▼目次
1. 恋愛自粛
2. 私に足りないもの
2.1 自分を取り戻す
2.2 会話の練習
2.3 モテ男の言葉
2.4 愛されるよりも、愛すること
2.5 与えられても満たされぬ人々
3. 決戦に向けて
恋愛自粛
自分に自信を持てず、心に空虚な愛情飢餓感を抱えた私は、恋愛によって、心に空いた大きな隙間を埋めようとした。けれども、その願いを叶えるべく参入したPairsにおいて、
「あなたは魅力のない男」
というサインを受け取り続けた私は、心にますます大きな傷を負うこととなった。私は暫くの間、鬱々とした日々を過ごしていた。
マッチングアプリの成否を分かつのは、いかに「女性ウケの良いプロフィールを作成できるか」に、懸かっている。
そのプロフィールの生命線とも言えるのが「魅力あるプロフィール写真」であり、それを持たぬ私は、富める者のますます富んでいく様を、指を咥えて見つめているしかなかった。
写真を撮りたくても、外出自粛でそれが叶わぬ「恋愛自粛」の期間、私は人生における空虚感をますます強めた。
私に足りないもの
ここまで読んでくださった読者の方はもうお気付きかも知れないが、私が「恋愛」という土俵に立つ上で不足しているのは、なにも「プロフィール写真」だけに限らなかった。
私に何より不足しているのは、恋愛というものに対する向き合い方そのものであった。
恋愛というものは本来、相互的なものである。
恋愛とは、お互いがお互いを想うからこそ成立するのであって、どちらか一方が愛情を与え続けるような関係は、健全な恋愛とは言えないのである。
私は、内面に抱えてきた「自分に対する自信のなさ」や「愛情飢餓感」を、恋人の存在によって掻き消してしまいたくて仕様がなかったわけだが、
自分の内面の問題は、他者に依存するのではなく、ある程度は自力で処理しておかなければならないものであったのだ。
健全なる恋愛をしたいのであれば、まずはそこから始める必要があった。
自分を取り戻す
そんなある日。私は仕事中、「原因不明の疎外感」に襲われ、ひとり苦しんでいた。
「私はこの世に必要ない」――漠然とそんな意識に囚われては、鉛のように重たくなった心のやり場に、窮していた。
「自分は不要な存在だ」といった意識に囚われることは、私の場合、なにも珍しいことではなかった。定期的に襲われる「根拠なき罪悪感」の波が押し寄せてくると、都度私は、その波が引くまでじっと耐え続けるしかなかった。
しかしこのときばかりは、あまりの苦しさに耐えかねた。仕事を一通り片付けてしまった私は、スマートフォンを手に取ると、検索窓に「謎の疎外感」と打ち込んだ。
その先で出会ったあるサイトに、良いことが書いてあった。こちらのページである。
『動かなければ得られない:低い自尊心から自分を解放する方法(ライフハック)』
そのページを読んだ際に受けた感動は、以下の記事に残してある。
その一部を引用する。
自信なんてものは、そう簡単にもてるものじゃない。簡単に切り替えたり、すぐに覚えられる単純なものでもないし、外部からどうこうできるものでもない。あくまでじっくり時間をかけて育み、自分自身を心から信頼する内面的な問題なのだ。そこで初めて自尊心というものは生まれる。
自尊心は、自分自身に対する感情的評価である。つまり、” あなたはあなたという人間を愛しているか?” 、” 自分自身を信頼しているか?”、” あなたがなりたい自分になる為の自己投資をしているか?”、” 自分の意見を尊重しているか?”、” あなた自身の価値とあなたの根本的方針が一致しているか?”など、すべては主観的なものだ。
さて先の引用文を含め、サイトにあることをまとめると、こうなるだろう。
自尊心というものは、一朝一夕に高まるものでは決してなく、
少しずつ少しずつ、時間を掛けて育てていくものなのだ。
だからこそ、自尊心を適切に育てたいと思っているのならば、
自尊心を損なうような行動を慎み、逆に、自尊心を高めるような行動、つまり、自分を大切にするための行動を積み重ねていくことが大事なのだ。
――ここで私は、色々なことに気付かされた。
私は幼少期より、自分というものを殆ど持つことなく、生きてきた。
自分の意思や感情よりも、
「周囲の他者からの見られ方」
ばかりを優先させ、自身の言動を決定し続けてきた。その結果、次第に「自分」というものが、分からなくなっていった。
