私は人との間に壁をつくる

人に心を開けない。けれども、自分のことを理解されたい気持ちを人一倍、強く持っている。
傷付くことを恐れ、過度に人を避け続ける一方で、異常なほど人を求めている。
孤独感の正体。それは、このようなアンビバレンスにあるのだろう。

心理的孤独。
どうせいずれ失望される。本当の自分を知られたら、きっと、そっぽを向かれる。――そうした意識が、非常に強い。
自分の中身に全く自信がない。人間性、コミュニケーション、頭の回転の速さに、ことごとく自信がない。自身の存在が人々を喜ばせることのできるものだとは、到底、思われない。

対人関係の軸は、「失望される恐怖」である。
今この瞬間、私に対し好印象を持つ人があったとしても、私のその中身を知られた途端、人は「思っていたのと違う」、「つまらない人間だった」と言い捨てて、その場を去っていくのではないか。そうした恐怖心が、私の対人関係の軸である。だから私は、人との間に壁をつくる。心を開かない。心を開くことは、油断することである。私はつまらない人間なのだ。周囲には理解しかねるほどの、根暗人間なのだ。中身を知られたら終わりだ。油断してはいけない。隙を見せてはならない。警戒心を解いてしまった瞬間が、失望されるときだ。眼前の人々の笑顔が、好意が、期待が、温かな眼差しが、消失するときなのだ。

人とコミュニケーションを取ることは、私にとっては苦痛を伴うものである。
「いつ、失望されてしまうか。」
その恐怖におののきながら、眼前の人の機嫌を損ねぬ振る舞いを、心掛けていく。一つ、二つの失態が命取りだ。常に緊張していなければならない。隙を見せてはいけない。油断してはならない。心を開いてはいけない。「いけない」、「ならない」で雁字搦がんじがらめめとなったその付き合いに、安心感はない。恐怖にまみれた安心感なき対人から逃げ出すように、時に私は、必要最低限の人付き合いからも逃げ出す。そうしてそののちになって、酷い孤独感と自己否定感にさいなまれる。自分から独りになりに行ってどうするのだ。お前は最低限の人付き合いすら、できないのか!

一般的感覚

「失望される恐怖」や「傷付けられる恐怖」というのは、実は一般的な感覚ではないそうだ。大抵の人は、人付き合いに対しそこまで恐怖心を持たない。まこと信じがたいことだが、一般的な感覚というのは、「人からの好意を当然のものとして受け取とることに何の躊躇いもない感覚」だと言う。過度の無理をしなくても、人は自分の存在に失望しない。たった一つや二つの失態が、人からの好意を無に帰させてしまうことなどない。自分と関わる人は、ただ縁あって、楽しくコミュニケーションをしている。それを「当然」のものとして受け取ることのできる感覚。もし、人から理不尽な敵意や失望を示されたとしても、それは「縁がなかった」ものとして、あまり気に留めずにいられる感覚。人からの好意を不必要に確認したり、引き出したり、疑ったりしなくても安心できる感覚。人付き合いによって過度の消耗をせず、いやそれどころかエネルギーすら得ることのできる感覚。人と話すことが楽しい感覚。警戒心の要らない感覚。そして何より大切な、自分の存在は人にとって、理由もなく邪魔になったり迷惑になったりなどしていないという、絶対的な確信。

人とマトモに付き合えない自分自身を、「幼稚」だと思うことが頻繁にある。しかし対人におけるそもそもの前提に、私のような人間とそうでない者の両者間で「人とは警戒すべきものか/そうでないか」や「人とは恐怖すべきものか/そうでないか」等といった違いがあるとすれば、一概に自身を「幼稚」と断言してしまうのも、酷な話である気がする。対人関係に伴う心理的な負担が、両者においてあまりに異なっている。

評価

私は対人関係というものを、「評価されるもの」として捉えている。人は、私という存在が果たして、自身にとって益となるかそうでないかを、品定めしている。もし「益となる」と判断されれば、暫くは関わって貰える。しかし一旦「不要である」と見なされれば、たちどころに背を向けられる。「君には失望した」というサインを、提示される。そうして私は傷付く。「これ以上傷付きたくない」という防衛反応が、過度の他者迎合、自己喪失的な自分自身を創り上げる。人の言動によって、時々刻々、流動するアイデンティティー。そして私は空っぽになった。自分の意思を持たず、人の意見に左右されるばかりの、つまらない人間に成り下がった。

