「愛される」or「愛する」どっちが幸せ?――ヘルマン・ヘッセ『アウグスツス』に学んでみる

ヘルマン・ヘッセの『アウグスツス』を知っているだろうか?

皆さんは、「人から愛されること」と「人を愛すること」、どちらが“幸せ”なことか、考えたことがあるでしょうか?

昔の私は、この問いに対して深く考えるようなことはせず、漠然と「人から愛される方が幸せでしょう」と思っていました。

ただ自身、幼少期より抱えてきた“自己否定感”を克服しようと苦闘する日々を送る過程で、最近になってどうも「そういう訳でもなさそうだな」ということが分かってきました。

「自分はダメな人間だ」と思い込んでいる人間が、「あなたは価値ある人間だよ」と言われてもそれを信じられないように、

「自分に愛される資格はない」と思っている人間が、他者から無闇矢鱈に愛情を注がれても、それを信じることはできません。却って疑心暗鬼になって、自身に注がれている愛情が本物かどうかを試したくなってしまうでしょうし、下手をすると、人からの愛情を素直に受け取ることができず、非常に傲慢で、支配的な人間になってしまうかも知れません。

「自分に愛される資格はない」と考えているうちは、人の愛情を真正面から受け取ることは難しい。ですから、「自分は愛される資格がある」と思えるように、まずは自分の方から、人を愛せるようになることが大切。これが、私が最近になって辿り着いた境地です。

そんな折に出会った、ヘルマン・ヘッセの『アウグスツス』。この作品は、「誰からも愛される魔法」をかけられた主人公「アウグスツス」の生涯を通して、「人から愛されること」と「人を愛すること」、どちらが幸せなのかを、考えさせてくれる一作です。

「物語のやや切ない終わり方に胸がざわつきつつも、愛と幸せについての新たな示唆が与えられたことによって、心の芯は確かに温まっている」――これはそのような、心地いい読後感を与えてくれる名作です。

それでは本作を通じて、「人から愛されること」と「人を愛すること」、どちらが幸せなことなのかを考えていきましょう。

 

1.あらすじ

 

夫を亡くした母親の元に生まれた「アウグスツス」。母親は一人息子をどうしたら幸せにできるだろうかと、日々、様々な空想に耽っています。

ある日、アウグスツスの名付け親となった魔法使いの老人が、母親に言います。「息子を幸せにするための願いを一つ、叶えてあげよう。」
息子の幸せを願う母親は、必死になって「お願いごと」を考えました。一体、息子に何を与えてあげれば、彼は幸せな人生を送ることができるだろうか――母親が導き出した答えは、「アウグスツスが、誰からも愛される人間になること」でした。

こうしてアウグスツスは、生まれて間もなく、「誰からも愛される人間」として生きることになりました。アウグスツスは、何処へ行っても、誰と会っても、皆から好意を示されました。彼が悪事を働いても、誰もそれを咎めませんでした。彼が他者を見くびり、冷酷に扱うような高慢ちきな人間に成長しても、すべての者が彼を慕いました。至る所に、彼のあとを追い、彼に身を捧げ、彼に仕える者がいました。女は彼を愛し、友人は彼に夢中になりました。

アウグスツスは次第に、無条件に彼を愛し、賞賛し、もて囃す人々を滑稽に思い、尊敬の念を抱けなくなっていきました。粗雑に扱われているにも関わらず、それでも熱心に彼を追う人々の誇りの無さを呆れ、軽蔑し、厭わしくなりました。

敬意も価値も感じられぬ他者との関わり。望んだもののすべてが、何の努力もなしに手に入ってしまう環境。そして何をしていても、何もせずとも、一切求めずとも、シャワーのように与えられ続ける愛。そうした現状に、アウグスツスの精神は次第に、空虚感に蝕まれていきます。

