これまでの経緯
本ブログの執筆者である亀井次郎は,心理職を目指し,3年間働いた福祉施設を退職。心理学部卒業後,心理系大学院に入学(入院)し,現在 博士前期課程(修士)2年。ブログを書くのは恐らく4カ月振りとなる。
本記事の目的
読者の皆様への生存報告を兼ねて,私の頭の悪さについて力説すること。
以下 本文
見ての通り,大学院入学(入院)後はほぼブログを書けていない。常に頭の中には「ブログを書きたい」というモチベーションがあるのだが,私には,大学院に通いながら一つの記事を書き上げる時間と能力が足りないのである。
周囲を見渡せば,同じ学生という身分(条件)であるはずの同期,後輩が種々の活動量で私を圧倒しているのを確認することができる。
SNSを開けば,私とは比べ物にならないタスクを抱えているはずの若手実業家なりインフルエンサーなりが,サボることなく定期的に発信活動を続けているのを確認することができる。
一方で,彼ら彼女らよりも時間に余裕のあるはずの私はこの数カ月,ブログ記事一つ書くことができていない。
この歴然たる差は一体,どこから来ているのだろうか?
その答えは
脳
にある。
「君とは頭の出来が違うんだよ」という台詞を聞いたことのある人もいるだろう。まさにそれである。私と他の人とでは,脳の出来に圧倒的な差がある。脳に恵まれなかった私は,何をするにも人様の何倍もの時間と労力を要してしまう。そのため,大学院生活とブログ記事作成の両立が一向に叶わない。
さて,「脳が違う」と言ったはいいものの,何がどう「違う」のだろうか?
今回は3つ挙げていこうと思う。
その① 私の脳は文章の意味を理解できない
私は教科書を読んでも参考書を読んでも論文を読んでも誰かの作ったレジュメを読んでも,その内容の意味を理解することができない。
私の脳は,文字の形と音韻を判別・識別することはできる。すなわち,文字を見てその形を適切に捉えることや,その文字に充てられた音を認識することができる。そのため,文字は書けるし,読むことはできる。読み書きの機能においては私には何ら問題はない。
けれども,その次のステップである「文字の意味理解」のところに私はどうも障害を持っているらしい。文字や文章を見てそのものの持つ「意味」にアクセスすることができない・ないしアクセスに物凄い時間が掛かってしまうわけである。
例を挙げよう。以下の文章を読んで欲しい。
「寝る直前にスマートフォンを見ると画面から発されるブルーライトがメラトニンの分泌を抑制するため,睡眠の質が低下する」
上記の文章を読んで,その意味を理解することが私はできないわけである(正確に言うなら,理解するのに時間が掛かるわけである)。私がこの文章を読んだとして,一見しただけでは,それが何を言っているのかが分からない。そのため,上記の文章を読んでその意味を理解するためには,何度も何度も同じ文章を時間を掛けて読まなければならないのである。
「文字や文章の意味理解の困難」。これがいわゆる私を「頭の悪い人」たらしめている要因の一つである。
その② 私の脳は情報を上手に整理することができない
人は目や耳から入力した情報を上手に整理できるからこそ,その内容を理解したり記憶したりすることができるのである。私には,その能力を著しく欠いている。
私は何らかの文章を読んだり人様の話を聞いたりしたとき,その内容を上手く理解することや記憶することができない。読んだ直後,聞いた直後,私の頭は「真っ白」になってしまう。そこに何が書かれており,眼前の人がさっきまで何を喋っていたのか,その内容が頭に残っていないのである。その原因は①で挙げた「意味へのアクセスの困難」も要因の一つであるが,②で挙げた「情報整理」の問題も,実は大きく関わっているのである。
また同じ文章を例に出すのだが,
「寝る直前にスマートフォンを見ると画面から発されるブルーライトがメラトニンの分泌を抑制するため,睡眠の質が低下する」
という文章を見たとする。この情報を正しく整理できない私は,「寝る直前」「スマートフォン」「ブルーライト」「睡眠の質」「低下」といった文言が互いに関連のあるものとして体系的に整理されず,てんでバラバラの,何の脈絡もない情報として脳内に収納されてしまうのである。
その結果,たとえ上記文章を読んだ直後であっても,例えば私は「スマートフォン」という情報から,何も連想することはできない。上記文章にある情報が相互に関連したものとして整理される“普通の人”であれば,文章を読んだ後に「スマートフォン」という文言を見れば
「スマートフォンを寝る前にいじると睡眠の質が低下する」
といった情報を引き出すことが可能となるわけだが,各情報を何の関連もなくバラバラに処理してしまう私の脳は,「スマートフォン」という文言から何一つ,意味ある情報を連想することができないのである。無論,「低下」という文言を見ても,「何をすると何がどう低下するのか」という肝心な情報が全く出てこず,「頭真っ白状態」に陥り,何も意味あるものを連想することができない。
当然,そのような状態では文章の意味を理解することも,文章の内容を記憶することも難しい。私は以前から,「本を読んでも,その本を閉じた瞬間,何一つ内容を思い出すことができない」といったことを何度も本ブログで嘆いてきたと思うのだが,その原因は恐らくこれである。これでは,他者よりも何かを成し遂げるのに時間が掛かり過ぎてしまい,何かを両立するということが非常に困難になってしまう。
マイナーな表現ではあるが,上記の現象には「中枢性統合の弱さ」という説明が充てられることがある。私の脳みその有するこの「中枢性統合の弱さ」も,私を「頭の悪い人」たらしめている要因の一つなのである。
その③ 私の脳は要約ができない
