉強に、仕事以外の大半を費やすようになった。

そして、長年続けてきてしまった自己喪失から脱却しようと、「自分の主張を持つ」ということを意識して生きるようにしている。
前々回に投稿した『私は自分の主張が欲しい。』では、その取り組みの内容と、実際にやってみて直面した課題について書き綴っている。

私は自分の主張が欲しい。

ここで言う「直面した課題」というのは、

「これまで何も考えずに生きてきてしまったせいで、27年という人生経験から期待される程の“質を伴った”考え方、信念、価値観が自身の中から生まれて来ない」

というものであった。私は前々回の記事『私は自分の主張が欲しい。』の中で、その課題について嘆かわしい感傷の言葉を書き並べた後、

「それでも腐らずに、自分を取り戻していくしかない」

といったような悲哀の言葉で結んだ。どちらかと言うと悲壮感漂う内容の記事になってしまったが、記事を投稿した後で、ふと思ったのである。

「いやいや”自分の主張を持つ”ということに関してはもっと動的かつ前向きな解釈を加える必要があるだろうな」

と、そう考え直すようになった。

そうして、本記事の作成に至っている。題して、『自分の主張は大事にしよう。たとえそれが間違っていたり、質の低いものであったとしても。』である。これからは少し前向きな主張を続けていこう。

そもそも私は、「自分の主張」という課題一つとっても、
「大きく嘆くべきこと」

「小さく嘆くだけで良いもの」
とを、分けて考える必要があると思った。
「自分の主張がないこと」と
「質の高い主張ができないこと」
を別々に分類して扱わないと、本質の問題が見えにくくなる上、過度に現状を憂えることになってしまうと感じた。

例えば、前々回の記事でも話題にした「会社の飲み会の是非」というお題について考える。某YouTuberが、

「会社の飲み会なんて時間の無駄だ」

と主張し、それをそのまま盲信し

「そうだそうだ」

と、自分の中に何の根拠も持たず主張する。そうして誰かに

「どうして飲み会は無駄だと思うの?」

と問われて、ダンマリしてしまう。これが

「大きく嘆くべき」自己喪失

だとすれば、

「小さく嘆くだけで良い」自己喪失

とは、こんな感じのものであろう。
某YouTuberが

「会社の飲み会なんて時間の無駄だ」

と主張する。そして自身もそれに賛同する。けれどもそこには何かしらの根拠がある。質が低かろうが、客観的に間違っていようが何だろうが、根拠があって、賛同している。例えば私の場合は、

「会社にいる時間を極力減らして、家でブログを書いていたいから飲み会はいらないと思う」

なんていう主張がそれに当たるだろう。毎日のように「自分はどう思うか?」を考えるようにしていると、このくらいの主張は出てくるようになる。質の高い、低いは問題ではなく、一応自身の主張がある。ただ、誰かに

「どうして飲み会は無駄だと思うの?」

と質問されたとする。誰からも嫌われたくない、嘲笑されたくないと考える私は、

「自分のこの主張はレベルが低いと思われるのではないか」

と恐れてしまい、結局、何も答えることができない。こうした自己喪失において必要になるのは、
「自分の主張を探すこと」
というよりは寧ろ
「質が低くても自分の主張をしていく勇気を持つこと」
になるだろう。
「大きく嘆くべき」ものと「小さく嘆くだけで良い」ものとを区別することが重要である。

「自分の主張がない」
ことに関しては、世に溢れる様々なコンテンツに自ら疑問を投げかけることが大切である。自分が本当は何を考えているのか、いちいち立ち止まって、内省していく必要があるだろう。

ただ、
「自分の主張を人にする勇気がない」
ことに関しては、もっと自分の主張を大切にする姿勢が重要になってくる。自分の主張の質があまり高くないことを過度に自嘲する必要はないのである。本当のところ、

「自分の主張があること」

そのものに対しては、もっと自信を持っていて良い。

間違っていても、質が低くても良いから、何かしら自分の考えを持つことが重要なのである。仮にそれが間違っていたのなら、素直にアップデートさせていけばいいのだから。自分の中に何かしらの軸があるのなら、その軸を心の中で明確にしておくこと。その意識一つあるだけで、世界は変わってくる。長年、自己喪失していた現実は変えられない。年齢のわりに、質の低い自己主張しか持てないのも仕方ないことである。けれども、どんなに質が低かろうと、たとえその主張が間違ったものであったとしても、

「自分の主張がある」

ということは、“価値あるもの”と思っていないといけない。

「他人の価値観で生きる世界」
と、
「自分の価値観に従って生きる世界」
は、全く別物である。私は先日、そうした世界の変化を実感した。最後に、その変化を感じた象徴的な出来事について書いておこう。

