疲弊

記事を書かねばならない。

記事を書かねばならない。

そう自分に言い聞かせ続け、一体、何時間が経過しただろう。私は檻の中にいる獣のように、同じ場所をウロウロ歩き回っている。両耳にはイヤホンをさし、そこから安全地帯のベストアルバム『GOLDEN☆BEST』をシャッフルで流している。

私が記事作成に困った際にこうして音楽を聴くのは、ただパソコンの前で鎮座しているだけでは動かぬおのが感情を刺激して、記事の原料となる言葉の欠片かけらを、どうにかして脳内より生出させるためである。

けれども、一向に言葉が出て来ない。音楽がいけないのだろうか。安全地帯は今の私のテンションには合わぬか。

次はAimerの『Penny Rain』にでもしてみようか。と、そこまで考えてみた末、いや、どうもそういう問題でもなさそうだと思うに至る。

私が記事を書けない理由――それは、疲労感と、私という人間の中身の空虚のせいだ。

私の頭が、考えることを拒否しているのである。記事を一つ仕上げるのには、とても頭を使う。私自身の頭がちっとも良くないということもあって、私が記事を一つ仕上げる頃には、決まってグッタリしていることが多い。

おまけに今月から仕事の関係で生活リズムが大きく乱れに乱れ、良質な睡眠の取れていない私の頭は、まるで機能していない。

そんな中でも自らを叩いて鞭打って、今月はタフな環境の中でどうにか以下の5つの記事を書き上げたが、ここまで来て、遂に限界を迎えたというところなのだろうか。非常に無念である。

つまらない大学生活を抜け出し魅力ある人間になるための思考法

「嫌われたくない気持ち」が強い中で人の役に立とうとしても上手く行かない

「ありのままの自分でいい」を信じることが出来ない。

「自分なんて誰からも愛されない」と思ったら心掛けたいこと

「愛される」or「愛する」どっちが幸せ?――ヘルマン・ヘッセ『アウグスツス』に学んでみる

↑これらの5記事は、健康面においては恵まれぬ環境に置かれながらも、どうにか己を奮い立たせて書き上げた記事である。我ながらよく頑張って書いたなと、思わないこともない。

さてもう一つ、私が記事を書けない理由がある。こちらは致命的な要因である。それは「私の人としての中身が乏しいから」である。

私に質の高い人生経験の一つや二つでもあれば、そこから悩んだこと、学んだことを様々な形で記事に落とし込むことができたのだろうが、残念ながら私は、自身の人生の過去27年近く、

・「自分が傷付かないこと」
・「他人からの見られ方」

しか考えて来ず、そのため自分の頭で何かを考え、何かに挑戦した経験や実績といったものに乏しく、そういったものから得られる知見がまるで、積み重なっていない。

そのため、これと言って書くことがないのである。確かに、私には

・「自己否定感」
・「努力について」

という記事を書く上での材料二本柱がある。あることにはあるけれど、それらについては、どうも書き尽くしてしまった感がある。

いや実際に書けることはまだ沢山残っているが、今の私の実力、知識レベルでは、なかなか書き切ることが難しいものばかりである。これらの材料を題材として、一つの価値ある情報の網羅された記事として投稿するには、もう少しお勉強と、人生経験が必要だと思う。私には、人生経験が、圧倒的に不足している。

そんな非常事態を回避する手段の一つが、私が過去に読んだ本の紹介記事を書くことなのだが、これを作成するのもなかなか厳しい状況に置かれている。

一つに、私の頭が考えることを拒否しているという問題。

それから、私が本の内容をよく理解し、その内容の最低限を脳内に留めておく能力に著しく欠けるという問題がある。

私は昨年、『自分に気づく心理学』(加藤諦三著)という「自己否定感の生じるメカニズム」について非常に詳しく、かつ納得のできる解説にて書かれた名著との出会いに感動してから、これまでよりも、より多くの本を読むようになった。そのペースは、この一年間で50冊以上というもので、一般的な社会人の読書ペースより多い。文化庁の平成30年度「国語に関する世論調査」によると、私の読書量は少なくとも上位15%には入るほどの多さのはずだが、私の頭はこの通り、空っぽである。

何故か。

先ほど述べたとおり、私の頭は、本の内容を良く理解し、その内容の最低限さえ、脳内に留めておくことができないからである。
私の頭は、複数の情報を一つのまとまりあるものとして統合処理する能力に著しく欠ける。