そんな折、アウグスツスは恋をします。お相手は貴族出身の高貴な婦人で、名誉ある騎士の夫人でした。アウグスツスは彼女に熱狂し、夫人もアウグスツスに恋しますが、この夫人はあまりに純潔でした。最後はアウグスツスのアプローチを断り、騎士である夫の傍に居ることを選びます。これを機に、強度の弱いアウグスツスの心は決壊。彼は人々を見くびり、軽蔑することによって、壊れそうな自分の心を保とうとしました。貞淑な夫人を誘惑し金を巻き上げたり、高貴な青年を探し出しては誘惑し堕落させたり、悪げのない人を騙したりしました。その様は、
「彼があさり、しゃぶりつくさぬ享楽はなかった。」
「彼が覚えてまた捨て去らない悪徳はなかった」
という程でした。
けれども、それでも人々は彼を愛しました。彼の心には、もはや喜びはなくなっており、至る所で示される愛情も、彼の心には何も響かなくなっていました。
このときの彼の心境については、以下のように叙述されています。

彼は求めもせず、望みもせず、受ける資格もない愛に囲まれていることに、飽き、いや気がさした。けっして与えることをせず、常にただ受け入れているばかりの、浪費され、破壊された生活の無価値を感じた。
ヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳)『メルヒェン』(2017)新潮文庫 p28

こうして彼は“人生の虚しさ”から逃れるべく、毒杯を飲んで自らの命を絶とうとします。

アウグスツスがまさに毒杯を唇に当てたとき、彼の名付け親である老人が彼の元を訪ねます。老人は彼から毒杯を取り上げると、アウグスツスがなぜ、このような境遇に置かれることになったのか、その一切合切を話します。そして彼に尋ねるのです。
「私が一つ、君の願いを叶えてあげよう。何を望めば、自分が幸せになれるか、よく考えてお願いごとをしてごらん」
「君がまだ子供で幸福であった頃や、君が初恋をしたときのあの感動をよく思い出して、自分に一体何が必要なのか、考えるんだ。きっと今の君が望むのは、有り余る宝や財産ではないはずだよ」

深く考えた末、アウグスツスは言います。

「ぼくの役に立たなかった古い魔力を取り消して下さい。その代わり、ぼくが人々を愛することのできるようにして下さい!」

老人は優しく頷くと、彼の元を去って行きます。

「誰からも愛される魔力」を失ったアウグスツスは、これまで散々に踏みにじってきた人々から、罵られ、暴行され、持ち物を奪われ、訴えられ、そしていよいよ、投獄されてしまいます。
彼が刑期を終え、俗世間に出てきたとき、アウグスツスを愛する者はただの一人もいませんでした。それどころか、誰もが彼に敵意を向け、彼を相手にしませんでした。彼の顔は痩せこけ、服や靴は乞食のもの同然となり、かつて人々を魅力した彼の声や振る舞いは、今では人々に恐れや嫌悪を抱かせるものになっていました。

しかし、彼の目は絶望していませんでした。「人を愛する魔法」のかかった今の彼の目には、どんな人を見るにつけても、心を打たれ、動かされるものとして映り、その度に、喜びを感じることができたからです。

彼は、子供が学校へ行ったり遊んだりするのを見て、かわいいと感じました。
小さなベンチに座る老人を愛おしく思いました。
娘を追い掛ける青年や、子供を腕に抱き上げる労働者、道行く人々に媚びをうり続ける物売り達を見ても、誰もが、彼にとってはかけがえのないものに感じられました。

アウグスツスは、この愛すべき人達の何か、役に立つことをしたいと思いました。そして彼は一生懸命、人々に仕えました。人々の向ける敵意のため、どんなに彼の好意が報われなかろうが、彼にはさほど問題には思われませんでした。

この世にはどんなに不幸が多いか、しかも人々はどんなに満足していられるかに、彼は驚きを覚えた。すべての悩みのかたわらに楽しい笑いが、いんぎんさと機知と微笑とが見出されるのを、繰り返し見て、彼はすばらしいことだ、感動的なことだと思った。
(中略)
彼にとっては、かつて自分の歩いた道で他の人たちが努力し、生きがいを感じているのを見るのが、美しく、心なぐさむことであった。すべての人々があんなにむきになって、力と誇りと喜びを感じながら目的を追っているのが、彼には驚嘆すべき見ものだった。
ヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳)『メルヒェン』(2017)新潮文庫 pp.40-41