これは②で挙げた「情報整理(中枢性統合の弱さ)」の部分が大いに関わっているものである。私は本や資料を読み,「つまりこういうこと」「要するにこんなことが書いてあった」という風に,書いてあった内容を要約することができない。
要約とは,目や耳から入力された複数の情報について,それらの関連性を考慮しながら適切に整理し,最もその内容を表している言葉にまとめ上げる作業である。このため,そもそも情報整理を行えない者は要約をすることができない。
要約ができないとどうなるのか。文章を読んでいて「つまりそれが何を言っているのかが分からな」くなる。映画やTVを観ても「それがどのような内容だったのか」「それを観て自分は何を思ったのか」を上手く言語化することができない。人の話を聞いても「つまりその人は何を言いたいのか」「それを聞いて自分は何を思ったのか」を言語化できない。仕事やら実習やら勉強やらをしていても「自分はそもそも何をやっているのか」「それをやることで自分は何を感じているのか」「自分は一体そこから何を得ているのか」といったことを言語化することができない。
すなわち,実際に自身の目の前で起きたことに対して「こういうことがあって,自分はそれについてこんなことを思い・感じ・考え,それに対しどのように向き合い,そこから何を得たのか」といった一連の事象やら現象やらを「つまり,こういうこと」と(要約して)言語化することができないわけである。
すると,どうなるか。
授業の感想を求められて
「私は本日何を学び,そこから何を感じ,考え,何々について疑問を抱いたのでこれこれのことを改めて調べてみようと思った」
といった文章を書くのに鬼のような時間が掛かるし,
実習先で学習したことをレポートせよと指示されて
「実習先はこういうところで,これこれのようなことをしており,そこで私は何々を経験し,そこから何を考え,このような対応をした結果,こうなった」
といった文章を書くことができない。
Aについて自分の考えを述べよと言われて
「自分は普段の生活からこんなことを考えていて,だからAについては賛成である」
といった自身の立場を表明することもできず,
ブログを書こうとして
「自分は大学院でこういうことをやっていてそこから何を考えて,こういうことをしているが結果こうなった」
といった文章を書くことができない,ということになる。
以前,私はブログの中で
「経験したことが経験値として積み重なってきている気がしない」
といったことを書いた記憶があるのだが,これはまさに情報整理(中枢性統合)の弱さから来る「要約の苦手さ」に起因するものなのではないかと考えている。たとえ何か貴重な経験をしても,その経験の持つ種々の意味を整理して言語化することができないので,「その経験をした」以上のことが起こらないわけであるから,そこから新しい何かが生まれようがないわけである。
*
以上のような理由により,私はいわゆる“普通の人(定型発達者)”とは同じだけの労力・時間で発揮できるパフォーマンスの質が著しく落ちてしまうのである。
現に私は,大学院で沢山の情報や経験のシャワーを浴びながら,それらを自分のものにすることができていない。なぜなら,何かを学んでもその内容を理解し,学んだ情報を整理し記憶するのに時間が掛かりすぎるあまり,きちんと消化される前に新たな情報や経験のシャワーを浴びることになってしまうためである。結局,シャワーの水が皮膚に浸透していかないのと同様,折角の知識・経験が自身の皮膚の表面を撫でるだけに留まり,全く血肉になっていかないのである。「経験だけしてそこから何も得ていないボンクラ」,それが私である。
そのため,今の私は大学院で1年半も勉強していながら,大した心理学の知識を持ち合わせていなければ,カウンセリングもまともにできず,カンファレンスでも入学時点と言っていることがほぼ変わらず一向に成長が見られない。泣きたいくらいに,今の私は目に見えた成長が見られない状態にある。
だが
だがしかし,自身の頭の悪さの原因については,日々の分析の成果もあって,ようやくここまで書けるようになった。そこだけ,そこ“だけ”は唯一の成長といっていいように思う。
私が自身の頭の悪さに気付いたのは2014年だった。2015年に知能検査を受け,客観的(統計的かつ医学的?)に自身の頭が,クリニックから診断書が出されるほどに悪いことが明らかとなった。そこから自身の頭の悪さの原因がどういうところから来ているのかを明確に言語化しようと試みたが,特に学習障害の分野は非常に奥深く専門的で理解するのが極めて難しいものがあり,(自身の頭の悪さも手伝って)なかなか綺麗な言語化を行うことができなかった。
が,取り分けこの1年半は,大学院の授業についていけない自分や,テキストを読んでも理解できない自分,ディスカッションについていけない自分,何かを経験しても何も成長が見られない自分を認めるたびに逐一立ち止まり「なぜそうなってしまうのか?」ということについて時間かけてじっくりと考え,時には種々の心理検査(について書かれた専門書)を参考にしながら原因を分析し続け,ようやくここまで自身の頭の悪さを言語化するに至ったわけである。まこと亀の歩みではあるのだが,これも長年の努力の成果といえるだろう。
このようにして一つひとつ,着実に自身の課題と向き合い,対応していくことでQOLは上昇するものと考えている。自身のカウンセリング技術の低さや心理学知識の乏しさ,コミュ障や自己肯定感の低さ,対人不信傾向などの課題についても同様,徹底的に向き合い続け,そう遠くないうちの克服を目指していくつもりである。
それら克服において,恐らく最大のボトルネックとなっていたであろう「自身の頭の悪さ」の原因がこうしてようやく言語化されたことは,自分自身,非常に大きな意味を持っていると考えている。