自分が何を感じ、何を思い、何に価値を抱き、どんなことに魅力を覚えるのか――そういった自分の感覚というものが、分からなくなっていた。
自分の信念を持たず、根無し草のように、その場の雰囲気に流され続けるばかりの人生は、「空虚」そのものだった。
周囲の顔色ばかりを伺い、周囲の見られ方しか気にして来ず、自分の感覚を育ててこなかった私の27年間は、空っぽだった。
従って私は、27歳という年齢に達しながらも、その年齢に見合った人間的な中身を伴っていなかった。心の底では、そのことにずっと前から気付いていたに違いない。
そんな私が自分に自信を持てないことは、当然のことであった。それに気付いた私は努力をして、「自分」というものを取り戻し、育てていく必要があった。
他人の価値観で生きるのではなく自分の価値観で生きることが大事。けれどももっと大事なのは、その価値観と誠実に向き合い、その価値観に従って生きてきた実績を日々、積み重ねていくこと。その積み重ねこそ、低下した自尊心の回復を促してくれる。
— 亀井次郎 (@TictWkYYHmBbmBr) June 23, 2020
そのためにはまず、
「他人にどう思われるか」ということではなく、
「自分がどう思うのか」を意識して、生きる必要があった。
以降私は、「自分の主張を持つこと」を意識して生活した。
「自分は今、何を思っているのか?」
それらのことを、日常生活の中で意識していったのである。これは大変、骨の折れるものであった。
本を読む際、
ネットサーフィンをする際、
ブログを書く際、
仕事をする際、
職場の人と会話をする際、
ニュース記事に目を通す際、
日常のありとあらゆる場面で、「つまり自分は何を思うのか?」を意識した。
そうして徐々に、自分というものを取り戻し、主体性を持った行動のできるような下地を、作っていくよう努めた。
会話の練習
前々回の記事で話をしたのだが、私は生来の口下手である。何故、私はこうも人と口を利くことができないのかと訝りたくなるほど、会話をすることが苦手である。
ただ、会話ができぬことには、人と情緒的な繋がりを持つことは難しくなる。これまで私は、人と口が利けぬことで、どれほどの辛酸を嘗めてきたか分からない。
そこで私は、雑談、会話に関する書籍を数冊読み、その中でも特に良かった
『誰とでも15分以上会話がとぎれない!話し方66のルール』(野口敏著)
という一冊を教科書とし、自身の日々の会話をその教科書に基づき、矯正していった。
誰かと会話を交わした後は、必ず反省会を行った。
その回の会話における悪かった点を洗い出し、次回からはどのように修正していけば良いかを、自分で考えていった。
結果、「自分の主張を持つ」ということと「相手の話を上手に聞く」という二点を駆使することで、多少、私の会話能力は向上した。
これからも多くの書籍や実践から会話の仕方を学んでいく必要はあるものの、兎に角、「まともに口を利けない」という最悪の状態からは、何とか脱することができたようであった。
モテ男の言葉
私には、女性経験豊富の友人Uがいる。
Uとは小学校時代からの付き合いだが、そのUにも、事のあらましを話してみた。
「へえ、亀井の口から“恋愛”という言葉が出てくるとは、意外だったよ」
「自分もそろそろ、“脱皮”しなきゃいけないなと思って」
「あ、そう言えば」
「?」
「たしか明後日だったと思うけど、“オンライン街コン”なるものが開催されるという話を、耳にしたな」
「え」
「参加してきなよ」
「明後日?」
「そう明後日」
「展開はやくない?」
「こういうのは、慣れなんだよ、慣れ。場数を踏んで経験を積んで、女に慣れていかないことには、何も始まらないものよ」
「うーん、そうだな…。分かった。参加してみる」
「よしきた」
こうして私はオンライン街コンなるものに参加し、初対面の女性数人と会話をするという、一つの経験を積んだ。
「人と口を利けない」という状態からどうにか脱していた私は、なんと会話そのものを継続させることができた。これに関しては大きな進歩を感じられた。
ただ頭で思い描いていたような会話をすることはできず、やはり、
「会話に関する知識を持っていること」と
「それを実践で活かせること」は、全く異なるものであることを実感せざるを得なかった。「場数を踏んで経験を積む」ことの大切さを説いたUの主張は、全く誤りでなかった。
またこの場には、件のUと、その友人である超絶モテ男のYさんも参加していた。私はその二人から、オンライン上で、女性と上手に関わるためのノウハウを伝授して貰ったのであった。