アウグスツスにとって、自分に誇りを持ち、自分自身をより幸福にしようと精一杯、日々を生きている人々の存在や、その生活の営みを見ることが、何よりの喜びとして感じられるようになったのでした。それは「人から無条件に愛される魔法」のかかっていた頃には決して感じることのできなかった、人生における真の幸福でした。

彼は、もっと人々の顔を見たいと願いながらも、自身の体力の衰えには逆らえませんでした。
アウグスツスは、かつてよく遊びに行っていた名付け親の老人の元を訪ねると、疲れた体を休ませるため、毛布の上に横たわりました。そのとき、老人は彼に言いました。「君は、穏やかで優しい目をするようになった。天国のお母さんも、喜んでいることだろう」

そして老人が自身の膝に彼の頭を乗せると、アウグスツスの目には、耳には、かつて自身が純粋な心を持っていたときには見聞きすることのできた、無数に輝く天使の輪舞と、幸福な音楽が眼前に流れ、広がるのを見たのでした。

こうして安らぎと幸福の光と音楽に包まれながら、アウグスツスは老人の膝の上に頭を乗せながら、母のいる天国へと、旅立っていきました。
 
 

2.ヘルマン・ヘッセの生い立ち1)

著書『アウグスツス』を通じて、「愛されること」よりも「愛すること」の価値を説いたヘルマン・ヘッセ。彼はなぜ、これ程までに深遠なる作品を書けたのでしょうか。それは、ヘルマン・ヘッセの生い立ち――両親から愛されずに育った過去――に由来する、彼の心を埋め尽くした空虚を知ることで、説明できると考えています。
 
 

2.1両親より愛されなかった過去

ヘッセは、宣教師である父ヨハンネスと、伝道活動に従事する母マリーとの間に生まれました。神への奉仕と服従に生涯を捧げようとする敬虔な一家は、ヘッセに自分たちと同じ価値観を持つよう求めました。自由を求めるヘッセは激しくそれに抵抗し、小さい頃から、様々な問題行動を起こしては両親を悩ませました。両親は問題行動が現れる度、ヘッセを叱りつけ、罰を与え、泣きながら許しを乞わせる、ということを繰り返しました。けれども、一向にヘッセの問題行動は収まらず、それどころか、遂には自殺騒動にまで発展するような泥沼の様相を呈しました。それでも、学業のよくできたヘッセに両親は一方的な期待をし、更に自分たちの価値観を押し付け、ヘッセをますます追い詰めていきました。
 
 

2.2.子供にとっての“家庭”の意味

 
子供は、生まれてより、両親から沢山の愛情を受けて育つことによって、自己肯定感や他者信頼、外界への探究心を獲得していきます。愛情や安心感に満ちた「家庭」という心の拠り所があるからこそ、子供は自分に自信を持ち、他者と信頼ある対等な関係を結ぶことができ、過度に失敗を恐れることなく、未知の世界を探求することができるのです。子供にとって「家庭」という環境が安心できる場所であることは、安定した成長に欠かせないことなのです。

しかし、その安心できる場所であるはずの家庭で虐待が行われているような場合は言わずもがな、ヘッセのように、家庭が単に、親の価値観を押し付けられ、それに背くと罰を与えられるような、安心感ある場所として機能していないと、自己否定感や他者不信、過度に失敗を恐れるメンタリティを獲得したまま大人になってしまいます。

ありのままの自分を愛されず、認められず、そして生まれてから安心して過ごせるような場所を知らないまま成長することによって、その人の心には、満たされなかった愛情や承認、安心感の大きな空洞ができてしまいます。その空洞をどうにかして埋めようと、人は、誰彼構わず他者からの愛情を求めたり、問題行動を起こしたり、情緒不安定になってしまったりします。

ヘッセが自殺騒動を起こす際や、自殺騒動を起こし、治療施設に入れられている間に両親へ送った手紙を見ると、愛情を求めながらも、それを得られなかった者の心に潜むドロドロとした暗黒の感情が見て取れるでしょう。