久々に友人と会話をしたときのこと。その友人は、私の数倍頭の回転が速く、行動的な人で、多くの情報を持っており、生活力も高く、コミュニケーション能力に秀でている。深く嵌まっている趣味もある中で、最近のトレンドもおさえており、何より対人関係等を通じ、様々な経験を持っている。博識で会話の引き出しの多い男である。私とはほぼ対照的な存在だ。

そんな彼と色々な話をした。会話は、ほぼ彼の博識に圧倒される形となった。彼はTeaに嵌まっており、休日はカフェ巡りを楽しんでいる。色々なお店や、そのお店の強みを知っている。また、普段からショッピングも楽しんでいるようで、文房具から家電から日用品まで、私の知らない様々な知識を持っていた。これからは生活の質を上げていきたいと意気込んでいた。私も大変勉強させていただいた。

話している中で、私は感じた。客観視すれば、人々には彼の方が、魅力ある人間に映るだろう。何をどう考えても、私の人としての中身は、彼に劣っていると言わざるを得ない。少し前の私であれば、彼と自身とを比較しては自己否定に走っていただろう。

「ああ、自分には万人受けする趣味はないし、会話の引き出しもない。物事を広く浅く知っているわけでもなければ、何かこれだけは負けないって言えるような、深くまで追求した物事もない。そしてその事実に気付かず、今までただ漫然と自堕落に生きてきてしまった。差が開くのも尤もだ。自分はとことんダメな人間だ」

みたいな感じで。
しかし、今回はだいぶ様相が異なった。私は、

「客観視すれば、自分は彼に劣っている」

と認識しながらも、

「けれども、私はカフェ巡りやショッピングよりも、ブログや読書に投資したい」

という自身の主張があったからである。だから私は、自分を見失わず、過度の自己否定をしなかった。こうした「自分の主張」一つあるかないかで、ここまで世界は変わってくるのである。

『自分に気づく心理学』の著者である加藤諦三氏が、確かマズローの言葉を引用して、

「けれども」

の重要性を説いていたと記憶している。私は、多分あらゆる面で彼に劣っている。

「けれども、」

自分は自分のやり方で生きていく。
――こうした姿勢が、自己肯定感を持つ上で大切になってくるということである。

そして自分の主張を持つこと以上に大事になるのが、その「主張」に対し、日々、どれほど自分が誠実に向き合っているか、ということだと思っている。

私は、自身の主張に基づき、ブログと読書にお金や時間を投資している。しかし、ただ闇雲に投資しているだけでは自信は付かない。

・ブログはただ漫然と書くだけでなく、どうしたら多くの人に読んで貰えるような記事を書けるだろう、と徹底的に考え、思い付いたものを実践していく。

・読書においては、時間を掛けて読んだものの、その内容が頭に残っていないのでは意味がない。どうすれば頭に残るかを考え、思い付いたものを実践していく。

このようにして、「私はブログと読書に投資したい」とする自身の主張と日々、誠実に向き合っていくことが重要なのである。誠実に向き合うことで、自身の主張に輪郭が現れてくる。それにより、より一層、自分の主張に自信が持てるようになってくる。その自信が、自己肯定感を回復させてくれる。

自身の主張と誠実に向き合っているならば、ある程度の自信はついてくるずである。そこに現状、成果が出ているか否かはそこまで関係ない。

私のブログは、二年間も運営が為されているとは思えぬほど、アクセス数が少ない。特に「読まれること」を意識して一生懸命書いた下の2記事に関しては、更新してから二週間以上経過しているにも関わらず、総アクセス数はたったの「5」である。その上、Googleからは「ゴミ記事認定(検索順位50位圏外)」されている。

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頑張って8000字以上書いて、文字装飾等施して投稿した記事が全然読まれないのはそれなりに心が暗黒になる。ただそれでも、

「将来、このブログを大きくするために必要な犠牲だ」
「そもそもブログは、私のような人間が一朝一夕に結果の出せるメディアではない」
「この記事がなぜ読まれなかったのか分析して、次は更に良い記事を更新していこう」

等と考えることで、どうにか心を保っている。以前のように、ただ漫然とブログを更新し続けていたのではいけない。「このブログを将来、どのようにしていきたいのか」という目標に向かって、日々試行錯誤する。そうした「ブログに誠実に向き合う」姿勢が、自身の主張に対する自信を強化してくれる。

自分の価値観で生きることは大事である。けれどももっと大事なのは、その価値観と誠実に向き合い、その価値観に従って生きてきた実績を日々、積み重ねていくこと。その積み重ねこそ、低下した自尊心の回復を促してくれるのである。

まずは質が低かろうが間違っていようが、自分の主張を持つこと。そしてその主張と日々、誠実に向き合っていく中で、その主張に自信を付けたり、はたまた間違っていた部分を修正していく。そうした地道な繰り返しが、自分を自分で肯定できる人間へと変えてくれるはずである。

何でも良いから、自分の主張を持つことを大事にしていこう。

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