お二方には、実に様々な話を聞かせていただいた。ただそのエッセンスとなるものは、やはり、
「経験を積むこと」
「何度も失敗して、そこから多くの学びを得、次に活かすこと」
に集約されているように思われた。
Yさんの言葉である。
「私も過去に何度失敗したか、分かりません。ただその失敗から、色々なことを学んで、そうして、今の私があるんです」
こちらはUの言葉である。
「そうそう。俺も何人からLINEをブロックされたか分からないわ。でも、LINEをブロックされた数と、その男のモテ度と言うのは、比例するものだと思うぜ」
そしてこれは余談になるのだが…
Yさん、友人Uのお二方の過去のエピソードや、女性と関わる上で大切になるノウハウを聞いていて思ったのが、
彼らは何の努力もせず、はじめからモテモテだったわけでは決してなく、
過去に幾度とない失敗をし、けれどもそれらの失敗にめげることなく、何度もトライアル&エラーを重ねていく中で、
女性心理を学習し、女性の感情を良い意味で刺激するための様々なアプローチを体得してゆき、
そうして、彼らの今の姿があるということであった。
彼らから発せられる、数多の経験に裏付けされたであろう芯の通った主張と、
それを言い淀むことなく、流れるよう口にする堂々たる佇まいからは、
実に男らしき頼りがいと、
知性と、情熱と、
そして女性に対する、この上ないサービス精神が、感じ取られるのであった。これはモテるわけだと、私は直感した。
よく、プレイボーイに泣かされる恋愛女子のコラムが、インターネット上に見受けられるものだが、
そりゃ、こんな男を知ってしまったら他の男には戻れないよなと、本気で感じたものであった。それほど彼らは、男としての魅力に溢れていた。
私は天を仰いだ。
「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」
という孫子の名言があるけれど、
「彼」と「己」の間にある、どうにも埋めがたき戦力差を知ってしまったら、
「百戦」はおろか、「一戦」交える意欲さえ、悉く消し飛ばされていくようであった。
愛されることよりも、愛すること
そして6月に入った頃、私は恋愛における最大の知見を体得することとなる。
それは、恋愛の幸せというものは、人から愛されることでは決してなく、
実は、自分が人を愛することにあるのだという、気付きである。
これまで私は、「自分のすべてを包み込んでくれるような人の存在」を欲していた。
不器用な私も、口下手な私も、頭の回転の遅い私も…そんなありのままの私を、誰か一人の存在から受け止められることが、真の幸せに繋がるものだと考えていた。
しかしそれは、違っていた。
もうお気付きの方もいらっしゃるかも知れないのだが、
実際のところ、親元を離れ、社会に身を置いている一端の大人が、特定の他者より「ありのまま」を認められることなど、まずない。
この世界は程度の差こそあれ、ギブアンドテイクによって成り立っているものである。一方的に与えられるとか、一方的に愛されるとか、そういった関係は、続かないものなのである。
仮に続いたとしても、一方的に与えられ続けている側は、一向に満たされることがないという不思議なことが、起ってくる。
どういうことか。
私がそれに気付かされたのは、職場における人間観察からであった。
与えられても満たされぬ人々
私は職業柄、何人かの、恐らくは「愛情飢餓」を抱えているであろう人達と、頻繁に関わる機会を持っている。
愛情飢餓を抱えていると考えられる彼ら彼女らは、大抵はとても不器用な手法によって、周囲の人々の注目、関心、承認、愛情を得ようと、様々な問題を起こすことが多い。
しかしそこは「福祉施設」という特別な世界。
外の世界で暮らしていれば、決して与えられることがないであろう質と量を備えた注目を、彼ら彼女らは、周囲の援助者から受けているはずであった。
本来であれば与えられるはずない注目の与えられている現実が、そこにはある。
にも関わらず、彼ら彼女らは、一向に回復の兆しを見せることがなかった。
注目や承認を必死になって得ようとし、その求めているはずの注目・承認が日々与えられているはずなのに、彼ら彼女らの愛情タンクは、満たされることを知らないのである。
これが、私が先の記事で「愛情希求は底なしのもの」と言った所以だ。
そこで私は、思った。