そもそも、私のこうした対人関係の捉え方は、私の歪んだ内面が作り出したものであって、必ずしも事実を語っているわけではない。人は悪くない。自分が悪い。事実はまるで異なったものであるのに、自身の歪曲した内面が、その事実をネガティブな方へねじ曲げ、解釈を屈折させ、そうして実体なき「失望される恐怖心」を作り出している。自分勝手な独り相撲、自滅と言っていいだろう。私は自分で自分の首を絞めている。なにも好きで絞めているわけではないが、過去に傷付いた心が癒えぬ限り、私は以後もこうして自動的、無意識的に、自分の首を絞め続けるのだろう。

葛藤

「そんなことならば人と関わらなければいいじゃないか」とも思う。しかしこれほど警戒心や恐怖心に苛まれながらも、内面では人を求めている。「人付き合いなんていらない」と口では言っておきながら、その裏では人一倍、人を求めている。「無関心」を貫けないのは、心でそれを強く欲しているのと同義だ。心では人を求めていながら、それでも人への警戒心を解くことができないから、葛藤が生まれるのである。「人を求めていながら、その“人”に心を開けない」というアンビバレンスが、苦悩の原因だ。

孤独は楽だが満たされない」――そうした感覚を抱えながら、独りでいることを心から楽しむことなど、どうしてできようか。

人とマトモに付き合っていく方法を、私は知っているつもりである。人からただ「求めているだけ」、「与えられることを要求するだけ」では、いけないのだ。

「自分なんて誰からも愛されない」と思ったら心掛けたいこと

・人から受け入れられたいなら、まずは自分から人を受け入れること。
・人から認められたいなら、まずは自分から人を認めること。
・人から愛されたいなら、まずは自分から人を愛すること。
・人から理解されたいなら、まずは自分から人を理解しようと努めること。

――私はそれを知っている。だから私は一方的に人から求めようとするその姿勢を、改めた。
けれどもこうした、「人から与えられたいなら、まずは自分の方から与えよ」という教訓は、たとえそれが真実であったとしても、私にとっては荷が勝ちすぎていた。自分から与えようと試みても、それが「拒絶されるのではないか」という不安から、身がすくんでしまうのである。会話を始めようにも、「私の話はつまらないのではないか」と怖気づいしまって、とてもでないが人と話す気になれない。どうにか初めの一歩を踏み出しても、次第に不安感は増し、会話が終了する頃にはグッタリしている。私にとって、人と上手く会話することは、その楽しさや喜びよりも、「その瞬間を無難にやり過ごせたことへの安堵感」の方が、余程つよい。会話を始めることは、「自分がその人にとって益のままであるかそうでなくなるか」を審判されることを意味している。会話が無事終了した後の、「今回も評価を下げられずに済んだ」、「今日も関係性を持続させることができた」という安堵感は、次の瞬間には「今度こそ失態を犯し、相手を失望させてしまうのではないか」という不安に変わっている。そんな対人関係の様式を持っていながら、「自分から人へ与える」ことを精力的に行うことは難しかった。私は十分に人に何かを与えられないまま、あまりに早く疲弊してしまった。そうしてまた、自分の殻に閉じこもりたくて仕方なくなってしまった。

自信

・自分に自信を付けて人付き合いの改善を図ることと、
・人付き合いを成功させる中で自信を付けていくこと。

その両軸による自己改善が、今の課題である。しかし気付くと私は、「人から認められるためには完璧超人でないとならない」という思考に囚われている。「欠点ある自分の存在が人から認められること」を信じられないのである。しかし、
「完璧超人でなくても人と認め合うことができること」
「この世には完璧超人などいないこと」
「完璧超人は却って人から好かれないこと」
「人は欠点があるから好かれること」
等の知識群を既に持っているので、自身の完璧超人に対する幻想を、頭の中で否定する。しかし暫くすると、また同じ幻想に囚われている。再度、頭でそれを否定する。繰り返していく内に、いずれ「欠点のある自分など認められるはずがない」という思考が優勢となって、「完璧でない自分はダメな存在だ」というところに落ち着く。なんなら完璧な存在に近付けてしまえばどうかとさえ思うこともある。けれども、「高すぎる理想を自身に課してしまうあまり却って自己否定感を強めてしまうのはいけないこと」という知識を持っているので、その思考も頭で否定する。いつの間にか思考が思考でなくなってくる。そして憂鬱な気持ちを晴らせないまま、一日が過ぎていく。また朝が来る。虚しい気持ちを胸に抱えながら、不安と警戒心いっぱいの一日を、送っていく。私は自滅しているだけだ。私の孤独感は、自滅から来ている。

「社会不適合的気質で辛い」←愛着障害のせいかも

生きることに理由なんて要らないのに

「ありのままの自分でいい」を信じることが出来ない。

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