更に私の頭は、「抽象」で書かれた情報を日常的な「具体」に落とし込む力、ないしその逆である「具体」を「抽象」に昇華させる力が鍛えられていないから、本を幾ら読んでも、内容をよく理解し、頭に留めておくことができないのである。

そのため、私が本を読み終わると必ず、こうなる。

「この本は面白かった。けれども、何がどう“面白かった”かは、説明できない」

これでは、「本を○冊読んだ」という実績は積み重なっても、中身がまるで伴わない。

読書は、その内容自体を味わうという他にも、そこから得た知見を頭に留め、然る機会において実際に活用することで、自分の血肉になっていくのである。自身の血となり肉となった知見こそ、生きた武器になる。私にはそうした生きた武器が、まるで積み重ならない。ただ、読んだ“冊数”だけが、積み重なっているだけ。それではお金と時間を浪費したというだけで、まるで意味がない。無論、読んだ実績だけを、価値ある記事に昇華することも難しい。

私は、その事実が悔しくてたまらなかった。だから今年の4月からは、そうした

「本を読むだけで、内容が何も頭に残らない事態」

を回避するため、本を読む際は傍らに必ずメモを用意するようにしている。

そして読書中に「これは!」と思った情報の書かれたページを、傍らのメモに記録する。

そして読み終わった後、メモに書かれたページをコピー機にかけて、ひたすら刷る。刷ったら「これは!」と思った箇所に線を引っ張って、ファイリングして保管する。

そして定期的にそれらのスクラップの詰まったファイルを取り出しては、その内容を復習する。

こうすれば、ザルのように大事な知識をすべてシンクに流してしまう私のポンコツ頭でも、少しは有益な情報を記憶することができよう。これで多少は読書をした意味もあるというものである。こうした努力によって作られた記事が、以下の三つである。随分、本で読んだ内容が網羅されていると感じられることと思う。

【なぜ?】人生がつまらないと感じられてしまう理由

人が非行に走る原因と非行少年の心理をまとめてみた

非行少年の更生を目的とする様々なアプローチをまとめてみた【更生の方法】

今の私は、もはや意地になっている。私は、読書を諦めたくない。私のようなザル頭でも、読書を自分の人生に役立てたい。そんな願望が、私にこのような面倒極まりない作業を行わせている。

ところでこれは余談だが、私はそばをゆでる際、そのゆで時間を調べるため包材に記載された
「“ざる”なら○分」
という文言を見る度、自身の頭を揶揄されているように感じる。これは本当のことであり、私は、「ザル」という文字を見ると、いちいち、それらの文言が私の頭に対する当てつけだと思われてしまう。それほど私は、自分の頭に自信がない。

そうこう書いているうちに、耳を流れるアルバムは安全地帯の『GOLDEN☆BEST』からAimerの『Penny Rain』に変わり、今となっては『Penny Rain』も過ぎて、玉置浩二の『ALL TIME BEST』[Disc1]に変わっている。

これも余談になるが、『ALL TIME BEST』を聴くにあたり殆どの人は『田園』『メロディー』に目が行きがちになると思うが、個人的には『行かないで』が一番好きだったりする。終始この曲に流れている底なしの悲しみが、非常に心地良い。ちなみに[Disc2]については、『サーチライト』が至高。まあ、こんなところで語っていたって、仕方のないことか。

…しょうもない記事を書いてしまった。この記事は投稿後数日もすれば、簡単に他の記事群の中に埋もれ、いかなる検索エンジンに引っかかるようなこともなく、そして読者から改めて読み返されるようなこともなく、誰にも認識されぬまま、あまりに広大なインターネットの世界の片隅を、孤独に彷徨うことになるのだろう。

それを知っていながら、私は無残にも、投稿ボタンを押す。これが現状における私の実力だ。大いに嘆けば良い。今の私には、まだまだスキルも足りなければ経験もない。

しかしながら、孤独が運命づけられた本記事にも、唯一の希望がある。それは、

ページの「見やすさ」に拘った

というところ。これまで投稿してきた記事群には、白と黒しか存在しなかった。そんな白黒の世界に彩りを加えることによって、本記事は、随分読みやすいものになったのではないかと考えられる。これまでの記事は、特にスマートフォンにおいて、非常に読みにくかったことと思う。これについて、私は非常に反省しなければならない。読者思いでない単調過ぎる装飾によって、何人の読者を失望させてしまっただろうか。

これからはこの記事のように、サイトの見やすさについても、どんどん改善していこうと思っている。それがこのページの存在している、唯一の意義と、救い。

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