「お父さんお母さんがぼくの心のなかを、たった一つの光が地獄の火のように燃えているこの黒い洞穴を、のぞきこむことができたなら、おまえなんか死んだ方がいいといって、喜んで死なせてくれることでしょう。(中略)この精神病院全体、***も、未来も現在も過去も、そっくり火の中に投げ込んで、自分もあとを追うことができたら……。
ぼくは***で、最初に笑うことを学び、それから泣くことを学びました。***でも学んだことがあります。それは呪うことです」
岡田尊司『生きるための哲学』(2016)河出文庫 p.55

「あの暗い心の苦痛がそっくり、(中略)、***で体験したすべての思い出が、襲いかかってきたのです。ぼくはすぐさま、手当たりしだいに数冊の本をつかむと、***に行き、それを売ってピストルを買いました。今は部屋に戻り、ぼくの前には錆のついたそいつがあります」
岡田尊司『生きるための哲学』(2016)河出文庫 p.55

 
 

2.3.満たされなかった愛情を追い求めたヘッセ

ヘッセの場合は、「問題行動」という形式で、親の価値観からの脱却を図り、かつは親からの愛情を求めました。敬虔なる両親が最も忌み嫌う問題や騒ぎを起こすことで、親の呪縛から逃れようとしたのです。それと同時に、彼の問題行動の裏には、「こんなぼくでも認めて欲しい。愛して欲しい」といった、両親に対する愛情の希求があったに違いありません。

また、ヘッセは27歳のとき、9歳年上のマリアという女性と結婚します。『アウグスツス』の収録されている『メルヒェン』(新潮文庫)の解説には、以下のような記述があります。

ヘッセは二十七歳の時、九つ年上で三十六歳のマリア・ベルヌーイと結婚した。三十六歳というのは、ヘッセの母マリーがヘッセを産んだ年である。ヘッセはひたすら母を慕い続け、「わが愛する母に」という詩を初め、いくつもの詩で、また「私の幼年時代」を初め、いくつもの散文で、母への思慕を表白している。(中略)母への思いが彼を詩人にしたと言えよう。その母のイメージを求めて、マリア夫人と結婚したような観がある。年齢にも名まえにも因縁があったし、体格も気質も、音楽的な点も、共通な点があった。
ヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳)『メルヒェン』(2017)新潮文庫 pp.210-211

上の解説では、「母への思いが彼を詩人に」云々と分析されていますが、その実は、ヘッセの幼い頃、ヘッセのあるがままを愛し、その存在を認め、安心感を与えてくれるような母を持つことの出来なかった彼の心の傷が、ヘッセに生、愛、死の術と言われる探索――詩作活動――を行わせたと考えられます。

「ひたすら母を慕い続け」というのも、実際はその幼少期、ヘッセの求めていたような愛情深い母の不在、及びその幻影の追求が現れたものだったと解釈する方が自然でしょう。

ヘッセが9歳年上の、かつての母親によく似た女性を妻に選んだのも、その女性から、幼少期に受け取ることのできなかった代理母としての無償の愛情を求めた結果であると考えられます(残念ながらその試みは失敗に終わりましたが。)

結局ヘッセは、実の母とは死に別れるまで分かり合うことができず、その代理となった妻マリアとの生活も上手く行かず、空洞となった愛情を満たすことは叶いませんでした。しかし、ヘッセ53歳にして出会った20歳年下の妻ニノンとの安定した結婚生活によって、ヘッセの心の空洞は癒え、その後の安定した生活に繋がったのでした。
 
 

3.まとめ

 
このように、幼少期に与えられなかった愛情を、大人になってからどうにかして満たそうとする過程において、ヘッセは愛について、様々な探索を行ったのでしょう。
だからこそ、

「愛されること」、「愛すること」のどちらが幸福か?

を問うた『アウグスツス』という作品が生まれたと考えられます。
このような背景を知っていると、この作品の、一口にはとても名状しがたき奥深さに触れられると思います。

『アウグスツス』を知らない方も、知っている方も、これまでに述べてきたヘルマン・ヘッセの背景に思いを馳せながら読んでみてください。作品そのものに潜むヘッセの探索の過程や、ヘッセの高い感受性を伺わせる文章に対する、より激しい感動が、皆さんの胸を打つこと間違いないでしょう。

 

参考文献
1)岡田尊司『生きるための哲学』(2016)河出文庫 pp.55-83

 

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