愛情は、与えられるだけでは、いけないのだと。
愛情というものは、与えられるだけでその分、満足できるものではなく、
自分の方からも同様にして与えることによって初めて、満たされるものなのである。
一方的に与えられ続けている人達は、恐らく、無意識の部分では気付いているのだろう。
自分から与えている自覚がないのに、相手からは無尽蔵に与えられ続けるという矛盾を抱えたまま、真の愛情を感じ取ることのできないことに、
多分、心のどこかで、気付いているのだと思う。
だからこそ、いくら愛情を求め、それが与え続けられたとしても、
その事実から自分に自信を得、以て愛情飢餓感を克服することが、できないのである。
すなわち、他者から注がれる愛情をそれとしてきちんと受け取るためには、
自分がその愛情を受け取るに足る人間であるという自覚が、必要になってくるということである。
他者より与えられる愛情を真っ直ぐ、純粋なるものとして受け取るためには、
自分の方からも、その他者に対し、同様の愛情を与えることが非常に重要になってくるのである。
自分が他者に与えられること、そのものへの喜び。
その両者が相互作用することによって、自分は愛される価値のある人間という意識、延いては、
自分に対する自信というものが、生まれるのである。
私はそのことに気付かされたのであった。
以前の私は、まるでなっていなかった。
ただ、相手からの愛情・承認が得られるかということばかりに囚われて、自分の方から、相手に何かを与えようとする気持ちが、全くないままだった。
それではいけないのである。
自身の内面に渦巻く、この愛情飢餓感を克服したいのであれば、
まずは自分の方から、他者に対し、愛情を与えていくよう努めることが大事なのである。
これから恋愛をしようとする私に置き換えて言うのならば、
相手の女性から、「男として認めて貰えるか?」「ありのままを受け入れて貰えるか?」ということを求め、それに囚われるのではなく、
自分が、その女性に何を与えられるのか、どんなプラスのことを与えられるのか、といったことに徹底して意識を向けることが、
自身の真に求めていた愛情の充足へと、繋がっていくのである。
私は早速、職場や日常生活において、それを実践することにした。
「愛情を与える」と言っても、そんな大層なことをするのではない。
自分にばかり向いていた意識を相手に向けるよう努めるだけで、世界の見え方は断然、違ってくるものなのである。
意識を自分ではなく相手に向けることで…
・自分本位な記事でなく、読者目線に立った記事を作成しようと意識するようになる。
自分がマイナス評価をされるのではと怯えるのでなく、相手にプラスを与えることを優先させて考えれば…
・会話の主人公を極力、「相手」に置くよう努めることができる。結果、会話が上手くなる。
こういったことの積み重ねが、ゆくゆくは自分に対する自信を育む――私はそう確信するようになった。
決戦に向けて
・自尊心を高めたいなら、そのための行動を日々積み重ねることが大切。
・会話が下手なら、本を読み実践を積むことで学んでいかねばならない。
・モテ男は、数多の失敗経験を経てそうなったことを忘れてはならない。
・愛情は、相互的なものである。ただ与えられるだけでは満たされない。
――こうして私は「恋愛自粛期間」を通じ、大切なことを学んだ。もう私には、以前のような
「ただありのままの自分を認めて欲しい」
とする、甘い考えはなかった。いや、決してないわけではないのだが、その気持ちを前面に出して人と関わろうとすることは、もうなくなっていた。
ありのままの自分を認めて欲しいなら、まずは他者にプラスを与えられる人間たれ――そうした意識が、必ずついて回るようになった。
私の視線は、次なる決戦を見据えていた。
友人のカメラマンに撮影して貰ったプロフィール写真と、
決して滑り倒していない、無難な自己紹介文。
そして「相手に対するGiveの意識」を手にした私は、闘争心を胸に宿しながら、再び地獄のようなPairsの門をくぐっていく。
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【最終話】非モテ男(27)がPairsで恋愛恐怖を克服する話(4/4)
(8/29,20:00 投稿予定)
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